季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

アフタータッチ

2008年08月01日 | 音楽
ピアノの発音機構について書いたところ、時折コメントを寄せてくださる伊藤治雄さんからコメントがあった。そこに返事を書こうと思ったが、なかなか厄介なもので、長くなるかも知れぬ、と思い、それなら新たな記事にしてしまおうと書いている。
第一、コメント欄があることを気づかずにいる人も結構な数に上るので。

以下が伊藤さんのコメント。

家のアップライトで、アフタータッチを試してみました。
 キーは1センチ位沈みますが、6ミリか7ミリ程押し下げると音が出る所、抵抗を感ずる所がありますね。ピアノを習っていても、なるほど、言われてみなければ気がつかないかもしれない。
 アフタータッチからキーが底板につくまでの間隔、何百分の一秒かもしれないが、それは演奏にどう効いてくるのかしら。レガート奏法が可能になるとか? 指は確かに底まで押した方が安定するような気がするけれど。
 音の大きさは、キーを押す力の大きさではなく、キーを押す指の加速度によるのかしら。しかし古典力学の法則
 F=mα
で、mは指の重さとすると、この違いはあまり意味を成さないようにも思える。いや、音の大きさと指の加速を関係づけるのは無理かもしれない。ピアニッシモを高速で弾くことができなくなってしまうわけですからね。

以下略

これは部分的には正しく、ただピアノの奏法への誤解もあり(当然だ、専門家を自認している人たちが誤解どころか碌解、碌でなしの碌ね、死地解を重ねているからね)少し言葉を補っておきたい。

アフタータッチの位置を知ることが演奏にどう響くか、という点は、音が散り、割れ、一言でいうと楽音ではなくなるということに尽きる。また、この点より手前で力が抜けてしまった場合は音にならない。いわゆる腑抜けた音、死んだ音がするのはこうした場合である。

何べんも繰り返すが、ピアノという楽器がある程度音らしきものが与えられているため分からない時には分からない。しかし、示されれば誰にでも聞き分けられる。

この場所を知るのは、伊藤さんが試したように指でゆっくり押さえていけばすぐ分かる。しかし厄介なことに演奏で常にそこを探り当てる、言い換えれば加速の頂点をそこに持ってくるには体で覚える以外ないのである。そうした点はスポーツと似た「認識」のしかたである。

底まで弾いたほうが安定するということは、分かりやすく言えばピアノに寄りかかるわけで、これは絶対に避けなければならない。演奏に際しては、むしろ肩から腕全体を運んでいると言ったほうが正確なのである。たとえば弓を持つヴァイオリニストと似ている。

レガート奏法が可能になる、云々についてはそうかもしれないとだけ言っておこう。そもそも、評論家たちは(演奏家も)例えばケンプが独自のレガート奏法を編み出した、とか言うが、怪しいものだ。はっきり言えば嘘だ。レガートという表現はあっても、レガート奏法は無いということも可能なのである。ブゾーニは一本指でレガートをしたまえ、と言ったそうである。

楽音になったならば、レガートの表情を与えることも可能だが、楽音にもならないのにレガート奏法もへったくれもないのだ。この辺りは評論家たちがいかにでたらめを言っているか、見本のような記事を近々紹介しよう。

F=ma以下に関しては、指の概念を違えてとる必要がある。御木本メソッド批判で、少し触れた。解剖学上の指は、周知の通りだが、運動上の指は、あくまで全身の、ピアノを弾く場合は腰から上としても良いが、動きの最先端だということである。ピアニッシモで高速で動くとき、指自体の動きは最小になるが、腕全体は指が鍵盤のごく近くにあるように高さを保っている。

他にも色々書かねばならぬことがあるが、どのみち煩雑さを逃れることはあるまいから、いったん終わりにしたい。

これもピアノ演奏に欠かせない形容だが、強烈なタッチとか優しいタッチとかがあるでしょう。これなぞも語の用法の誤りだ。タッチとはことピアノ演奏に関しては、単純なこと、アフタータッチを体が知るということだ。正確なタッチがあるだけである。他は演奏の印象を漠然と、いかにも専門的に言っただけのことである。