空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

平常心?

2011年09月21日 11時29分52秒 | 思考試行

心境の変化ということがある。小生の場合も、ここ最近であるが、「落ち着いた自分」の存在に、始めて気付いたような経験をした。そして、そういう目で他者をみると、なんということか、その心理的な状態が、落ち着いているとか、そうでないとか、少しわかる様な気がするのである。

いままで、区別して考えてはいなかったらしい。そういう見方そのものをしていなかったようにも思う。見えていない、見抜けていないという感じである。

道を歩いていて、そんな気分をチョット感じたのが、きっかけである。それ以後、どういうわけか、自分の声の出し方であったり、人の声についても観察するような自分がいる。

いつも意地悪くみるというのでもないが、どこか観察している自分がいるのである。これが「年」ということなのだろうか。いや、どうもひとくくりにはできそうもない。自分の感覚も変わるだろうし、結論的にいうことなどできない。

それでも、少し誇らしいような、もう若くはないという自覚のような、そんな気分のなかにいる。


いい人間になった気分

2011年09月20日 12時43分38秒 | 思考試行

車を運転していると、横の道路から車が出ようとしている。譲ってあげて、自分の車の前に入ってもらうと、会釈をされる。当然のことだが、そこに気持ちのいい相互の交流がある。

しばらく行くと、狭い道路で、車に乗ろうとしている人がいる。これも、車の速度を緩めて、ドアを開けやすく乗り込みやすいように、ちょっとした配慮をする。と、その人もまた、手をあげて会釈される。こちらも、軽く頭を下げる。

こういうことが、連続すると、善意が交流している世界のなかで、自分がまさにそれを作り出している人間であることの喜びを感じる。まずは、自分のチョットした譲りがあったのは、まぎれもない事実だから、それは、確信がもてる。

そして、それを受けてくれた人の謝意が、こちらのちょっとした「譲り」に倍するものとなって、こちらへ伝わってくる。

なんでもないことの中に、心温まる。これは幸せである。人生にはいいこともある。

そんな風にしても、まったく謝意を示さない人もいる。それでも構わない。いつの日か、みんながそうなれば世界は変わる。まだ、世の中は完成してはいない、それが実態なのだ。怒っていては、ダメなんだと。

なにやらいい人間になった気分がする。テヘ!


もちつもたれつ

2011年09月20日 12時16分07秒 | 思考試行

人間関係は、結局のところ、「もちつもたれつ」ではないだろうか。富や、「いいこと」を、独占していては、その本人のみならず、周囲の人にとっても、いいことではない。

ゆずるところはゆずり、与えあうことによって、人間社会は豊かに、のどかに、心地よく住める。逆の場合は、緊張の連続であり、いつまでも安泰せず、落ち着ける世界ではない。

これからの人間は、どのように生存スタイルを作り上げていくだろうか。それは、戦いの連続を好むのか、それとも共生の道をさぐっていくのか。

ある分野では、厳しい競争原理をあくまで追求するけれども、根本的なところでは、人間的な新しい工夫がされて、共生のための仕組みが構築されていくのではないか。それは、しばるものではなくて、それぞれが、その境地へとすすむことに納得し、そこに矛盾のないことが確認できなければならない。

ある種の結論めいたものが、共生の仕組みの根本に根ざすことが可能になる気がする。

他者のことは関係ない、というのではなく、また相互関係のなかでの個が、お互いをしばりあうというのでもなく、より自由になりうる価値観が共有されるときに、多様性のある世界ができるのではないか。

その具体的な表われの一つが、「もちつもたれつ」ではないだろうか。


歴史と文化について

2011年09月19日 11時47分38秒 | 思考試行

放送大学の10月からの受講科目を、「イスラーム世界の歴史的展開」「アメリカの歴史と文化」「ヨーロッパの歴史と文化」の三科目とした。

それぞれ15章あって、それぞれ、2章ほど目を通した。例年にない早いペースである。けっこう面白いのである。知らないことばかりであるが、わかりやすい。

歴史は、まったく興味なしできたが、この2章を読んだだけで、もっと以前にやるべきであったという感想がでてくる。高校時代は、実業高校だったから、国家試験対策ばかりで、面白さというのは感じたことがなかったし、放送大学も、そのつど、それなりのガマンをしながらやってきた側面もあり、こんな具合に、面白いというのは、おそらく始めてではないだろうか。

