季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

王様の新しい着物(裸の王様)

2019年10月22日 | 音楽
改めて紹介するまでもない、有名な童話である。

いかさま師の仕立屋が如何に人心を手玉に取ったか。これがこの物語の主眼だと言うことも可能だ。というよりも、それを忘れてはこの物語は面白くもないストーリーになってしまう。

馬鹿者、そしてその人の地位に相応しくない人にだけは見えない不思議な布、こんなアイデアを出した時に仕立屋はもう勝利したと言って良い。

インチキな機織りパフォーマンスを視察に来た家来たちは見えないと言うと自分が馬鹿者だと告白したことになり、また自分の地位も危ういので、素晴らしい出来栄えだと報告する。

何人かの家臣から素晴らしい出来栄えを聞いた後王様も着物を見る。彼には何も見えないのだが今更自分だけが見えないという訳にはいかないわけである。

かくして王様をはじめ城内の全員が新しい着物を褒めそやすことになった。

国民も同じく半ばうろたえながらも褒め称えているところへ子供の「王様は裸じゃないか」という誰もが知るひと言が発せられたのである。

ハンブルクのホールを巡る騒動、設計者が同じということからサントリーホールについても改めて色々思わざるを得ず、そこで僕はアンデルセンの童話をつい連想する。

失礼だと憤慨する人には謝っておこう。その上で先を読んで貰いたい。

かねてから僕は所謂音楽関係者、演奏家を含む評論家やマネジメントなどがサントリーホールについて批判することが大変少ないことに疑問を呈してきた。

有力な人々が認めているのに自分が否定的な感想を述べてしまうとこのホールに相応しくないと思われるのでは、、、といった心理は果たして働かないであろうか。

批評家諸氏も、僕はジャーナリズムにほとんど関心がなく偶然目にしたものでしか判断出来ないが、否定的な意見を表明することはないようだ。

それどころか褒めそやし、返す刀で東京文化会館を最悪とまで断じた人までいた。そのことについては改めて書くだろう。

落成当初吉田秀和さんが音響に当惑した文章を書いた。そして例によって他の席ならば違うかもしれないから即断は避けたいという主旨の発言をした。

ホールの良し悪しとはこのように判断を逡巡ものではない。例えるならば食品が腐っているか否かの判断と同じようなものだ。ひとりひとり差異がある点は全く違うにせよ、僕個人としてはどうしても即断せざるを得ない、その様な性質なのである。

この、即断せざるを得ない性質は吉田さんにも当てはまる。

そもそも他の席では違うかもしれないと態度を保留してなおも音響に言及するのは一体何故なのか。それについて語りたくなるほどに違和感を覚えたからではなかっただろうか。

王様の新しい着物と違い、サントリーホールに関しては演奏家にも疑義を挟む人が一定数いる。

しかし彼らは多くの場合、辺りを憚るように小声で、目立たぬ処でつぶやくのである。

言ったところで誰も信じないだろうという思いもあるだろう。ここで演奏する栄誉を得た人と同じように、否定的感想を言ったら能力の欠如と見做されてしまうことを心配してしまうこともあるかも知れない。

即断せざるを得ないということについてもうひとこと加えておこうか。

これは悪いという判断にだけ当てはまるのだということ。良いのでは、と直覚した場合には反対に何度も吟味する必要がある。

ピアノを選ぶ際とまったく同じことである。或いは料理を味わう時と同じことだと言えば納得する人も多いのではないだろうか。







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