e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

伏見の酒

2012年01月05日 | 
豊かな自然風土に育まれ、京文化に磨きあげられた伏見の酒。
その歴史は古く、日本に稲作が伝わった弥生時代に始まったとされています。
以来、脈々と受け継がれてきた酒造りの伝統が花開いたのは、安土桃山(伏見)時代のこと。
天下統一を果たした豊臣秀吉の伏見城築城とともに伏見の町は城下町として大きく栄え、京・大坂・堺に次ぐ人口6万人の大都市を形成しました。酒の需要も急激に高まるなかで、さらに改良も加えられ伏見の酒も一躍脚光を浴びるようになりました。
さらに、江戸時代になると、伏見は港町として発展し、とくに伏見と大坂天満の間に三十石船が上り下りするようになってからは多くの旅人が上陸し、伏見の酒は旅人の口コミで売れてゆきました。
やがて寛永十二年(1635年)参勤交代制度ができると、西国大名は大坂から船で伏見港に上陸し、しばらく逗留して、あらためて大名行列を整え東海道を江戸へ下っていくようになりました。このため伏見には多くの大名屋敷・倉庫・旅籠がならび、西国と東国を結ぶ重要な拠点となりました。造り酒屋の数も急増し、酒株制度のできた明暦三年(1657年)には酒造家83軒、造石高15611石と記録されています。
しかし、米が何よりも貴重であった時代、豊作・凶作による米価の変動を防ぐため酒の造石高は幕府により制限をうけ、経営困難になる蔵が続出しました。さらに幕府は灘や伊丹、池田を幕府直轄の酒造地として手厚く保護し、京の町へ伏見の酒が入ることを禁止したため、ますます伏見の造り酒屋は減っていきました。
幕末、天保年間(1830-43年)には、灘が40万石の生産量を誇ったのに対し、伏見は明暦の頃に比べると造石高は半減し、造り酒屋も三分の一以下になっていました。
しかも、明暦から幕末まで生きながらえ酒造業を続けてきたのは、たった二軒だけでした。その一軒が鮒屋こと北川本家で、もう一軒は笠置屋(現在の月桂冠)です。
伏見の酒の苦悩の時代はまだ続き、勤皇と佐幕に分かれて激しく衝突した「鳥羽・伏見の戦い」の巻き添えで、酒蔵のほとんど消失しました。
そして、明治になって伏見の酒は昔の勢いを盛り返し、天下の酒どころとして全国にその名をとどろかせるようになったのです。明治四十四年には農商務省主催の全国清酒品評会で出品28点のうち,入賞23点と全国最高位を占め、なかでも月桂冠は最優等の栄冠を博し、灘をアッといわせました。

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