江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

公民館の設置まで

2013年11月20日 | 歴史・文化

 昭和21年、道庁は戦後の復興の一つは社会教育の振興にあるとし、道庁告論第1号を公示しました。
すなわち、告論は、『殊ニ国民道義ノ高揚ヲ計リ文化国家国民タルノ教養ヲ豊カニシ国民体育ノ増強ニ努ムルハ国家ノ急務タリ。ココニ学校教育ト並ビ国民一般ヲ対象トスル社会教育ノ活発ナル養成セラルコト誠ニ切ナルモノアリ』云々、というものでした。

 24年6月、社会教育法が公布されました。
同法は、公民館法といわれるほど公民館関係の条文で占められていましたが、その公民館とは、(1)地域住民のシンボル、(2)社交機関、(3)産業振興の原動力、(4)訓練実習場、(5)文化交流の場、(6)機関、団体の協力機関、(7)郷土振興の基礎的役割、などが期待されました。
約言すると、地域の民主主義の教室がその期待される公民館像といってよいでしょう。

 社会教育法の公布により、各地に公民館設置の気運が高まりました。
江別においても、24年3月の町議会におき「公民館建設基金蓄積条例」が制定されました。
これは、戦後の財政難の折、幅広く町民から建設資金の寄附を募ろうというものでした。
当時、市内の真願寺を拠点に、児童文化活動を行っていた江別児童研究会の指導者の一人、堀田利明は「25、26年頃、自分たちの仲間と有志も加わって、千歳座で公民館の資金づくりの映画会を2,3度開催した』といいます。
公民館は、町民の、特に文化活動を志向する町民においては、1日も早い開設を願わずにはおれない施設の一つでした。

 25年、第1回の全道婦人大会、同青年大会が相次いで開催されました。
この年、江別では公民館条例及び公民館委員会条例が制定されました。
そして、まだ公民館という建物はなくとも、社会教育の振興と地方文化の向上のため、道教委とタイアップして農村を対象に走る公民館を開催しました
翌26年には農村地区に設置した公民館分館を主会場に、町職員がオート三輪車で駆けつけ、映画、幻燈、紙芝居、録音放送、講話などが行われました。

 当時、美原青年団のリーダーであった森田正夫によれば、『映画や幻燈がくると、青年団が各戸に触れ回った。場所は学校の体育館。時期的には、農作業の一段落した10月末か、11月の夕方6時ごろ。青年団が下足のところでアメなんかを売ったりして、団の活動資金にしました。
とにかく、テレビの出る前で娯楽に飢えていたので、会場は人でびっしり』、熱気ムンムンの盛況となりました。

 この間、青年団体の活動は活発を極めました。
そして、27年、江別町婦人団体連絡協議会の結成、28年には第1回江別町婦人大会の開催などを含め、青年・婦人らの活動も活発化しました。

 こうした町民の自主的な活動のうねりを受け、33年、ようやっと公民館の開設にこぎつけました。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」551-552頁.
写真:昭和33年9月に始まった公民館教室
 同上書550頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする