Kの理論 「華麗なるブレイクアウト」 Breakout Magnificent.

脱走・・・ただ道は一つ。いつも道に一人。万人は来ない。脱線し続けるサイボーグ社会からの脱出。

ジャスト・ロード・ワン  No.26

2013-10-06 | 小説








 
      
                            






                     




    )  午の骨  ①  Umanohone


  昭和20年の秋に降りたって、その上を踏むことを許されてはいないことが、唯一老人にはこころの救いであり、千鳥ヶ淵の花影が散り惜しむかのようでじつに嬉しいことであった。その東京の夜は満月だった。
  夜天の一画は度肝を抜いてくれた。阿部富造は、李白の煌々たる満月に出会えたのである。
  少し前までは眼の前を通り雨が走っていたのに、一転、雲を切り裂くような夜空が出現したのだった。
  煌々たる月光の下にいると、さて、地球という生きモノは、何者なのかという気にさせられるものである。富造は天体が及ぼすさまざまな影響のうち、とくに月齢が人間にもたらす効能をとりあげて、ふだん気がつかないような「 就寝する社会 」ともいうべきに焦点をあてた。多分やはり人間は気づかないだろうが、その就寝する社会の夜道を人間は常に走り続けている。しかも月光のある限り、それは永遠の歩行なのだ。
「 月は照らしているときが月だけなのではなく、大気にひそんでいる月光こそが地上に影響を与えている。そして、そこに月齢が大きく関与しているのだ・・・・・ 」
  月齢と動植物とに蜜月関係があるとすると、人間の生活や社会の循環は月に無縁ではいられない。吉兆のみつる機会の判断を、阿部家では、平安このかた「 月がふくらんでいくとき 」がいいとされてきた。




  国会議事堂前の都営バス停から、捧げ銃(つつ)で見送られるなど知る由(よし)もない日曜日の観光リムジンである。おそらく新橋方面にでも消え去るであろうセルシオの後姿を老人は陸軍式に確認すると、くるりと霞ヶ関の高層から背を返して、もう振り返ることもなく並木道の左右に広がる洋式庭園へと歩きはじめた。
                                   

                                   

「 東京の秋はいつも埃(ほこり)っぽく霞んでいる・・・・・ 」
  阿部富造は、部屋のドアを閉めながら帽子をかぶり、水玉の黒い蝶ネクタイのふくらみを、革手袋をはめた手でちょっと直した。そうした午後二時の、この頃まではまだ雨は降っていなかったが、空を見上げると富造は小一時間前のことを思った。
 道玄坂上交番前から首都高速三号の高架下に向かう南平台までは、緩(ゆる)やかな坂になっている。その坂道を下る途中で、富造は何台かのタクシーを見送ったあとで、来かゝったリムジンと思えるセルシオに手をあげて止めた。
                        
