第13話 激闘!!コートジボアール!!
あらすじ:
現在内戦中であり多くの旅行者が入国を尻込みし、大使館情報も危険度マックスの4(退避勧告)を誇るコートジボアール、何を血迷ったか入国に挑む事を決めたデューク東城、首尾よく入国は果たしたもののブルキナファソを目指して出国するためには反政府の支配地域である北部を通過しないければいけない。
この危険地帯を抜け、無事ブルキナファソへ辿り着くことは出来るのか?
どうする!ゴルコサーティーワン!!
第1章 序章
正直なところプロフェッショナルとしてこのデューク東城、入国に関しては関係者筋からの情報(カメルーンで会った日本人旅行者が2,3カ月前ではあるがアビジャンまでガーナから入って往復していたという)を掴んでいたので外務省の情報が旅行にはほぼ最悪であったこともそんなには気にはしていなかった。ガーナに到着してガーナの国営バスが平常どおり営業されていたらそんなに悩むことも無いだろう。
しかし、首都に行くことと出国方法を考えること、この2つにはプロとしては少なからずの逡巡がついてまわった。首都であるヤムスクロ周辺地域では昨年末に大規模な半仏デモがあったし、北と西の地域にはには現政権の反対勢力の拠点があり国連が信頼線などというものを設けている。
「日本大使館の情報を気にしてはいない」
といったところで今まで情報の無い国なら自分で集めて何とかやってきた私ではあるが、在外公館のある国で発出される情報がここまで「ほぼ最悪の1歩手前」というのは初めてである。
一応はトライしてみるもののここはプロとしての客観的な考えとしては“ここはどう見てもブルキナファソに行く事は諦めてガーナに戻る”しか道はなさそうな感触であった。
第2章 ガーナにて
ガーナに到着してからはすぐにアビジャン行きのSTCBus(ガーナ国営バス)が生きているかどうかを確認する。当然その他にも日本大使館やら現地のツーリストインフォやらを回り情報収集を心がける。
プロフェッショナルとしては完璧な手順だ。
コートジで延期となった選挙予定日は10/30日、この日付の前後で何か起こる可能性が高いと日本大使館の情報ではあり、「止めはしませんが是非とも止めて下さい」という忠告もあったが、国営バスは毎日運行されており、また、そのほかの情報もあわせて考えるとアビジャンまでは特に行って問題はなさそうだ。
第3章 潜入!コートジボアール!!(2005年11月2日)
結局、プロフェッショナルとして冷徹に判断を繰り返した挙句、ガーナの首都のアクラからの直行バスは使わず、11月2日(水)、世界遺産のあるケープコーストという街から、ミニバスを乗り継いでの入国となった。キーワードとしては『だってこっちの方が安かったんだもん』の一語に尽きるであろう。
過去の情報ノートでは国境で賄賂の請求があったそうだがそれも無くやけにフレンドリーな係が色々と親切に教えてくれた。こちらの目標はブルキナへコートジを縦断して抜ける事だったのでその情報も聞いたが色好い返事は無くガーナに戻って行くことを勧められる。
ケープコーストからミニバスと大型バス4回乗り継いだので実質は6時間ぐらいの道のりが待ち時間などで結構かかり、アビジャンのトレッシュビル(下町)に到着したのは朝0800時に宿を出たのに2000時頃となってしまった。
タクシーを借り切ってロンプラで当たりをつけていた宿に向かう。その宿が問題なく泊まれたのと一つだけ同じ料金でシャワー、トイレ付きという「当たり部屋」に宿泊することが出来たのでまあ幸先の良い出足といえるだろう。
第4章 静寂が支配する街!アビジャン(2005年11月3日)
翌日(木曜日)、ちょっと疲れていたが情報を取るなら平日に勝負を賭けるしかないので疲労している体に鞭打って大手バス会社を当たってみる。
ブルキナ行きのバスはガーナ経由、直接国内の北へは抜けられないらしい。すぐそばに鉄道駅もあり以前ブルキナへの鉄道がやっていたということも知っていたので、取りあえずは聞いてみようかと思い鉄道駅に立ち入る。それにアフリカでは鉄道が珍しいのであれば利用するしないはともかく必ず立ち寄るようにもしている。
