「サンキュー安倍」は、「ノー安倍」より強烈である。韓国と敵対してくれてありがとう、経済的にも技術的にも日本に従属している現実に気づかせてくれてありがとう、日本の本音を教えてくれてありがとう、と言うことだろう。本音というのは、日本は歴史問題を直視せず、植民地支配を反省せず、韓国に対しては上から目線だということだ。
民主化以降、韓国ではNGO・NPOによる草の根市民運動が盛んになり、市民社会の発展が目覚ましい。市民社会の発展は、植民地支配について「日本が悪かった」といった単純な理解から脱却し、歴史上の韓国社会の構造的な問題も深く認識するようになった。彼らは、独裁政権が「親日派」「親日行為」の問題を明らかにせず、日本に対する十分な責任追及をすることなく、国民に真実を隠した状態で植民地問題を「金で解決」したことそのものを、問題視するようになった。
「サンキュー安倍」は日韓対立によって、「親日派」の構造的問題を浮き彫りにしてくれた。韓国における「親日派」はいわゆる「親日」ではなく、戦前の日本統治に協力し、民族の独立を妨害して私腹を肥やした者たちを指す。解放後も権力層を形成し、政界、軍部、財界、学会、メディアなどを牛耳り、親米反共国家をつくって分断体制と開発独裁を支えてきた。彼らは日本と妥協し、今なお既得権益層を形成しているとみられている。文大統領が掲げる「積弊清算」は韓国市民社会の発展を受けて「親日派」による支配構造そのものを問題にするもので、単純な「反日」ではない(https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyayukiko/20190817-00138706/)。
従って、なぜ現在の韓国政府が日韓基本条約締結以降、日韓政府の間の共通認識となってきた請求権協定を金科玉条に叫ぶ日本政府を「過去に向き合う態度が正直でない」と批判するかが理解できるだろう。
1965年「日韓協定」には、歴史的に根本的な欠陥がある(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190729-00033997-hankyoreh-kr)。
①日韓の交渉当事者が歴史的正当性を欠いていた(韓国の朴正煕は満州国で日本軍将校だった)、②「強要された和解」だった(冷戦時代の米国のベトナム戦争対応によって強要されたものであり、日韓の真の和解が作り出した結果ではなかった)、③国民の同意に基づいていなかった(日韓双方で協定に反対する大規模なデモが繰り返された)、④反省のない日本の右翼と省察のない韓国の保守の「偽りの和解」の産物だった。
さらに、百歩譲って、日本政府の主張は1965年当時国際的に広く共有され、通用していたかも知れないが、その後、国連憲章(人権関連条項)、世界人権宣言、国際人権規約をはじめとする国際人道法が国際的に承認されるに至って、日本政府の主張はもはや法的正当性を主張できなくなったということを正直に認めることだ。
侵略と植民地支配を肯定し、戦犯のまつられる靖国神社に参拝し、「従軍慰安婦」被害者を侮辱し、現在の国際法の基準の変化も認めず、旧態依然の国際法違反を主張する安倍自民党政権の日本が残念ながら韓国との歴史戦で敗北で終わることは必然である。