「 おたく日の丸リムジンだよね。今日予約していた阿部だが・・・・・ 」
「 えっ、・・・・・おたく様が・・・・・ 」
  運転手は、さも長い信号待ちの時間に乗客探しなどするようなつき刺した視線で長々と老人の風体を眺めた。
「 たしか三日前のご予約では、この先の東急電鉄渋谷ビル前だと・・・・・ 」
  予約で指定された場所とは違うからだ。
「 あゝ、たしかに昨日まではね。だが・・・・ 」
  このとき富造はその先の経緯(いきさつ)を説明することが少し億劫(おっくう)であった。昨夜遅く、急に宿泊先を変更することにした。少々のトラブルでそうなってしまったが、今、その内容まで運転手に語る気にはなれなかった。
  長い沈黙があった後に、運転手はようやく降りてきて後部左ドアを開いた。
「 とにかく、予約した阿部だ。予定通り、お願いしたコースで頼むよ・・・・・ 」
  たゞ、その言葉だけを返した。
  そして車は玉川通りから東急南口の交差点を過ぎ、渋谷警察署前で左折すると、青山通りをたゞひたすらに直進した。
「 まもなく三宅坂ですが、桜田門、半蔵門どちらからなさいますか? 」
「 時計回りとは逆に回ってはくれないか・・・・・ 」
  遠目からもあざやかに輝く黒いセルシオは、内堀通りを桜田門へと走った。
「 申し訳ないが、見終えるまで語りかけないで欲しい。少し考え事をしたいのだ。無愛想で悪いが、それとスピードだが、ゆっくりと。できたら時速十キロ程度がいゝ。何なら時々止めてくれてもいゝ。その他は君の判断にすべてお任せするよ・・・・・ 」
  あらかじめポイントの詳細は予約する際に伝え終えていた。
  二時間ほどの、ガイド無し案内で頼んである。時計回りとは逆だから時を巻き戻せそうな気になる。静かに帽子をとって脇に置いたこのとき、富造老人は自身の髪の上に、肩に、背に、梢をはなれて土に着くまでの清浄で白いサクラの花びらをとまらせたいと願っていた。
  かって軍人として生き、敗戦の虚しさを体験した老人にとって、桜とはやはり自身の棺(ひつぎ)に納めねばならぬ永遠の花なのである。阿部という家柄がそのようであった。そう扇太郎の語る富造という男の気質を聞いていると、虎哉は富造という男の体臭もまた、香織、御所谷の五郎らが感じさせる体臭に何かしら似て、秋に匂い舞う桜がどことなく共通させるものを感じた。

                                



「 1988年4月24日 」
  阿部富造はこの日の出来事をしっかりと眼に焼きつけていた。
  それは昭和天皇、生涯最後の誕生日記者会見がおこなわれた日である。記者会見というのは「 4月29日の朝刊 」に掲載するために、実際には誕生日の前におこなわれることに毎年そうなっていた。
  1988年は「4月24日」であった。阿部富造は、その記者会見の言葉を一字一句欠かす事なく暗記している。山端の阿部一族は、毎年そうやってきた。それは理屈ではない阿部家に生まれた富造が懐にする生理なのだ。
「 黙礼すると富造はその文言をしずかに泛かべた・・・・・ 」
  爽やかな陽春の気候である。気温も20度くらいであろうか。林鳥亭南側の庭に向かって中央に陛下の御席が設けられた。
  その御席に向かい合ってやゝ細長い和室の中に、廊下まではみだして二列に15社、30人の椅子席が用意されていた。奥の床の間の棚には、明治21年に島津忠義が献上した薩摩焼子など五点の調度品が飾られ、床には清風作の玳白磁花瓶が置かれ、堂本印象画千代田城の画幅が掛けられていた。
  亭の南面に広がる芝生は澄みきった空からの光を浴びて輝いている。芝生の西側にハクショウの成木が一本立っていた。その傍らの桐が花を開いている。陛下は昨日の日曜日の午前のご散策で、桜林のクサノオウの花の群落をご覧になった後、竹林でウラシマソウをご覧になり、竹林の脇の門から吹上の外へお出になられて、林鳥亭までいらっしゃってハクショウをご覧になられたらしい。



「 午後3時10分前に吹上御所御車寄せをお車でお発ちになって、3時5分前に林鳥亭にお着きになる。お席につかれるとすぐ、3時ちょうどに質問がはじめられた・・・・・ 」
  幹事記者「 昨年の手術から半年余りたちましたが、最近のご体調はいかがでしょうか。ご健康についてどのようなことを心がけていらっしゃいますか。ご回復に伴いご公務が増えていますが、ご感想などお聞かせ下さい 」
  陛下「 体調は良く回復したし、四月に入ってからもほとんど毎日宮殿や生研に出かけていますが一向疲れる様子もなく、大分余裕があると思いますが、侍医の意見を尊重して、無理のないように努めています 」
  笠原記者「 産経新聞の笠原と申しますが、陛下はもちろん昨年の手術は初めてのご経験であったのですけれども、手術が決定した時陛下はどうお思いでしたか 」

                                