たいして期待もしていなかった鉄道駅で意外な事が判明する。週3便きっちりと鉄道は生きておりブルキナへはこれでいけるということだ。「安全か?」としつこく聞く私に「ノープロブレム」と笑顔で答えられる。おまけにポリスにミリタリーが同行するらしい。
これには少し参ってしまう。
これで抜けられるなら私が作っておいた(コートジ抜けられませんでした)ストーリーは無駄足になってしまう。以前中央アフリカに入国した際も車列に護衛がつくと言われて蓋を開けてみると全く護衛など無く、ヒッチしたトラックが途中で故障して路上で車中泊した経験のある私だがここはその言葉をそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。
まあ、ただ運行されているだけならそれが安全の保障とはならないと思い情報を集めようとプラトー地区(街の中心)へと足を運ぶ。
今日、少し気になっていたことは平日だというのに下町のトレッシュビルでさえ極端に人が少なかったことだ。昨日到着したときはそれなりの喧騒が見て取れたのに不思議なぐらいにひっそりとしている。
トレッシュビルからプラトーへは強盗の多いことで有名な橋を渡るのだがこの異様なまでの人の少なさを見て取った私はたまたま来た市内の路線バスに乗り、橋を越えてプラトー地区へと向かうこととなった。二つの地域をつなぐこの路線バスでさえガラガラにすいている。
「戒厳令でも出ているのか?」
今まで色々な都市を見てきた私にはこの異様なまでの静けさの中に只ならぬものを感じ取っていた。
街の中心であるプラトーへついてみてさらに愕然とする。立派なビルが立ち並びハイソな商店こそ多いものも殆ど営業していない。人もさらにすくなく時折警備員を見かける程度だ。
「ちっ、この俺としたことがコートジボアールの情勢を少し甘く見すぎていたようだ。これが内戦中の国なのか?ここまでの不気味さを味わうのは初めてだ。こんな状況なら一刻も早く抜け出す算段をつけなければ」
と、恐怖におののき藁にもすがる思いで観光案内所にむかう。
「ここなら旅行者も行きやすいし、少しは何かいい情報でも入るかもしれない。」
と思い人通りの途絶えた大通りを歩んで行く。
観光案内所のある共和国広場の前もやはり異様な静けさだ。航空会社のオフィスすら全く営業している気配すらない。観光案内所は大きなビルにはいっていて一度警備員に場所を聞くと違う入り口を示される。そして辿り着いた次の入り口の警備員からの情報で衝撃的な事実が判明する。
「え!? ラマダン(イスラム教徒の断食の月間)明けで今日はお休みなの???」
何のことは無いガイドブックには祝日としてのってなかったが妙な人気の無さや街の静けさもこれなら説明が行く。
こいつは俺の負けだ。
「明日またおいでよ、俺はここにいるからさ」
と警備員に親切に言われ、とどめに
「今日は休みで人がいないからこの辺りは危険だよ」
と笑顔で忠告されてしまう。
いや、休日で人が少ないから襲われても助けがこないなんてまあ常識的な危険だなと妙に得心してしまった。
しかし午前中から色々と頑張っていたが祝日なら仕方ない。結局何もやる事がなくなったのでとりあえず西アフリカ一番の高級ホテルを見に行ったり祝日でも営業している郊外のショッピングセンターへ行ったりして時間を潰す。しかし完璧に計算してアビジャン入りしたのにうまくいくことは中々に無いもんだ。
第5章 なんてことはなかった普通のアビジャン(11月4日―6日)
初日のミスはあったもののそれ以降は精力的に動くことになる。
リベリアまでの航空券は値段こそ350㌦くらいと安いものの週1便という不便さで却下とする。
首都のヤムスクロへのルートは日本大使館こそ「今はナイジェリアの大統領が来て特別に警備が強化されているかもしれない」と止められて、さらに「情勢が分かってきたのなら一刻も早くコートジを立ち去るべき」という忠告も受けはしたが、警備が強化されているなら逆に「検問こそうっとおしいもののかえって安全だ」と判断し行くことにする。鉄道の件はヤムスクロで北へ抜けるバスのルートがあるかを調べてから判断すればいいだろう。