断片的な知識はあっても、体系的に教えてもらえるのは、始めてだし、なにより、最近の事情を踏まえながらの内容になっている。しかも、それぞれが関連しており、このように、関連科目を集中してとると、相互に補完しあう効果もあって、効率的なのである。

通信指導問題も送付されてきており、やる気を出しさえすれば「ちょっと磨きがかかる」予感がある。ナンチャッテ!

 


富の分配について

2011年09月18日 09時53分34秒 | 思考試行

富裕層は、相対的に自分が豊かであることが、あたりまえであり、貧困層の人のことは、敗者であり怠け者であり、そんな人達のことは知ったことではない、というぐらいに考えているのかもしれない。

そういう声を、富裕層の人から、ナマの声できいたこともある。無理をして言っているのではなく、自然の調子である。

思いやるとか、想像するとか、そういう思考回路が欠如しているといえばいいだろうか。現在の社会の仕組みは、金持ちがあらゆる意味で、都合よくできている。金を持てば持つほど有利にはたらき、さらに、金が得やすくなる。社会的地位は高く扱われ、名誉もついてくる。

いったん、非正規雇用となれば、そこから正規労働者になることは、難しい。貧困からの脱出が難しいのである。政治は、そのあたりについては、まことに不充分である。本気で貧困層への対策を考えてはいないようにみえる。

政権交代を実現した民主党は、弱者向けの政策をやろうとしても、自民党は、ことごとく邪魔をしてきた。

「バラマキ」といい、まるで、無駄のことのように言う。実際に実行すれば、今までとは違う効果もあるはずなのに、そうはさせない。

富裕層は、寄付であるとか、富の分配について主体的に考えることを始めなければならない。そして、やるべきことを実行すべきである。人間として人間らしく生きるために。

 


楽しみの発見

2011年09月17日 23時56分54秒 | 思考試行

今回、放送大学の科目登録をヨーロッパ、イスラーム、アメリカの歴史もの三科目とした。歴史はいままでやったことがなく、あまり触れることがなかったが、教材がとどいたので、早速、読み始めると、意外と面白い。

特に、イスラムの場合は、ほとんど知識がないにひとしく、16億人といわれる信者数は、オドロキである。日本が、世界からみれば特殊だといわれる意味がわかる。これほどの信者数がいて、それでも知らなかったのだから、いかにこちらが特殊かといわれてもしかたがない。

それに始まりが、6世紀ということで、意外に遅く、しかもキリスト教、ユダヤ教とも関連しているので、宗教観について、全然認識ができていないことを知った。

知らないことを知るというのは、本当に楽しみである。9.11以降、イスラム関係の勉強は、ぜひしたいと思っていたが、ようやく始まる。楽しみなことである。放送大学は、10月から新学期が始まる。


我勝ちの競争はいるのか

2011年09月17日 12時24分43秒 | 思考試行

生物界の様子は、ギリギリの戦いの連続ではなさそうである。木の枝からボチャンと飛び込むだけで、川に溢れている魚をとって暮らしていた鳥もいたとか。これは、相当昔の話であるが、放送大学で出てきたはなしである。生物考古学かなんかの分野で発見されているらしい。

獲られるほうも、獲るほうも余裕があるというか、長閑なところがある。それが、環境の変化によって生存できなくなり、淘汰されていく。

隕石の衝突によって、気候の激変があって、恐竜が絶滅した話はいまや常識のようであるが、人間の手にする科学技術の進歩は、とどまるところを知らず、この世の仕組みを、さまざまに明らかにしつつ、自らも滅ぼすことが可能な技術を手にするところまできた。

いまや、その意志しだいで、いつでも全存在さえ消すことが可能なのである。思うさまの贅沢をむさぼり、欲望の限りに生きているものがいて、一方では、生存もままならず、不条理な世界に生きるものもいる。