  陛下「 えー、医者を信用して、何ともそういうことは感じませんでした 」
  朝比奈記者「 毎日新聞の朝比奈でございますが、陛下、最近の皇后さまのご体調はいかがでございますか 」
  陛下「 皇后は腰の痛みは安定したようでありますが、まだ膝の故障があるので、歩くのに不自由でありますから、女官の介添えが必要なのであります。その他のことについては落ち着いたようであります 」
  幹事記者「 御生研での研究が再開されましたが、ヒドロゾアの研究や『皇居の植物』の執筆などについてご苦心された点などをお聞かせ下さい 」
  陛下「 えー、普通の学者は研究に専念することができますが、私の立場では、公務の余暇にしなければならないので、研究がどうしても断続的になりますから、成果をまとめるためには長い年月が必要であります。その長い間には分類の進歩や材料の進歩のために、今までの研究を見直す必要があります。材料の、材料や情報の入手には困難な時もあります。出版については、陛下の出版については、えー、準備中でありますから、ここでは話はできません。なお、私は語学力が少ないために十分の研究ができないのであります。植物の場合には、林道等の開発のために植物が消失することもありますが、多くの場合はその位置にあるので観察は便利であります。たとえば、佐藤人事院総裁が城山付近で発見したアズマシライトソウが林道の開発のために消失する危険が非常に大きかったので、人事院総裁は私に寄贈してくれましたので、皇居にその植物を植えたのでありますが、幸いに皇居の庭の様子が現地の林相と非常に良く似ていましたので、生長が非常に良くあります。私が人事院総裁と一緒に散歩した時に人事院総裁が悲しみと共に喜びを私に語ってくれました。動物の方は、どうしても動くことが多いので観察はなかなか困難であります。健康のために磯採集や海底の観察ができないこともあります。えー、えー、できないこともあります 」
  こうして陛下は、とつとつと、時々考えこまれるように途切れながらお話をなされた。
  そして質問は大戦のことに触れた。
  幹事記者「 先日、五十年以上にわたって陛下にお仕えした徳川さんが退任され、退任の記者会見で終戦直前の御前会議や録音盤事件の思い出を印象深い思い出として語られましたが、陛下の徳川さんをめぐる思い出をお聞かせ下さい 」
  陛下「 えー、えー、この徳川侍従長に対しては思い出が深いのでありますが、特に終戦の時に、録音盤をよく守ってくれたこと、戦後全国を巡遊した時に岐阜の付近で歓迎の人波にもまれて、肋骨を折ったことがあります。徳川侍従長はよく裏方の勤務に精励してくれたことを私は感謝しています。また、ヨーロッパやアメリカの親善訪問の準備のために、語学力を利用してその準備を良くしてくれたので親善訪問がだいたい成功したように思われます 」
  幹事記者「 今年は陛下が即位式をされてから六十年目に当たります。この間、いちばん大きな出来事は先の大戦だったと思います。陛下は大戦について、これまでにも、お考えを示されていますが、今、改めて大戦についてお考えをお聞かせください 」
  陛下「 えー、前のことですが、なおつけ加えておきたいことは、侍従長の年齢のためにこのたび辞めることになりまして私は非常に残念に思っています。今の質問に対しては、何と言っても、大戦のことが一番厭な思い出であります。戦後国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後共そのことを国民が良く忘れずに平和を守ってくれることを期待しています 」
  朝比奈記者「 陛下、先の大戦のことでございますが、昭和の初めから自分の国が戦争に突き進んでしまったわけですが、その時々に陛下は大変にそのことにお心を痛められたと聞いておりますが、今戦後四十数年を経て、日本が戦争に進んでしまった最大の原因は何だったというふうにお考えでいらっしゃいますでしょうか 」
  陛下「 えー、そのことは、えー、思想の、人物の批判とかそういうものが、えー、加わりますから、今ここで述べることは避けたいと思っています 」
  幹事記者「 陛下は昨年、沖縄県民に、健康が回復したらあらためて訪問したいとのお言葉を示されました。現在大変お元気そうにお見受けしますが、沖縄訪問について、今のお気持ちをお聞かせ下さい 」
  陛下「 えー、私が病気のために、沖縄の旅行を中止したことを今も残念に思っていますが、えー、健康が回復したらばなるべく早い時に旅行したい考えを述べましたが、今日もその精神につきましては何にも変わっていません 」
  幹事記者「 沖縄で一番になさりたいことは何でしょうか 」
  陛下「 そういうことは、えー、えー、今後の県の希望もありますから、そういうこと、将来のことについては述べることは躊躇したいと思います 」
  記者会からの質問はあらかじめ調整して届けられており、卜部侍従が打ち合わせに上がっておよそのお答えの内容はできていたのだが、陛下は幹事の記者の質問に対して漏らされることもなく、少し余分につけ加えられたりして、無難にお答えになられた。幹事以外の記者からの突然の質問にも当意即妙にお答えになっておられる。
「 ほゞ予定どおり、3時16分に会見は終了した・・・・・ 」
  そして3時20分に林鳥亭をお発ちになられた。
  この日は、地主山の辺りでコジュケイの大きな啼き声が聞こえていたという。御所の東玄関の前には白い花が泛かんでいる。二株のシロヤマブキが枝いっぱいに満開の白花を咲かせていた。



