村の運営の中枢は、殖民社でした。
「諸施設から各自の戸籍上の世話、賭博、盗難の取締、衛生等、萬般の全責任を負うた」(『野幌部落史』)。特に江別村が二級町村制を施行するまでの間(明治39年・1906年)、殖民社は役場の代行機関でした。
殖民社は、これらの責任を全うするため、村づくりのため、村民一統の組織や施策を抜かりなく展開しました。
組織のことを言えば、社と移民協議のうえ年番(組長)をおきました。
10戸1組年、1組の中から一人の年番を選出しました。
「年番ハ団体間ニ生ズル事件若クハ区画小作地ニ関シ生ズル事件 其他一般ニ関係セル事件等ニ、常ニ一組ヲ代表シ周旋スルモノ」(『小作経営法』北越殖民社)であり、加えて「会社トノ関係ノミナラズ 公共事業等ニ関シテモ斡旋スルコト」(同前)と、年番の役割は重い。と共に、社の側からのみると、年番制は個々の農民の個別状況に迅速に対応できるように備えたともいえます。
また、村の運営を考えるとき、24年5月竣工の瑞雲寺の存在は見落とせません。
どこの開拓地でも、そこが墳墓の地となり、代を重ねる民には寺院が求められました。
ただ、瑞雲寺は、それのみにとどまりませんでした。「24年全部落136戸連署調印して、国元の宗派の如何を問わず、一様に真宗即ち設立された寺の檀家たることを誓ひ、以後新入地者に対してもこの条件は提出されました」(『野幌部落史』)。
即ち、瑞雲寺は、その誕生の時から村運営の要に位置づけられたのでした。
また、24年8月、関矢孫左衛門は神社地を選定しました。
そこに、隆神之処と記した神標を立て、祭文を奉じ神事を行いました。これが、野幌神社の始まりです。
「弥彦大神ハ 越後国一ノ宮ニシテ越後人ノ創始スル之ヲ奉斉スルハ 基本ニ終ヲ全フスル處也」(既出『北征日乗』明治24年8月25日)。
当初、関矢自身が神主を務めましたが、翌25年菊田章三郎が社掌となりました。
28年には神殿拝殿を建て、改めて郷里越後から弥彦大神の分霊を奉斎しました。
明治24年、寺と神社ができました。
それらは、移民の心を一つにする村の重りでもありました。
気風の異なる人々をまとめあげ、そのエネルギーを村づくりに集中させるためには「申合規約」だけでは足りませんでした。人知人力と共に、神や仏の力を、神仏の装置を、必要としたのでした。
註 :江別市総務部「新江別市史」169-170頁.
写真:明治30年代殖民社事務所から千古園方面を望む
同上書166頁掲載写真3-17を複写・掲載いたしております。
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