それにしてもアビジャンは久々に見た洗練された都会で街歩きも楽しい。街の中心プラトー地区には高層ビルが立ち並び、商店もおしゃれなものが多く、中々いい感じをかもし出しているし、大きな教会がありそれが変わった形をしており見応えがある。
また本屋も南アを除けばここがアフリカ最大(といっても紀伊国屋の1/5-1/10ぐらいだろうが)というものがあってこれにはかなり吃驚もさせられた。
アビジャンは潟(ラグーン)に沿って作られた都市なので土曜日にはラグーンを周遊するフェリーのツアーなどやっていて、私が普段はしないようなこんなツアーにわざわざ参加をしてアビジャンを色々な角度から眺めてアビジャンを大満喫することとなった。
少々気になった事はと言えば情勢が情勢なのでこんな時期に来る旅行者はついぞ見かけなかったことと、時おり「今戦争中なのに君は来たのかい?」といわれてしまったことだ。こいつは難しいことだが「情勢が少しでも落ち着いていて可能性があるなら入国してしまう」というのはおそらく「今を逃すともう一生ここに来る事は無い」と思ってしまう精神状態が作りだしてしまうことであろう。
※ラグーン周遊ツアーのフェリー上から撮影したアビジャンのプラトー地区
第6章 首都ヤムスクロ行(11月7日)
首都であるヤムスクロ、ここには一つの大使館もそして自国の省庁すらない。前大統領の出生地ということで制定された都市である。ロンプラによるとここにはなんでもすごい教会があるらしいといったぐらいの事しか載ってはいなかった。アビジャンからの200kmの道のりで検問が5回あり毎回下車してパスポートを見せるのが面倒だったぐらいで賄賂の請求等も無く比較的のんびりと到着した。
ついてみて吃驚したのがやけにデカイ教会がかなり離れたところから頭だけポコッと見えたことである。
それにここは正直言ってちょっと栄えた田舎町といったところが表現の限界なのにそこに14階建ての高級ホテルがありフォンダシオン(国際会議場のような物)という建物がある。
そしてとどめに彼らが世界最大という教会だ。後で中に入ったらパリのノートルダムとの比較やバチカンの教会との比較の絵があり「この教会が世界一デカイ!!」と示している。
もし日本にいてどっかの片田舎に不自然にサンシャイン60と日本武道館と江戸城がたっていたらどんな気持ちになるだろうか?ここまでに不均衡な作りをした都市は中々に類を見ない。
※首都ヤムスクロの全景 どうみても田舎...
※バシリカ(教会)はどこからでも見える...(写真では左側にポコッとでてる)
※ヤムスクロ3大建築 プレジデントホテル(写真上)、フォンダシオン(会議場)(写真中)、バシリカ(教会)(写真下)..
こんな“田舎”にいらねえだろう、こんなもん...!
私は到着早々この不思議な気持ちを抑えきれずに午後半日街を歩きまわって見所である全部の建物をみて回り、さらに高級ホテルでたった200円で特注できるアイスコーヒーで昼の全景と夜の夜景を堪能することが出来、大満足であった。
また、ヤムスクロではもう一つ確認したいことがあって以前はここが基点で北の国(マリやブルキナ)へ抜ける直行の大型バスがあったのだが結局今は全滅!情勢は良くないことはこれではっきりした。
しかし不思議なことに鉄道だけは「乗るのを止めなさい」と忠告をされず、むしろ「鉄道は安全だからそれで行ってきなよ」と言われた事である。
「北へ抜けるには鉄道しかないのか」
と悩みつつ、未だに「ガーナに戻る」という考えも捨てきれないまま、まんじりとも知れない夜を迎えることとなった。
第7章 アビジャン再び
ヤムスクロの泊まっていたホテルで夜散々悩んだが結局どうするか「コイントス」ではないが賭けで決めることとする。
賭けは単純で
「ヤムスクロを出てアビジャンについてその日のうちに翌日の1等にチケットが購入できたらやってみよう」