「 そして天皇陛下は29日、一般参賀のあと、宮殿・豊明殿で午後0時50分から開かれた宴会の儀で、気分が悪くなられ、途中退席された。体調に異常は認められなかったが、午後4時からの駐日各国大使らとの茶会は大事をとって欠席され、皇太子殿下が代わって祝賀をお受けになった。天皇陛下が公式の席で途中退席されたのは、これが初めてで、宮内庁の発表によると、陛下は食事中に少し食べ物を戻されたため予定より15分早い午後1時15分、歩いて退席された・・・・・ 」
  この発表を聞いたとき、阿部富造は有り得てはならない昭和の最後を予感し、近くその日が来ることを運命づけられた立場の者として悟ったのである。そうした抱いてはならぬ予感から富造は、陛下存命の内に、昭和の時間を巻き戻すために京都から宮城まで出向いてきた。もっとも未だご存命であらせるから平癒平安が第一義ではあるが、この務めはすでに亡き長兄倫一郎の名代を果すことで、子代(こしろ)としての家長が責務を担い継ぐ大義を秘めていた。
  その子代とは、后妃の皇子・王子の資養にあてられた部民である。
  大化前代、大和朝廷に服属した地方首長の領有民の一部を割いて、朝廷の経済的基盤として設定した部(べ)の一族は孫子代々、天皇・后妃・皇子などの王名や宮号を担い、その生活の資養にあたってきた。阿部富造もそうした子代の家に生まれた宿命をもつ。
「 これで・・・・・よかったのでしょうか・・・・・ 」
  誕生日記者会見での文言を、文殊の五字呪のように唱えた阿部富造は、至極当然のごとく皇居外堀の空気と融け合うかの影となっている。
その富造はおもむろに上を仰いで長兄倫一郎の面影を泛かべた。
  やはりその眼には、倫一郎に連れられて上野山から展望した東京がじつに広大であった14歳当時のよき思い出がある。時代は東京大震災の直後であった。またそれは富造が帝国陸軍人となる第一歩でもあった。
  父秋一郎も未だ健悟であったので、嫡男の倫一郎は東京に出て役人となった。その兄の助勢で富造もまた東京の地を踏んだ。そこには五体を奮い立たせた兄の戒めがあった。