混然となって、時はすぎていく。個々人は、その棲む世界のなかで、なるべく混乱を生じないような選択をするのが普通であるが、なかには、やむにやまれぬ人も出てくる。

それは、論理で納得できるものかどうか、見捨てられ、強烈な憎しみをいだくとき、爆発もありうる。こういうものが、先の技術を手にしたときにどうするだろうか。

所詮は、人間存在がなくなったとしても、宇宙的には、どれほどの意味があるかといえば、どうでもいいことなのかもしれない。そうはいいながら、地球大気圏のうすい層のなかで、奇跡的に生きている存在としては、可能なかぎり、丁寧に生きていきたいものである。どこまで行けるのかそれは誰にもわからないけれど。

そう考えると、人間の生き方について、相当な多様性があっていいではないかと思えるのである。


誠実にとりくむならば

2011年09月17日 09時20分52秒 | 思考試行

野田首相の姿勢は、誠実にみえる。少なくとも、そう心がけていることがわかる。弱者のことも頭にあるみたいである。自身が裕福な家庭に育ったわけではない。

会期問題で、またぞろ自民党の総攻撃が始まるとみえたが、これを受け入れたことで、ペースができつつある。自民党は拍子抜けの顔をしている。

ただ準備不足を言い訳にしていたようだから、予算委員会での審議がうまくすすむのかどうか一抹の不安がある。それは、やるなかで改善していくほかないのだろう。被災者のことを、常に念頭におきながら、課題を着実にこなしていってほしいと思う。

課題が徐々に明確になってきているようにみえる。デフレ脱却のためには、景気をよくしなければならないが、それには、企業優遇だけではなく、富の分配の問題もあげなければならない。

いまや、貧困ビジネスがはびこり、生活保護受給者をくいものにする暴力団もあるという。人間の尊厳を守るためには、方策がいる。単に金銭を支給するだけではなく、仕組みの提供も必要である。

職業訓練ばかりではなく、勉強したい人には、その機会を準備し、奉仕活動をしたい人には、報酬を支給してそういう仕事につくこともできるようにするとか、林業、農業、介護の分野などにも、従事できるような仕組みを導入したらどうだろうか。

誰もが、困難に遭遇する可能性がある。そのときのうまい方策が準備されていることが、人間社会にとって、有用ではないだろうか。そのために、財政面で、富裕層が活躍するならば、人間社会もすてたものではなくなる。

 


自民党の質問が一番・・ダメだなあ

2011年09月16日 16時09分44秒 | 思考試行

事実を捻じ曲げる言い方が目立つ。

菅内閣のことを、評価する言い方が、事実と違っている。自民党が協力せず、事態をすすませないできたのにそれを菅内閣のせいにする。

これは、最悪の事実捻じ曲げである。かなりの人が騙されているようだ。

しかし、野田氏に変わって、支持率が大幅にアップしたのは、自民党に一定のショックを与えたようではある。

今日の参議院代表質問でも、自民党席からヤジを連続して飛ばしているものがいる。ヒドイものである。それにしても、野田首相は、徹底的に「正心誠意」でいくつもりだろう。今まではどうだったのか解らないが、首相になった今、自分のスタイルを実行している。

まずは、国旗にお辞儀をし、議長席にお辞儀をし、質問者の席をみて、どうやら目を合わせようとしている。そして、会釈をして、答弁にはいる。これは、今まで見たことのない「作法」である。

それでも、自民党は隙あらばの姿勢に変化はない。その姿勢が質問内容に反映される。中味がない。低レベルである。


世界経済について

2011年09月16日 10時45分02秒 | 思考試行

昨日のBSフジのプライムニュースは、アメリカ、ヨーロッパの経済状態とそれに関わる日本経済の問題が取り上げられていた。

同志社大学院教授の浜氏は、日本の場合、分配に問題ありと指摘した。非正規雇用など貧しい人が、存在していることそのものを問題にした。まさに、同感である。

世界経済についても、「君富論」を提言した。ワレガワレガではなく、あなたがよければ・・・の立場にたって、国際問題を考えるという話である。

かつて大恐慌のときには、我勝ちに自分本位の道を各国がとったという。その轍をふんではならないという。国際会議の動向など、あまり注視していなかったが、なるほどと思った。

