江別創造舎

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最初の集団移民

2018年05月15日 | 歴史・文化

 開拓使は、官員を派遣して移民を直接募集していましたが、涌谷の場合も同様でした。

 明治4年(1871年)1月、開拓使の広川信義大主典は移民募集のため、大金を携えて函館を出航しました。
2月5日、盛岡、同10日、水沢、そして16日に涌谷に至りました。
その後も仙台、山形などを訪れ、精力的な活動を展開しました。
その結果、このときの募集活動で確保した移民は次のとおりです。

 一.盛岡県岩手郡  43戸  185人  (月寒村)
 一.  同上    39戸  129人  (花畔村)
 一. 登米郡遠田郡   24戸        (対雁村ほか)
 一. 仙台県宮城郡   29戸  124人  (生振村)
 一. 胆沢県水沢の伊達将一郎旧家臣他     (平岸村)

 登米県遠田郡の24戸のうち、21戸が対雁村へ、3戸が生振村(現石狩市)に入植しましたが、以下、彼らの入植までの足跡を駆け足で辿ることにしましょう。

 24戸の出身地・登米県遠田郡馬場谷地村は、現在の宮城県の北東部に位置する涌谷町です。
城跡にある涌谷神社の小高い丘には、伊達騒動で知られる伊達安芸の胸像が据えられ、眼下の一握りの街を睥睨しています。
涌谷の地勢は台地と低地からなり、馬場谷村は、その名のとおり谷地という他ない低湿地帯でした。

 戌辰戦争のあと、涌谷も常陸土浦藩の取締地となりました。
家臣団の集団帰農、北海道移住計画が進められました。
しかし、「寒冷未知の荒野に移住して農業を営むより、住み慣れた土地に帰農」(『涌谷町史』下巻)したいとの反対運動が高まり、計画は土壇場で挫折しました。
この家臣団の挫折の時に前後し、開拓使の召募による農民たちの移住が決まりました。

 彼らが故郷涌谷を後にしたのは、明治4年3月11日のことです。
16日に閉伊郡鍬ヶ崎到着、同25日、そこから海路北海道に向かいました。
一行を運ぶ庚午丸は5日間かけて小樽港に入りました。
ここで暫時休み、一行が札幌に入ったのは、故郷を出発してから25日目、北国もようやく春めく4月6日でした。
しかし、すぐさま対雁に向かうことはなく、札幌での仮小屋に収容され、約1月半ほどとどまりました。
理由は、入植地が確定しなかったためです。
結局、彼らが第一歩を記すのは、6月17日でした。


註 :江別市総務部「新江別市史」117-118頁.
写真:ツイシカリ番屋之圖「再航蝦夷日誌」
 同上書97頁圖2-8複写、掲載いたしております。



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