「 よ~く見ておけよ富造、これが今の帝府だよ。そして宮城(きゅうじょう)があれだ。維新では、士族から職も誇りも奪ってしまったではないか。この国の計画は、そうした無念の礎(いしずえ)の下にあるが、軍人が国力ではなく、つねに国民が国力である。お前がやがて軍刀を握るとはそういうことだ。その軍人は生あれど死が常だ。もし死のときは・・・・・、そのときは、国民の力のために、富造は、真っ逆さまに落ちて行け・・・・・」
  泛かべるその兄の面影が、当時と同じ言葉で語りかけてくれる。 そう戒めてくれている。
  またその兄は「 昭和天皇が、最後の最後まで戦争を避けたいと願われたことは有名な話だ。あれは昭和16年の9月だった。いよいよ開戦を決意せざるを得なくなった御前会議の席で天皇は、明治天皇の( 四方の海みなはらからと思ふ世に など波風の立ち騒ぐらむ )という御製を繰り返し奉唱されたではないか 」
  と、涙ながらにいうと肩や両腕を震わせていた。倫一郎は終戦直前に他界した。その亡き兄の涙ながらに、また富造も泣けた。
  バス停でセルシオから降りると、姦(かしまし)き夜行性はさも首都東京の宿命であるかのように振舞っている。このコスモポリタン種の温床と化した、何事につけても覚えるこの一種の危機意識を、どのように解釈し暮らしたらよいのであろうか。
  感覚的に同じものを同じ感動で眺めることができても、心の理想は全く食い違うのであるから、それは戦前の青春を知る老人にとって、自分の感覚や生き方に対する疑いでもあった。都会の姦しい最中にあって、永田町二丁目の夜だけは、いつも暗闇のようにひっそりとしている。その日もまた同じ無言の闇間だった。富造を乗せてきたセルシオが遠ざかると、日本の闇には、異国からも悪魔が渡来したことが分かる。路傍にはそんな富造が立っていた。
  この悪魔とは、すべからく世にまつらわぬモノらである。
  それは西洋の善が輸入されると、同時に、西洋の悪が輸入されるという事は、至極、当然な事だからであり、世にまつらわぬモノはそこに生まれた。日本人には、西洋と折り合えない血というものもある。そもそも、それらは大化改新前にはじまることだ。阿部の家系もそこに始まる。連綿としてやがて平安京に連なり現在は京都八瀬集落の山守の家系に連なっている。
  その原点は奈良にあった。富造は陛下誕生日記者会見の模様を奈良に居て知った。その一か月ほど前から奈良にいた。



「 よほど・・・・・、あれが・・・・・、気になるみたいだね。香織ちゃん!」
  と、ふと扇太郎は話を止めた。
「 あゝやって吊るしているのは、秋子さんなのだ・・・・・ 」
  香織は始終、赤いトウガラシの吊るしをみつめては、時々まばたきをさせていた。そして扇太郎の語り口が皇族のことに及んでくると、その眼をしだいに輝かせていたのである。
「 何や・・・・・、やはりそうなんや。せやけど・・・・・ 」
  そう答えながら香織は、言葉尻をぼんやりとさせた。
「 せやけどッて、香織ちゃんは、あれと同じものを、どこかできっと見ているはずだけどね 」
  扇太郎にはそう言える確信があった。御所谷の五郎の家にも吊るされていたはずだ。香織ならそれを見ていると思われる。扇太郎は竹原五郎の暮らす御所谷で同じものを見た。
「 五郎さんの家に吊るされていたのではないかい・・・・・ 」
  塗炭に香織の黒い眼は、大きく丸くなった。
  そう言われてみると五郎が印(いん)を切る気配の中に赤いトウガラシの吊るしが浮かんでくる。五郎は朝夕必ず印を切っていた。臨兵闘者皆陣烈在前( りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん )と唱えながら一文字につき一つの印を結んで、最後に刀印を結ぶ。その頭上に同じものが吊るしてあった。その赤い色が香織の脳裏で鮮明になる。その赤はしだいに形まで明らかに顕れた。

                               