ということである。
「北へはバスでは抜けられないが鉄道なら抜けられる」
と言う半ばギャンブルにも近いような事を決心するには何か馬鹿げた事に身を任せる事が必要だった。
「明日のチケットが今日買えたらそれがゴーサインだ」
と何の根拠も無く決心を決める。
11月8日(月)の1000時頃にヤムスクロを出発、アビジャンへは1500時頃に到着。
そのまま鉄道駅に行くと実にあっけなく明日出発のチケットを購入することが出来た。
本意なのかそうでないのかは自分でも未だに分からないまま。危険度4の地域にこれでソマリランドに続いて2回目の侵入となることになった。
第8章 激闘!! コートジボアール脱出!!(11月8日―9日)
前言
この2日間にわたって私の経験したことは他の旅行者では決して経験できないことであり私の今までの旅行の中で中央アフリカ共和国の入国やコンゴ共和国を陸路で抜けたとき以上に精神的にもっとも苦しかった2日間といっても過言ではない。それだけに思い入れも深いし、その苦労は抜けたときのうれしさと相俟って終生忘れられない思い出となった。ここではその詳細を伝えたいと思う。
※デューク東城を最大の危地に陥れる事となったコートジボアール―ブルキナファソ間国際鉄道、乗り心地は中々良かった。
始発駅であるトレッシュビルのラガールへ0800頃出発は1030予定だが1等なのに座席指定がされていないので少々早く来て万全の態勢を作り上げる。目論見どおり自分の目指す窓際の座席をキープしてくつろぎの態勢に入る。以前聞いていたミリタリーも一等車両(一両しか一等は無い、ちなみにビュッフェ付き)に6人同乗する。「どうやらガードは固そうだ」少しほっとする。
列車はアフリカにしては優秀でたった10分遅れただけで1040には駅を出発、1等座席も2等座席もそれほど込んでなく特に私なんぞは2座席占領してしまっていた。すいていることを喜ぶべきかそれとも「皆情勢を懸念して避けている」として憂えるべきなのか私には判断できなかった。
列車のスピードは想像以上に遅くヤムスクロよりやや南に位置する町ディオンボクロに1700到着、ここで吃驚したことにここでアビジャンから同乗していた兵士が全員降りていってしまう。新しく乗ってくる兵士もいない。「ミリタリーガード」はもうすでにこの列車の手中から離れていってしまった。「うーん、こいつは計算外だ」。
それに停車駅の多さを考慮したところでこれは遅すぎるといわざるをえない。バスなら3時間くらいの距離を8時間だ。それに反対勢力の拠点と言われるボアウケへはできれば早く抜けたいと思っていたのにこれではいつそこまで到達するのかすら分からない。
緊張と不安は徐々に高まってくる。一度駅は忘れてしまったがフランス軍の兵士が車内を点検に来た。情報によると国連軍が地域上に信頼線と言うものを設けているらしいが現地兵とは明らかに違う装備や燦然と肩に輝くフランス国旗のエンブレムがこの場所が正にその「信頼線」である事を如実に物語っている。
「ここからが真の危険な旅の入口だ...」
私の体の中に緊張感が駆け抜け、これからの行く手の困難さを考えると心細くなり始めていた。
そしてその後カンというボウアケ手前の駅で兵士がパスポートチェックに来て乗客が100セーファー(約20円)づつ支払っている。彼らが反体制側かどうかは分からないが私も皆にならって100のコインを兵士の手に渡す。同乗していた兵士のいない今、不安な気持ちは拭いようも無い。
緊張感はマックスに達している。次はいよいよボウアケだ。
あらすじ:
現在内戦中であり多くの旅行者が入国を尻込みし、大使館情報も危険度マックスの4(退避勧告)を誇るコートジボアール、何を血迷ったか入国に挑む事を決めたデューク東城、首尾よく入国は果たしたもののブルキナファソを目指して出国するためには反政府の支配地域である北部を通過しないければいけない。
この危険地帯を抜け、無事ブルキナファソへ辿り着くことは出来るのか?
どうする!ゴルコサーティーワン!!
