富士製紙の江別進出は、産業や経済の発展にとどまりませんでした。
江別における教育、文化、スポーツなどを含めた市民生活全般にわたり、大きな影響を及ぼしました。
大正3年(1914年)7月16日の夕、山内蛙郎宅にて第1回江別富士白扇会句会が開催されました。
出席は無角、切舟、雀子など8名でした。
宿題の青梅、金魚、扇の選評のあと、席題夏柳、蟻の即詠を楽しみ、午前1時30分散会しました。
破顔一笑 膝叩きたる 扇かな 一掬
青梅の 一つ残りし 葉裏かな 無角
白扇句会が刺激になったのでしょう。
同年12月、江別番茶会が青木郭公選で開かれました。
集まったのは、一艿、紅花、舟目など約10名でした。
さらに、同5年7月には江別初日会の開催も伝えられており、大正前期、にわかに座の文芸が賑やかになりました。
江別の最初の句会は、野幌北越殖民社と煉瓦工場を中心にした明治30年(1897年)代半ばの好風会です。
のちに札幌商工会の会頭になる久保兵太郎(北炭野幌煉瓦工場・俳号2瓢)や関谷孫左衛門、さらには「風騒之道ヲ楽シム」(『野幌部落史」)に秀でた松川安次郎らが、「月並句会、献燈句会等を催し、会員の家を宿にして、時には夜を徹する」(同前)ほど熱くなりました。
ただ、どちらかといえば、好風会は北越殖民社と煉瓦工場の指導層、いわば上級階層の人々の集まりでした。
一般農民の参加はなかったですが、好風会の影響は、確実に地域に広がりました。
やがて、殖民社農民の間でも句会が盛んになりました。
下に、大正期における農民句会の模様を抄出します。
大正4年1月 新年句会
4年9月 野幌神社秋季祭献燈句会
4年9月 地神祭夜燈句会
5年3月 雅友会第5回句会
この期、江別市街の番茶会、富士社宅の白扇会、野幌好風会の三つの俳句グループがありました。
その作品の水準はともあれ、伝統文芸を楽しむ仲間たちが存在したことは、この地における精神文化の黎明のときといっても、そう的を外したことにはならないでしょう。
註 :江別市総務部「新江別市史」228-229頁.
写真:貸座敷と武蔵楼
同上書写真4-3を複写・掲載いたしております。