「 雨田先生、阿部は、あの、平安の阿部清明の家系に列します。その清明は、ご存じのように平安期に始まるものではありません。原子は奈良ということになる。つまり阿部富造の阿部家は子代にして、陰陽師阿部清明の陰陽道を現在に継ぐ唯一の家系です。御所谷の五郎さんはその一脈。したがって和歌子さんも、秋子さんもその一族として生まれました・・・・・ 」
  その阿部富造には最後に訪ねたい場所があった。
  セルシオを降りた富造は、議事堂前の洋式庭園へと歩きはじめた。国会前庭庭園は、国会議事堂正門前にある庭園である。
  面積は約5万平方メートル。国会議事堂に向かって道路の左側が和式庭園の南地区、 右側が洋式庭園の北地区となっている。和式庭園の南地区はかって江戸時代は九鬼氏の屋敷で、明治になって有栖川宮邸を経て霞ヶ関離宮であった場所である。
  庭園南側の入口から入ると左側に泉水があり小さな滝から流れ落ちた水が庭園の北へと流れている。富造が目的とする場所は、北地区の洋式庭園にあった。その中心に三権分立を象徴した三面塔星型の時計塔が建てられている。
「 雨田先生、きっと日本水準原点標庫は、ご存じですよね! 」
「 えゝ・・・・・当然。佐立七次郎(さたちしちじろう)の・・・・・あれでしょうが・・・・・ 」
「 はい・・・・・、その佐立七次郎の設計した標庫です 」
  扇太郎は虎哉の顔をみて、さすがとばかりにニヤリとした。
  日本全国の統一された標高決定のための基準として、水準原点が創設されたのが明治24年(1891年)5月のことだ。
  標庫はその水準原点標を保護するために建築された。設計者はエ部大学校第一期生の佐立七次郎であった。石造で平屋建の標庫は、面積は約14㎡で、軒高約4mほどである。この中に水準原点がある。 水準原点の位置は、建物の中心である台石に取り付けた水晶板の目盛の零線の中心で、その標高は24・4140メートルと定められている。この値は明治6年から長期にわたる東京湾の潮位観測による平均海面から求めたものであった。
  富造は標庫の正面で足を止めると、じっとそれを見据えた。



  これは、軍事的な理由から全国の測量を進めた参謀本部陸地測量部がこの地に置かれていた名残である。その日本水準原点は、全国の標高の基になる。阿部の家系は代々そうした標高算出に深く関わってきた。
  一族は日本国内の標高を求め続けてくまなく山岳を渡り歩いた。これほど山を知り尽くした一族は他にない。阿部家は各地の木地師(きじし)や山窩(さんか)の労を束ねた。富造はその標準原点に向かって、九字印を唱え、印を結んでは、最後に印刀を結んだ。そうし終えた富造は、またおもむろに、そこから振り返る地へと眼差しを向けた。そこは半年前に歩いた奈良の道辺(みちのべ)である。
「 まず法隆寺駅で富造は降りた。その日のことをじっと眼に泛かべていた・・・・・ 」
  目当ての、その門がみえるところまできて「 あゝ、あれが 」とひと足、近づいてゆくのは心うれしいものである。その日はちょうど雨あがりの曇天日であった。足もとは、べったり泥で、あやうく水溜まりにはまりそうである。ついこの間まではもっと古びた門や土塀だったはずだが、と回想などして懐かしむ田舎道も、いつの間にやら、きれいに修復がなされていた。



  法隆寺あたりの畑には、一斉にやわらかな緑のえんどうの芽がのびている。えんどうの芽の愛らしさからは、するすると天にまで伸びて、やがては蝶のような花を咲かせる無限の彩りが連想されてきた。法隆寺とはあまりにも見事で、いつもそこだけで時間をとられ見疲れしてしまうのだが、あの、典麗な伽藍構成と、豊富な古美術群を堪能すれば、もう、余分な出逢いは避けて、そのまゝ戻りたくなる心境になる。しかし、そうなりつゝも、かの門だけは、富造にそっとまた手を差し伸べてくれるのであった。





  法隆寺駅は小さく軒下を控えた駅逓(えきてい)である。息づかいが絶えたように人影は少なく、さらに法隆寺までを歩く人影の無さはじつに淋しい。しかしそれは人が生臭みを忍し殺すように背を低くして暮らそうとする揺らぎでもある。おそらく、それは太子への畏(おそ)れ。それゆえに斑鳩(いかるが)の里が広大な大地となって輝きを深くする。
「 京都の失ったものが、こゝにはある・・・・・ 」
  そう思うと、曇天の空に胡蝶が白く変化して舞い踊るようなエンドウの花はどことなく愛嬌がある。その花の白さは人とふれあう極意でも気前よく披露してくれているように感じさせる。
  戦闘に不向きな土地は遮(さえぎ)りがない。阿部富造はその春泥の道を歩いた。

