秋に思うこと

2006年10月17日 23時54分05秒 | 考えるふっき~
もしいま、このブログを読んでくれている人がいるなら、ひとつだけ言いたいことがあります。
それは―決して自らの命を絶たないでほしいということ。

いつもいるはずの、あるはずの人やものがふとなくなったとき、何を思うのかな、なんて。
つらいな…悲しいな…そういうものなのかな、なんて。

兄弟3人がそろっていたころの写真がふと出てきて、昔を思い出してしまった。
そういえば、あんな思い出に、こんな思い出。
いま思えば、どうしてあんなことをしてしまったのかな、なんて思うこととか。
いまだったら、素直に謝れるのに、もう、姉貴は声の届く世界にはいない。
そう思えば思うほど、悲しいとか、つらいとか、そんなんじゃなくって、
なぜか楽しかったこととか、いい部分だけが思い出されてしまう。
なんでだろう、どうしてなのかなぁ?
僕がひとりを好むのは、そういう状況で家族が嫌いになったからだと思ってた。
中学を出たら、もう家族とできる限りのかかわりなんて持ちたくないなんて思ってた。
姉貴が死んだ高2の秋のことは、いまも事細かに覚えている。
あの夜、見ていたテレビも、呼んだタクシーの運転手の名前も、飛び乗った電車の行き先も。
乗り換えた鶴舞線で、たった9駅の距離がどれだけ長く感じられたか。
地下鉄の改札を走り抜けたとき、静かなその病院の大きな建物を前にしたとき、
まわりにはもう誰もいない気がした。
自分だけがその世界に取り残されてしまった気がした。

夜の国道19号線を走る。
いつもは気づかなかったあの高台の学校の明かり。
いつもは見えなかったスーパーマーケットの裏の駅。
そして、いつもは聞こえなかった君の声。
この道をずっと走っていけば、あのふるさとへ続いていることは知っている。
そして、大都会の真ん中の、鎮守の杜まで行けることを知っている。

どうしてそのとき振り返らなかった?
どうしてそのとき、振り返ったあげられなかった?

走って、走って、走って、走って。
どこまでも続くアスファルトと、その真ん中のオレンジのライン。
ダムのほとり。
国道のパーキング。
トンネルのナトリウム灯。

叶うことなら、もう一度、夜ひとりで、地下鉄に乗ってあの改札を抜けてみたい。
大きな公園と、大きな図書館と、そして大きな病院があるあの駅から、ひとり地上に這い上がる。
そして、あの日と同じように、白い息を夜空いっぱいに吐き出して、「そこ」まで走る。

いまどうしていますか?僕のこと、覚えていますか?