第1章 序章
正直なところプロフェッショナルとしてこのデューク東城、入国に関しては関係者筋からの情報(カメルーンで会った日本人旅行者が2,3カ月前ではあるがアビジャンまでガーナから入って往復していたという)を掴んでいたので外務省の情報が旅行にはほぼ最悪であったこともそんなには気にはしていなかった。ガーナに到着してガーナの国営バスが平常どおり営業されていたらそんなに悩むことも無いだろう。
しかし、首都に行くことと出国方法を考えること、この2つにはプロとしては少なからずの逡巡がついてまわった。首都であるヤムスクロ周辺地域では昨年末に大規模な半仏デモがあったし、北と西の地域にはには現政権の反対勢力の拠点があり国連が信頼線などというものを設けている。
「日本大使館の情報を気にしてはいない」
といったところで今まで情報の無い国なら自分で集めて何とかやってきた私ではあるが、在外公館のある国で発出される情報がここまで「ほぼ最悪の1歩手前」というのは初めてである。
一応はトライしてみるもののここはプロとしての客観的な考えとしては“ここはどう見てもブルキナファソに行く事は諦めてガーナに戻る”しか道はなさそうな感触であった。
第2章 ガーナにて
ガーナに到着してからはすぐにアビジャン行きのSTCBus(ガーナ国営バス)が生きているかどうかを確認する。当然その他にも日本大使館やら現地のツーリストインフォやらを回り情報収集を心がける。
プロフェッショナルとしては完璧な手順だ。
コートジで延期となった選挙予定日は10/30日、この日付の前後で何か起こる可能性が高いと日本大使館の情報ではあり、「止めはしませんが是非とも止めて下さい」という忠告もあったが、国営バスは毎日運行されており、また、そのほかの情報もあわせて考えるとアビジャンまでは特に行って問題はなさそうだ。
第3章 潜入!コートジボアール!!(2005年11月2日)
結局、プロフェッショナルとして冷徹に判断を繰り返した挙句、ガーナの首都のアクラからの直行バスは使わず、11月2日(水)、世界遺産のあるケープコーストという街から、ミニバスを乗り継いでの入国となった。キーワードとしては『だってこっちの方が安かったんだもん』の一語に尽きるであろう。
過去の情報ノートでは国境で賄賂の請求があったそうだがそれも無くやけにフレンドリーな係が色々と親切に教えてくれた。こちらの目標はブルキナへコートジを縦断して抜ける事だったのでその情報も聞いたが色好い返事は無くガーナに戻って行くことを勧められる。
ケープコーストからミニバスと大型バス4回乗り継いだので実質は6時間ぐらいの道のりが待ち時間などで結構かかり、アビジャンのトレッシュビル(下町)に到着したのは朝0800時に宿を出たのに2000時頃となってしまった。
タクシーを借り切ってロンプラで当たりをつけていた宿に向かう。その宿が問題なく泊まれたのと一つだけ同じ料金でシャワー、トイレ付きという「当たり部屋」に宿泊することが出来たのでまあ幸先の良い出足といえるだろう。
第4章 静寂が支配する街!アビジャン(2005年11月3日)
翌日(木曜日)、ちょっと疲れていたが情報を取るなら平日に勝負を賭けるしかないので疲労している体に鞭打って大手バス会社を当たってみる。
ブルキナ行きのバスはガーナ経由、直接国内の北へは抜けられないらしい。すぐそばに鉄道駅もあり以前ブルキナへの鉄道がやっていたということも知っていたので、取りあえずは聞いてみようかと思い鉄道駅に立ち入る。それにアフリカでは鉄道が珍しいのであれば利用するしないはともかく必ず立ち寄るようにもしている。
たいして期待もしていなかった鉄道駅で意外な事が判明する。週3便きっちりと鉄道は生きておりブルキナへはこれでいけるということだ。「安全か?」としつこく聞く私に「ノープロブレム」と笑顔で答えられる。おまけにポリスにミリタリーが同行するらしい。
これには少し参ってしまう。
これで抜けられるなら私が作っておいた(コートジ抜けられませんでした)ストーリーは無駄足になってしまう。以前中央アフリカに入国した際も車列に護衛がつくと言われて蓋を開けてみると全く護衛など無く、ヒッチしたトラックが途中で故障して路上で車中泊した経験のある私だがここはその言葉をそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。
まあ、ただ運行されているだけならそれが安全の保障とはならないと思い情報を集めようとプラトー地区(街の中心)へと足を運ぶ。
今日、少し気になっていたことは平日だというのに下町のトレッシュビルでさえ極端に人が少なかったことだ。昨日到着したときはそれなりの喧騒が見て取れたのに不思議なぐらいにひっそりとしている。
トレッシュビルからプラトーへは強盗の多いことで有名な橋を渡るのだがこの異様なまでの人の少なさを見て取った私はたまたま来た市内の路線バスに乗り、橋を越えてプラトー地区へと向かうこととなった。二つの地域をつなぐこの路線バスでさえガラガラにすいている。
「戒厳令でも出ているのか?」
