江別創造舎

地域文化振興活動・江別カルタ制作

煉瓦工場

2019年01月07日 | 歴史・文化

 越後の移民たちが野幌(のっぽろ)に作り上げた村落は、現在のJR野幌駅南口から北広島市域に至る南北に細く、長く続く集落でした。

 その中央を広島街道(現道々江別―恵庭線)が一文字貫き、西側に通称原始林、東側は低地帯が千歳川へ落ち入りました。
まさに、野幌は、森と川に抱かれた村でした。

 この恵まれた自然環境が時には牙をむくこともありました。しかし、それと同等、いやそれ以上に人々の暮らしを支えていたといえます。
 特にもりは、炭焼きに、薪材、用材に加えて冬季の造材人夫の職を与え、賃金を用意しました。その他、灌漑用の貯水池、春秋の山菜、加えて冬の卓越風(北および北西)から、藩屏のごとく村を守り続けました。

 明治31(1898)年、32(1899)年、野幌駅南側1号線に面し、道炭鉱鉄道株式会社野幌煉瓦工場と舘脇煉瓦工場が相次いで操業を開始しました。その後、踵を接し中小の煉瓦工場が軒を連ねました。札幌、小樽に近隣した位置的な利便性もさることながら、原土や労力を加え、のぼり窯の燃料用薪が容易に得られたからに他なりませんでした。

 北炭と舘脇は、大工場でした。両工場で職工、人夫など家族を含め約1千人を数えました。つまりは、野幌・殖民社内に煉瓦工場(職人長屋や共同風呂等を含め)という名の、異質の集落が生まれたのでした。異質とはいえ、どうして農民の生活と生産活動は密接に関わっていました。①薪を大量に買い上げてくれる、②野菜(山菜も含む)の需要も少なくありませんでした。それに、③賃労働(日請人夫、運搬請負)も提供してくれるなど、その影響は図り知れないものでした。

 さらに、煉瓦工場は、農民にサイロや堆肥場、煙突や暗渠用の資材を容易に提供するなど、営農の改善にも少なからずの影響を与えました。もう一つ加えると、関谷、松川らと野幌煉瓦工場の久保兵太郎らの間に俳句会好風会が生まれました。兵村と比べ、野幌・殖民社の特徴的なもののひとつは、こうした「風騒之道ヲ楽シム」(『野幌部楽史』)趣味生活がみられたことでした。


註:江別市総務部「新江別市史」172-173頁.
写真:のぽり窯
 同上書p173掲載写真3-18明治30年代北炭と館脇の2代煉瓦工場進出

ジャンル:
文化
コメント   この記事についてブログを書く
« 堪忍10年 | トップ | 講座写真にみる開拓の姿〜北... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史・文化」カテゴリの最新記事