いずれの分野でも、自己本位、自分本位で、競争一点張りでは、うまくいかないことが解る。人間社会が、まだまだ完成していなくて、いかにも低レベルにあることを思い知らされる。

国際的に、どのような対策が講じられていくのか注視していきたい。自由な競争だけではうまくはいかないのだ。


議場風景を見ていると・・・

2011年09月15日 08時51分36秒 | 思考試行

野党だから、与党に利することは一切してはならない、とでも考えているのだろうか。議場の石原氏は、隣の小池女史となにやら楽しそうに談笑しているかと思えば、眉吊り上げてヤジを飛ばしている。彼の頭の中は、敵意むき出しの闘争心でイッパイのようにみえる。あの顔は、被災者のことを、真剣に考えているようにはみえない。

それにしても、議場を撮影していることを議員諸侯は知らないのだろうか。考えてみれば、この風景を見ることは議員はできないわけで、そうだとすれば、想像力がないのか、グダグダの議員がいる。どうみても寝ているとしかみえないものもいる。「教壇」からみればチョークが飛んできそうな態度のものがいる。

本会議場での議員は、観客だからいい加減に聞こうが、真剣に聞こうが、外見では、あまり意味がないようにしかみえない。それでも、態度がいかにも寝ているとしか見えないような議員ばかりであれば、なんのための国会だろうかと思わざるをえない。

しょっちゅうリセキしている議員もいる。何をしているのだろうか。議員報酬は、ぐっと下げるべきではないだろうか。議員という職業は、単に富を求めたり権力を求めたりする人は、適格性に欠けるのは言うまでもない。しかし実態は一か八かの勝負を賭けるような職業になっている。

当選すれば、勝ちであり、権力、富、名誉がついてくる。落選すれば、すべてを失う。政治家が、志高くあればその国のみならず、世界にとってもいいのは、はっきりしている。政治の世界を目指す人々のあるべき姿が、はっきりと、見えてこないといけない気がする。

議場で、単に観客と化している議員は、所在無げであり、どこか哀れである。懸命に発言を聞きながら、何事が思索しながら次の方策を練っているというようであって欲しいと思うのだが、それは無理だろうか。役職についた議員だけが元気でおれるのだとすれば、寂しいことである。


自民党のとるべき道

2011年09月14日 08時27分45秒 | 思考試行

野田政権が発足したものの、自民党は協力するどころか、さっそく攻撃姿勢を鮮明にしてきている。会期をめぐって、予算委員会を開けという。民主の本音は準備不足にあると言われる。

さもあらんと思う。準備をさせないで、立ち往生をさせようという魂胆なのだろうか。今まで、どんなに協議を持ちかけても、協力しなかったのが、相手が準備不充分とみれば、ヤイヤイと言ってくる。

自民党は、政権時代には、大臣なんて誰でもできる存在であった。官僚のレールに乗るだけだからふんぞり返っていればよかったのである。民主になって、政治主導を貫徹しようとしてきたから、大臣は実力が試される。菅さんなどは、超人的な答弁力といえた。こんなことは誰でも出来るとは思えない。

それでも、「テスト」を突然しかけてくる。少しでも「疎い」なんて言おうものならマスコミを含めて、悪口雑言の集中砲火をあびることとなる。貶め、誹謗し、犯罪者扱いである。まことにガラの悪い「お人柄」を散々みせてくれた。

菅さんが、やめさえすれば、すべてはうまくいくみたいな雰囲気を自民党は出した。マスコミも同調した。こういう連中は、許しがたい卑怯な本質を隠そうともしない。決して忘れてはならない。気を許してはいけない。野田首相は、協力を得なければ、何事も進まないことを承知している。頭ならいくらでも下げるつもりのようだ。事実、協力してもらえなければ何もできないことを、熟知しており被災者のためには、なんでもするという姿勢がみえる。

自民党は、本気でこれに応えなければならない。それで、始めて人間らしくなれるというものだ。それができるかどうか、石原トッチャンボーヤの顔つき、大島悪代官の目つきをみていると、「期待薄」であるが、さて、どうするつもりか、自民党よ、お前たちが今試されている。


滋賀県今津の「サンブリッジホテル」の夕食は抜群だった!

