2009年10月30日 mixi blog より
亮へ
今朝のNHKの生出演お疲れさま。
亮という人間があらわれていて、感激した。
ありがとう。
今日のブログは、あなたのことについて、正直にふりかえさせておくれ・・・。
平尾 亮という男・・
実は亮とは、高校時代の同級生でしかも、同じ陸上部で短距離を専門をしているという面でも同じ立場のやつだった。
あえて、やつと表現したのは、高校時代の彼とは深い溝があったからだ。
頑固で、無愛想、むさくるしいぐらいの正義感、泥臭いぐらいの努力をひたむきにやる男が、その当時うっとうしくて、絶対負けられない男の存在だった。
足首におもりを巻きつけて、通学して、そのまま走ってたり、短距離やのに、長い距離をオマエは長距離部なのかとおもうぐらい走っていたり、あと、タイヤを引いて練習するのは俺もやったりしたが、それをオマエは一体なん往復するんだ!!もう一回いうが、短距離なんだぞ!!
その当時のおれは、亮の練習方法に対して、本当に意味がわからなく、たまにそれに付き合わないといけない状況になるのが、ゆるせなく、はらただしかったのを思い出した。
"おい! 俺たちは短距離を速くなろうとしてるんやぞ、なんでそんな練習の仕方になるんや"と反発していた。
おれはそんな雰囲気と練習方法がいやでたまらず、一人離れて練習するようなこともするようになっていた。
2年生ぐらいから、自分の成績が急激に伸び始め、2年生で近畿大会にでたりしたことで、なおさら、自分は陸上部全体での練習に集中しなくなり、いかに自分が速くなるのか考えて行動し、よく1人で練習するようになっていた。
いかに、効率よく、合理的に速くなるためにはどうしたらいいのか、そんなことばかりいつも考えていた。
このように、全く亮とは、考え方が違いすぎた。
でも、おれはどこかでほんとに亮は憎めない人であることにも気づいていた。
向かう方法は全く違うんだが、このむさくるしいエネルギーに共感していたのだと思う。
当時、陸上の成績では、私の方が速かったのだけど、実際、亮に勝っているとはどうしても思えない自分がいたことも事実だった。
その当時から"亮は絶対に将来どこでも生きていける人間だ"と確信もしていたのだから。
それに対して、自分は生きるということに対して、臆病で将来に、ものすごい不安と恐怖があった。
今、おもうと亮に人の生き様を見せつけられ、どこかで自分の生き方におびえていたのかもしれない。
案の上、私は陸上部を引退した3年生の10月から、自分という存在に向き合うことが怖くなり、逃げはじめた人生をそれから、23歳まで送ることになる。
その5年間については、またどこかでお話しします。
高校を卒業してから、亮とも会う機会が減っていたんですが、なんとまた、大学の試合で会うことになった。
その当時は違う大学だったし、他府県だったので、試合であっても話をした感じでもなかった。
ある日、高校の友達から電話があり、亮が事故にあったという連絡だった。
まだまだ、わだかまりありまくりではあったが、友達と一緒に山科にある病院までいった。
そこには、ものすごい事故にあった亮がいた。
片足の下腿断裂。
名神高速道路でバイクで転倒、後続のトラックにひかれたという。
唖然 だった。
そのとき、私が亮にかける言葉がなかったのは言うまでもない。
それからずっと、33歳まであっていなかったのだが、数ヶ月前の高校の陸上部の同窓会で再会したのである。
1次会では、話しもしなかったが、2次会がなんと亮も含めて3人でいくことになった。
でも、当時ずっと抱えていた、わだかまりは全く自分の中になく、逆に自分でも不思議な感覚だった。
なんとさいごは、朝方2人で、タクシーにも乗らず、私は自転車を押し、亮は松葉杖でひたすら、1時間ぐらい歩きながらかえった。
そのとき、とりとめもない話をしながら、帰った。
自宅に着いたとき、私は亮がしていることやったら、無条件で何でも手伝いたいと思っていた。
平尾 亮という男に 出会えて 感謝です。
あと、これまで、読んでいただいた方に、もうひとつだけ観てもらいたいものがあります。
是非、みてください。
よろしくお願いします。
http://leepi.milkcafe.to/gekisen-vtr/index.htm
平成14年1月10日 夕方
関西テレビ
「スーパーニュース ほっと関西」