今まで色々な都市を見てきた私にはこの異様なまでの静けさの中に只ならぬものを感じ取っていた。
街の中心であるプラトーへついてみてさらに愕然とする。立派なビルが立ち並びハイソな商店こそ多いものも殆ど営業していない。人もさらにすくなく時折警備員を見かける程度だ。
「ちっ、この俺としたことがコートジボアールの情勢を少し甘く見すぎていたようだ。これが内戦中の国なのか?ここまでの不気味さを味わうのは初めてだ。こんな状況なら一刻も早く抜け出す算段をつけなければ」
と、恐怖におののき藁にもすがる思いで観光案内所にむかう。
「ここなら旅行者も行きやすいし、少しは何かいい情報でも入るかもしれない。」
と思い人通りの途絶えた大通りを歩んで行く。
観光案内所のある共和国広場の前もやはり異様な静けさだ。航空会社のオフィスすら全く営業している気配すらない。観光案内所は大きなビルにはいっていて一度警備員に場所を聞くと違う入り口を示される。そして辿り着いた次の入り口の警備員からの情報で衝撃的な事実が判明する。
「え!? ラマダン(イスラム教徒の断食の月間)明けで今日はお休みなの???」
何のことは無いガイドブックには祝日としてのってなかったが妙な人気の無さや街の静けさもこれなら説明が行く。
こいつは俺の負けだ。
「明日またおいでよ、俺はここにいるからさ」
と警備員に親切に言われ、とどめに
「今日は休みで人がいないからこの辺りは危険だよ」
と笑顔で忠告されてしまう。
いや、休日で人が少ないから襲われても助けがこないなんてまあ常識的な危険だなと妙に得心してしまった。
しかし午前中から色々と頑張っていたが祝日なら仕方ない。結局何もやる事がなくなったのでとりあえず西アフリカ一番の高級ホテルを見に行ったり祝日でも営業している郊外のショッピングセンターへ行ったりして時間を潰す。しかし完璧に計算してアビジャン入りしたのにうまくいくことは中々に無いもんだ。
第5章 なんてことはなかった普通のアビジャン(11月4日―6日)
初日のミスはあったもののそれ以降は精力的に動くことになる。
リベリアまでの航空券は値段こそ350㌦くらいと安いものの週1便という不便さで却下とする。
首都のヤムスクロへのルートは日本大使館こそ「今はナイジェリアの大統領が来て特別に警備が強化されているかもしれない」と止められて、さらに「情勢が分かってきたのなら一刻も早くコートジを立ち去るべき」という忠告も受けはしたが、警備が強化されているなら逆に「検問こそうっとおしいもののかえって安全だ」と判断し行くことにする。鉄道の件はヤムスクロで北へ抜けるバスのルートがあるかを調べてから判断すればいいだろう。
それにしてもアビジャンは久々に見た洗練された都会で街歩きも楽しい。街の中心プラトー地区には高層ビルが立ち並び、商店もおしゃれなものが多く、中々いい感じをかもし出しているし、大きな教会がありそれが変わった形をしており見応えがある。
また本屋も南アを除けばここがアフリカ最大(といっても紀伊国屋の1/5-1/10ぐらいだろうが)というものがあってこれにはかなり吃驚もさせられた。
アビジャンは潟(ラグーン)に沿って作られた都市なので土曜日にはラグーンを周遊するフェリーのツアーなどやっていて、私が普段はしないようなこんなツアーにわざわざ参加をしてアビジャンを色々な角度から眺めてアビジャンを大満喫することとなった。
少々気になった事はと言えば情勢が情勢なのでこんな時期に来る旅行者はついぞ見かけなかったことと、時おり「今戦争中なのに君は来たのかい?」といわれてしまったことだ。こいつは難しいことだが「情勢が少しでも落ち着いていて可能性があるなら入国してしまう」というのはおそらく「今を逃すともう一生ここに来る事は無い」と思ってしまう精神状態が作りだしてしまうことであろう。
※ラグーン周遊ツアーのフェリー上から撮影したアビジャンのプラトー地区
第6章 首都ヤムスクロ行(11月7日)
首都であるヤムスクロ、ここには一つの大使館もそして自国の省庁すらない。前大統領の出生地ということで制定された都市である。ロンプラによるとここにはなんでもすごい教会があるらしいといったぐらいの事しか載ってはいなかった。アビジャンからの200kmの道のりで検問が5回あり毎回下車してパスポートを見せるのが面倒だったぐらいで賄賂の請求等も無く比較的のんびりと到着した。
ついてみて吃驚したのがやけにデカイ教会がかなり離れたところから頭だけポコッと見えたことである。
それにここは正直言ってちょっと栄えた田舎町といったところが表現の限界なのにそこに14階建ての高級ホテルがありフォンダシオン(国際会議場のような物)という建物がある。
そしてとどめに彼らが世界最大という教会だ。後で中に入ったらパリのノートルダムとの比較やバチカンの教会との比較の絵があり「この教会が世界一デカイ!!」と示している。
もし日本にいてどっかの片田舎に不自然にサンシャイン60と日本武道館と江戸城がたっていたらどんな気持ちになるだろうか?ここまでに不均衡な作りをした都市は中々に類を見ない。
※首都ヤムスクロの全景 どうみても田舎...