                             

「 手術をなさったのが、たしか昨年の9月22日、陛下は御歳86・・・・・ 」
  病名は「 慢性膵臓炎 」だと聞かされている。そう聞かされたときから富造は、近づこうとする昭和の終焉を、少なからず胸の内で温めていた。無事に越冬されて87歳となられる春の門出を寿(ことほぎ)たい。だが天命とは人の不可視、八瀬の集落では密やかな心積もりが必要であった。陛下が歴代天皇で初めての開腹手術をされたのは1987年(昭和62年)9月22日。その前夜、子代(こしろ)の富造は八瀬童子50名ほどを家に集結させて万一に備えさせた。
  その年の天皇誕生日の祝宴を陛下は体調不良から中座された。以後、体調不良が顕著となり、特に9月下旬以降、病状は急速に悪化した。9月19日には吐血されるに至る。前代未聞の開腹手術はそうした経過の悪さに決断された。非常の事態、そのため八瀬の集落では誕生日の祝宴を中座された以降、村人の華やかな振る舞いを自粛することを申し合わせた。度々比叡山に上がっては総出で陛下の平癒祈願を行っていた。
「 せやッた・・・・・。うち、まだ三つやったけど、お山ァ上がったんよう覚えとる! 」
  香織は、父増二郎に背負われて何度か比叡山に上がった暗い夜道を思い出した。
  そして年末に向かうころ富造は、12月には公務に復帰され、回復されたかに見えたが、陛下の体重が急速に減少していることを宮内庁より密かに聞かされていた。



「 お健やかそうに手を振られてはいたが・・・・・ 」
  年を越して1988年1月2日、その日は曇天に時折しぐれる例年にない肌寒い日であった。
  穏やかに感じさせた一般参賀の光景を遠巻きに確かめた富造は、京都に帰る暇もなく、その足で急ぎ奈良へと向かった。
「 阿部のお家は、八瀬童子助けはる、その長(おさ)なんや!。五郎はんは童子なんや・・・・・! 」
  と、香織はポツンと消えそうな小声をそこに足した。
  八瀬童子(やせどうじ)とは、山城国愛宕郡八瀬郷(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指す。室町時代以降は、天皇の臨時の駕輿丁も務めた。伝説では最澄(伝教大師)が使役した鬼の子孫とも伝える。寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため八瀬の童子と呼ばれた。
  比叡山諸寺の雑役に従事したほか天台座主の輿を担ぐ役割もあった。
  また、参詣者から謝礼を取り担いで登山することもあった。
  比叡山の末寺であった青蓮院を本所として八瀬の駕輿丁や杣伐夫らが結成した八瀬里座の最初の記録は寛治6年(1092年)、それが記録上確認できる最古の座とされている。延元元年(1336年)には、京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬郷13戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を取って奉護した。この功績により地租課役の永代免除の綸旨を受け、特に選ばれた八瀬童子が輿丁として朝廷に出仕し天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことを主な仕事とした。
「 明治天皇が初めて江戸に行幸した際に、八瀬童子約100名が参列していますね 」
  明治元年10月13日のことだが、扇太郎は時々そんな言葉をていねいに挿みながら語った。
  八瀬童子は、比叡山の寺領に入会権を持ち洛中での薪炭、木工品の販売に特権を認められた。永禄12年(1569年)、織田信長は八瀬郷の特権を保護する安堵状を与え、慶長8年(1603年)、江戸幕府の成立に際しても後陽成天皇が八瀬郷の特権は旧来どおりとする綸旨(りんじ)を下している。
  綸旨とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書のことだ。その綸旨の本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。
  富造は法輪寺への道を辿りながら、大正天皇崩御の報に接し、ただちに葱華輦(そうかれん)を担ぐ練習を始めた八瀬童子らの姿を想い浮かべていた。富造10歳が眼に遺している映像である。