2011年09月13日 16時57分46秒 | 思考試行

料理がさきか、値段が先か、といえば通常は価格設定があって、それに見合う食材の設定があって、調理の方法の検討があって、完成させると思うのだが、ここに、いい食材があって、これを生かすにはどうすればいいかの検討があって、最終的に価格が決まったのではと思わせられるほど、美味で完成度の高い料理であった。手間を惜しまず、食材も「抑えてはいず」旬のものを、の姿勢がある。

おりしも仲秋の名月とあって、料理の名前が「観月会席」とある。料理人の名前も書かれてある。大槻哲也氏である。料理人の名前入りというのも始めてみた。今まで、随分食事をしてきたが、恐らく最高ではないかと思う。

まさに芸術である。自分もしっかりと「努力」しないと、と思わされる。

シーズンオフでしかも平日とあって、ホテルは空いていた。それでも、この料理は手を抜いてはいない。久しぶりに禁酒を中止し、料理を満喫させてもらった。これだけの料理をだして、経営はどうなんだろうか。是非また行きたいものである。


テレビで「砂の器」をみた

2011年09月12日 08時32分51秒 | 思考試行

昔にみた映画とは、また違う。逮捕後の犯人を取調べる場面が重視されている。また、作曲家の作品そのもの、自供に追い込む取調べの刑事の生い立ちが語られ、父親が書いた絵とその裏に書かれた文章の力が語られる。

筋は知っているし、既視感があって、比較しながらみているのだが、それでも感動する。名作といわれる所以だろう。いろいろな描き方が可能なのである。

松本作品は、社会、人生の営みを題材にしているから、夢物語ではないし、ノンフィクションの香りさえある。

松本氏は、生前何処へ行っても、そこにいる人に、詳細な質問をしていたらしい。作家の姿勢が作品にそのまま現れている。現実に根ざしている作品であり、高邁な哲学を語るというのではないが、新しい分野を切り開いた作家である。

どこかで、読んだことがあるが、三島由紀夫などは、松本作品を、文学とは認めていないと言っていたらしい。

「金閣寺」をガマンしながら読んだが、作品の雰囲気は、確かに全然違う。松本作品は身近であり、生活に近いが、金閣寺にはそんな感じはない。特段の感動もない。しかし、そこにも「世界」がある。

結局は、どちらもいいと思う。片方だけでは、寂しい。いろいろあってうれしいのである。贅沢なものである。


テロとのたたかい?

2011年09月12日 07時59分14秒 | 思考試行

テロが起こる原因は、人間相互の関係のなかで、復讐であったり、当事者への不都合を感じている者が、行動するのであり、背景には動機がある。当事者になくても、説得されたり影響を受けてそういう行動に同調するものもいるだろう。

対策は、もっぱらそういう動きをしているものがいないかどうか、常に把握しようとする方法が、普通なのだろうが、それで、完全にテロ活動が封殺されるとは思えない。人間を監視するのに限界があるだろうし、人の行動、考えを全部把握するなんて可能とは思えない。

テロリストは大きな犠牲を伴うわけだし、人生を捨てて、しかも、前向きな普通の人間の動機があるわけではない。怒り、復讐、通常なら誰もが持ちたくない感情を保ち続けて、実際の行動につなげるのだから、幸せとはいえないだろう。

日本でも先の大戦では、特攻隊があり、多くの人命が失われた。当事者になった人々は、どのような心境であったろうか。特攻隊はテロではないが、命を捨ててことにあたるという、生きる可能性のない行動をするという点では共通する。

生きとし生けるものが、お互いを尊重し、助け合って生きる世界であれば、テロなんて起こる余地はない。対立をあたりまえとし、企図しているものがいる。ここに、本当の原因がある。それは、テロを抑圧しようとする勢力こそがテロの起こる原因を作り出しているとみえる。

なぜテロにたちあがるのかの原因をつぶさに調べるならば、そこへ人々を追い込んでいった事情があるはずである。それを語らず、「対策」をいうのは、オオウソツキである。