江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

水陸の結節点

2019年04月12日 | 歴史・文化

 明治15(1882)年の幌内鉄道江別駅の開業は、駅に近接の江別川川畔から内陸(月形・雨龍方面)、あるいは石狩方面への石狩川舟運の隆盛を促しました。

  それは、主に内陸沿岸から雑穀や木材を水路で集め、札幌・小樽方面へ陸路(鉄路)で送り出すものでした。

 また同時に、北海道内陸部の土地見分、あるいは内陸へ分け入る移民たちの足溜り場ともなっていました。
例えば、明治19年7月25日、北越殖民社の大河原文蔵らは野幌原始林を踏査のため、「原野歩行スベカラザルト聞キ、幸ヒ漁翁扁船ヲ行カントスルニ会フ。乃チ之ヲ傭テ斗萬別(とまんべつ)ニ遡ル」(『草叢日記』)と江別川々畔より原始林を目指しました。つまり、当時は陸行より水行の方が容易だったのです。

 また、同年8月20日の三島億二郎日記には、午後2時にバラトを蒸気船で出向したと記されています。
「此日好晴、天青ク、気清シ、舟中爽快ヲ賞フ、洋人煙草果物ヲ分ツ(中略)「ツイシカリ」辺リヨリ流勢急ナリ、江別ニ至リ着シハ日没後ナリ、乃知己ノ店ニ投ス、洋客二人モ同店ニ宿ス」(『第二回北遊記』)云々と、江別の位置的な条件が旅館や料理、飲食店などの業を起こし、市街地の発展を勢いづかせたことが分かります。

 上記によると、既に三島は、江別市街に知り合いの旅館をもっていたようです。
舟中同行の二人の洋人も同じ旅館に泊まっています。
そして、三島は、その夜土田政次郎の招待を受け大橋一蔵と共に出かけ、そこで民俗舞踊などを見て夜10時に帰宿しています。
 ここに、仄見えてくるのは、既に江別市街は、人びととの出会いの場であり、交流の場であり、ここから内陸部へと旅立つ足溜りの場でもあったのです。



註:江別市総務部「新江別市史」207-208頁.
写真:史跡石狩川汽船(千歳川堤防脇)


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