                     

「 大正天皇の大喪儀は、霊柩を乗せた牛車を中心として組まれた葬列であったが・・・・・ 」
  その眼には、葬列はたいまつやかがり火等が照らす中を進行した残像がある。明治天皇の母親である英照皇太后の葬儀の時は、八瀬童子74名が東上、青山御所から青山坂の停留所、汽車に乗り京都駅から大宮御所まで葬送に参加した。さらに明治天皇の葬送にあたり、喪宮から葬礼場まで棺を陸海軍いずれの儀仗兵によって担がせるかをめぐって紛糾したが、その調停案として八瀬童子を葱華輦(天皇の棺を載せた輿)の輿丁とする慣習を復活させた。
  明治天皇の際には東京と京都、大正天皇の際には東京、なお、昭憲皇太后(1914年)の場合は東京と京都で葬儀に参加した。明治維新後には地租免除の特権は失われていたが、毎年地租相当額の恩賜金を支給することで旧例にならった。この恩賜金支給の例は大正天皇の葬送にあたっても踏襲された。
  阿部富造の50メートルほど後方を、とぼとぼとやってくる小柄な男の影がある。
  山法師のごとく笈(おいづる)と鳩籠を背負い、付かず離れずに一定の距離を保ちながら富造についてくる。御所谷の竹原五郎である。背負うその笈の中身は、後醍醐天皇綸旨、後柏原天皇綸旨など公武の課役免除に関わる文書、明治天皇・昭憲皇太后の大喪、大正天皇の大礼および大喪に関わる記録類であった。鳩籠には鳳羽四神(ほううししん)、青竜・朱雀・玄武・白虎の四羽の鳩がいた。
「 この四神の鳩に、陰陽呂律の陽音符を結び、陽気を四方へと放ち陰気を破り解くのだ! 」
  富造はにわかに責任のある立場に登用されたわけではない。そういう家系に生を得た。子代を継ぐ重責ときちんと向き合うことで、村落の童子らに伝えるべきものを内面に育んでいく立場なのだ。
  嫡男を亡くした阿部家は富造が継いだ。予期せぬ「穴」に落ちたときにどうするのか、常に「六(ろく)」に備えねばならなかった。つまり宀部(べんぶ)の悪あしきに亠部(なべぶた)で抑え鎮める。京都の南にある伏見稲荷大社の神は、弥生人と共存した縄文の神である。秦氏と称する渡来人が入って来て平地を稲作農業の田畑としたとき、土着の縄文人は山に逃れてその誇りを保ったのだ。そしてそういう縄文人と里の弥生人との妥協の上に稲荷の神が生まれた。
  しかし叡山に逃れた縄文人は再び山を追われる運命を経験した。
  叡山が最澄という渡来系の天皇の寵僧の仏教の根拠地になった以上、彼らは山を追われなければならなかった。
  そしてその一部は東へ滋賀県の坂本へ、一部は西へ京都市の八瀬の里へと逃れた。
  またそして西へと山を下りた人々が八瀬にて邑(むら)を結(ゆう)ことになった。八瀬の人たちは、比叡山の薪を採り、その薪を宮中へ入れ、また都で行商を行うとともに、叡山や皇室の輿舁きや警護の役をして辛うじて生計を立てていた。
  そこには八瀬の人たちを山から追い出した叡山と朝廷のせめてもの慈悲があった。御所谷は鳳羽四神の飼鳩舎、万乗(ばんじょう)の忌いみに備えその慈悲に報いた。
「 なるほど、これが鬼の子孫、その童子らを阿部家は守り続けた! 」
  扇太郎が語るにつれて虎哉には過ぎるものがある。ふつふつと柳田國男の41歳の論文に「鬼の子孫」の下りがあったことを思い出していた。その柳田國男の民俗学は山人の研究から始まっている。
  斑鳩(いかるが)を歩きながら阿部富造は山並みを飛ぶ一羽の白鳥を眼に映していた。

               





                                      

                        
       



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