江別創造舎

地域文化振興活動・江別カルタ制作

貸座敷と寄せ場

2019年03月14日 | 歴史・文化

 街区の形成とともに、そこに娯楽やイアンのための施設ができるのは自然の成り行きでした。

 こうした施設は、すでに幌内鉄道敷設工事中にみられましたが、やがて「従来、数戸の飲食店なるものあり、二十余名の醜業婦を蓄ひ例の如く淫猥の媒酌を為し来り 其醜体実に眼も当てられぬ有様にて」(明治29年5月5日付北海道毎日新聞)、公衆衛生士、風紀上、また治安上も見逃す訳にはいかぬところまできていました。

 明治32年(1899年)9月、かねて申請中の江別村貸座敷免許地として江別村188番地(現在の五条三丁目一画)、2反5畝26坪が認められ、同年11月11日、千歳楼が同20日、寿楼が営業を開始しました。
この一画は、その後六軒町と呼び慣わされ今日に伝わっています。

 この遊郭に、六軒の貸座敷が軒を連ねるのは、大正中期から昭和初頭にかけたほんの一時期です。
大半の期は、2、3軒から4、5軒の店が盛衰を繰り返しました。

 これらの貸座敷は、いずれも娼妓5、6人を抱えた2等格、小規模なものでした。

娼妓たちは、本名、妓名、揚代金、本籍を記した娼妓営業顔を警察分署に提出し、許可を得て座敷に出ましたが、当然のこと彼女たちにはさまざまな悩みがありました。
当時の新聞報道には、「江別の娼妓逃亡」「江別の娼妓川に飛び込む」などの見出しが散見され、盛える街区の翳りの部分を浮き彫りにしました。
 一方、寄せ場における観劇興行も、20年頃手踊子供芝居等の興行あり随分賑ひし」(北海道毎日新聞)でした。

 30年頃から市街地で興行を手がけていた臼井徳四郎の娘 高橋ミサヲによれば寄せ場は自宅の一部でありました。畳敷の客席は60人程を収容しました。
興行は、夜行い、照明はランプ、出演の旅芸人たちの落魄の風体が瞼に残っているといいます。

 ミサヲは、5〜8歳(明治40年代)の頃に札売りをしました。
札は、板歌留多の大きさで、大人は黒で大と、子供は赤で小と書かれていました。
ミサヲが札を売り、その脇で徳四郎が金を受け取っていました。
冬場の暖房は箱火鉢で、客が炭を買うと徳四郎が火種を分けて歩きました

 こうした小さな寄せ場が何か所かあり、さまざまな呼び物が頻繁に行われました。
<一部中略>


註 :江別市総務部「新江別市史」195-196頁.
写真:貸座敷と武蔵楼
 同上書写真4-3を複写・掲載いたしております。


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