e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

丹波篠山・春日神社「大森彦七 南朝の雄魂に悩まされる図」

2010年10月25日 | 自宅から西へ
ここのところ,我が家の食卓によく「黒豆の枝豆」が登場する。
「黒豆の枝豆」なぁ~
美味しいなぁ~
ビールがすすむ。
「黒豆」と云えば「丹波篠山」。
あの日,丹波篠山の春日神社で見かけた「大森彦七 南朝の雄魂に悩まされる図」の絵馬を思い出した。
@丹波篠山・春日神社の「大森彦七 南朝の雄魂に悩まされる図」と題される絵馬
江戸時代・貞亨4年(1687)篠山藩主松平家の臣・塀和佐内景広が奉納した「大森彦七 南朝の雄魂に悩まされる図」と題される絵馬が掲げてある。
大森彦七盛長は伊予(愛媛県伊予郡砥部荘)の豪族で千里(せり)城城主【鎌倉時代以前からの城で、元弘・建武年間(1331~1336)頃には大森次郎佐衛門盛清・彦七盛長父子の居城、徳川時代の一国一城令で廃城となった】足利尊氏の家臣。建武3年(延元元 1336)5月・湊川の合戦には河野氏等と武家側細川卿律師定禅に付いて、宮方の将:楠木正成を敗死させた報いとして、楠木正成・新田義貞はじめ多くの南朝諸雄の霊魂に悩まされたという。
「太平記」巻第二十三では暦応5年(興国3 1342)頃の不思議の故事として描かれており、浄瑠璃や「鏡獅子・船弁慶・紅葉狩」等に並ぶ歌舞伎十八番の演目にも有り、神社奉納の絵馬の題材ともなって良く知られるところです。
湊川合戦の後・暦応3年(1340)には宮方の新田義貞の弟・義助により制圧されるが、側細川頼春の来援で形勢逆転。
この軍功により新たに数箇所現・伊予郡松前町等を恩賞として賜り、自らも猿楽衆であった彦七は様々な装束を下人に持たせて、砥部の居館を出て新領地に有る玉松山金蓮(こんれん)寺【真言宗智山派智積院 大同3年 (808)河野氏の開創 伊予十二薬師第9番】に 於いて猿楽を演ずる為に重光に入り、を流れる矢取川を渡ろうとして、その川べりに佇む一人の美女が川を渡れずに難渋しています。
斯かる田舎に・か様な美女が・何れより来て何処へ行こうとしているのか?・・・とあやしんだが、打ち萎れた美女の姿に惹かれ心ならずも、彦七は美女を背負って川を渡ります。ところが途中で美女が急に重くなったので不審に思い、明かりで川面に映った美女の姿を見ると、なんとそれは鬼の顔だった。
鬼は楠木正成の怨霊だといい、彦七の腰の刀を奪おうとします。彦七は鬼を退散させるが、後に足利尊氏の弟・直義に事の顛末を報告するとともに、その刀を献上したという。

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