慶応3(1867)年、仮樺太島規則が締結され、樺太は両国の雑居地とされました。
しかし、この曖昧な協約は問題を先送りしたに過ぎませんでした。
紛争は、間断なく起こり、やがて明治8(1875)年5月7日「日露樺太千島交換条約が締結されました。
これにより、それまでの雑居地樺太は、ロシア領となりました。その代わり、千島列島18島は、日本領となりました。
交換条約約款第5款は、当該地に住むアイヌは3年以内にロシアか日本のどちらか一方の国籍を選ぶと定めました。二者択一でした。
これが、どれほど周知されたか疑問ですが、松前藩時代から伊達家、栖原家の漁場で働き、活計上はもとより文化的にも親しんでいた一部のアイヌは、苦渋の末、墳墓の地を離れ、日本移住を選びました。
また、混乱のうちに家族との別離、家庭の分離などを強いられた事例も少なく有りませんでした。ただし、一様に、彼らの願いは、宗谷地方に住むことでした。宗谷なら今までどおり漁業で生活をたてられるからです。それに、渡海一日で祖先の眠る墳墓の地に渡れるなど生計上、精神生活上、それは譲れない一点だったのです。
樺太アイヌの108戸、841人が宗谷に向かったのは、8年9月9日(着)の図合船から10月1日(着)の押切船まで、8陣にわたりました。
船は、開拓使が用意した函館丸の他は、伊達、栖原家に任されました。図合船とは、10名から30名前後の小さな船でした。その小さな船が前途定まらぬ不安の中、寒風の身に滲む宗谷海峡を渡ったのでした。
註:江別市総務部「新江別市史」132頁.
写真:宗谷からの再移住に先立ち石狩地方の実地検分を行った模様
同上書133頁写真3-6を複写・掲載致しております。
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