江別創造舎

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松浦武四郎の調査

2018年04月14日 | 歴史・文化

 松浦武四郎は、前後6回にわたり蝦夷地を踏みました。

 前3回は自由人としての探検でしたが、安政3年から5年にかけての3回の渡航は、幕府御雇の蝦夷地御用掛としての調査行でした。
安政3年(1856年)には海岸線を一巡して『竹四郎廻浦日記』(以下『廻浦日記』)、同四年には道央・天塩・道南を調査し、『丁巳(ていし)東西蝦夷山川取調日誌』(以下『丁巳日誌』)、同5年には道東・道北・日高を調査し、『戊午東西蝦夷山川取調日誌』(以下『戌午日誌』をあらわしました。

 武四郎は安政3・4・5年といずれの年にも、江別に立ち寄っています。
そこからツイシカリ、エベツブトの記述をかいつまんで見て行きましょう。
 『廻浦日記』によれば、武四郎は安政3年5月8日に石狩運上屋を調査の後、丸木船2艘にて蛇蜒羊腸の大河をのぼりました。
ハツシヤブ、サツホロ、ヒトエ、トウベツなどを過ぎ、ようやくツイシカリに到着しました。

 トイシカリフト
この川口の手前に番屋一棟(梁5間、桁13間半)、板くら5棟、茅くら5棟、雇土人小屋一棟、ユウフツ出稼小屋一、板くら、茅くら一棟づつ有。並みに弁天社、稲荷の社等有、其後に土人小屋78軒、当時乙名ルヒヤンケ小使イカレトメト支配す。
此処運上金即37両、上納別段3両弐歩、着(差)荷物代。産物鮭漁のみにて、上り候ものは鰈、潜竜鮫、ソエ、チカ、桃花魚、鱒、鯇、チライ多しと。
此辺紫葡萄、こくわ、桑、秦皮、蒲柳、李多し。

 ツイシカリは、武四郎が弘化3年に訪れたときより、さらに建物も増え賑やかになっています。
続けて、『廻浦日記』はサツホロ川(旧豊平川)上流の様子についても聞き書きしています。
この川源がシユママツフ川の後方に当たること、上ツイシカリには番屋が一棟、板くら一棟があって土人小屋多く、乙名はイクシノカアイノという者であること、さらに上るとサツポロ岳に到り、この辺りに温泉があることなどです。

 また、トイシカリフトからイヘツフトの間については、「是より川筋いよいよ蜿転して、樹の間より目的と致し候サツホロノホリ、ハツシヤフホリ、シノツノホリ等面揖舵に有かと思はゝ取揖舵に有。艫の方かと思ひの外鷁首の方に相現れ、針位申に筆紙の及ぶ処にあらず」と、川筋が激しく屈曲している様子が描写されています。
 
 明治年間に陸地測量部が発行した20万分の1地図(明治25年輯製)や5万分の1地図(明治29年製版)を見ても、石狩川本流にはそうした屈曲は見られません。
しかし、北東から流れてくるシノツ川が、石狩川と合流する手前で大きく曲流してから石狩川に注いでいます。
いつころまでかは定かではありませんが、このシノツ川下流の曲流部分が元の石狩川の本流だったらしい(『石狩川河道変遷平面一覧図』科学技術庁資源局資料、1960)。


註 :江別市総務部「新江別市史」103-104頁.
写真:ツイシカリ番屋『西蝦夷図巻』
 同上書103頁「図2-10」を複写・掲載致しております。

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