※バシリカ(教会)はどこからでも見える...(写真では左側にポコッとでてる)
※ヤムスクロ3大建築 プレジデントホテル(写真上)、フォンダシオン(会議場)(写真中)、バシリカ(教会)(写真下)..
こんな“田舎”にいらねえだろう、こんなもん...!
私は到着早々この不思議な気持ちを抑えきれずに午後半日街を歩きまわって見所である全部の建物をみて回り、さらに高級ホテルでたった200円で特注できるアイスコーヒーで昼の全景と夜の夜景を堪能することが出来、大満足であった。
また、ヤムスクロではもう一つ確認したいことがあって以前はここが基点で北の国(マリやブルキナ)へ抜ける直行の大型バスがあったのだが結局今は全滅!情勢は良くないことはこれではっきりした。
しかし不思議なことに鉄道だけは「乗るのを止めなさい」と忠告をされず、むしろ「鉄道は安全だからそれで行ってきなよ」と言われた事である。
「北へ抜けるには鉄道しかないのか」
と悩みつつ、未だに「ガーナに戻る」という考えも捨てきれないまま、まんじりとも知れない夜を迎えることとなった。
第7章 アビジャン再び
ヤムスクロの泊まっていたホテルで夜散々悩んだが結局どうするか「コイントス」ではないが賭けで決めることとする。
賭けは単純で
「ヤムスクロを出てアビジャンについてその日のうちに翌日の1等にチケットが購入できたらやってみよう」
ということである。
「北へはバスでは抜けられないが鉄道なら抜けられる」
と言う半ばギャンブルにも近いような事を決心するには何か馬鹿げた事に身を任せる事が必要だった。
「明日のチケットが今日買えたらそれがゴーサインだ」
と何の根拠も無く決心を決める。
11月8日(月)の1000時頃にヤムスクロを出発、アビジャンへは1500時頃に到着。
そのまま鉄道駅に行くと実にあっけなく明日出発のチケットを購入することが出来た。
本意なのかそうでないのかは自分でも未だに分からないまま。危険度4の地域にこれでソマリランドに続いて2回目の侵入となることになった。
第8章 激闘!! コートジボアール脱出!!(11月8日―9日)
前言
この2日間にわたって私の経験したことは他の旅行者では決して経験できないことであり私の今までの旅行の中で中央アフリカ共和国の入国やコンゴ共和国を陸路で抜けたとき以上に精神的にもっとも苦しかった2日間といっても過言ではない。それだけに思い入れも深いし、その苦労は抜けたときのうれしさと相俟って終生忘れられない思い出となった。ここではその詳細を伝えたいと思う。
※デューク東城を最大の危地に陥れる事となったコートジボアール―ブルキナファソ間国際鉄道、乗り心地は中々良かった。
始発駅であるトレッシュビルのラガールへ0800頃出発は1030予定だが1等なのに座席指定がされていないので少々早く来て万全の態勢を作り上げる。目論見どおり自分の目指す窓際の座席をキープしてくつろぎの態勢に入る。以前聞いていたミリタリーも一等車両(一両しか一等は無い、ちなみにビュッフェ付き)に6人同乗する。「どうやらガードは固そうだ」少しほっとする。
列車はアフリカにしては優秀でたった10分遅れただけで1040には駅を出発、1等座席も2等座席もそれほど込んでなく特に私なんぞは2座席占領してしまっていた。すいていることを喜ぶべきかそれとも「皆情勢を懸念して避けている」として憂えるべきなのか私には判断できなかった。
列車のスピードは想像以上に遅くヤムスクロよりやや南に位置する町ディオンボクロに1700到着、ここで吃驚したことにここでアビジャンから同乗していた兵士が全員降りていってしまう。新しく乗ってくる兵士もいない。「ミリタリーガード」はもうすでにこの列車の手中から離れていってしまった。「うーん、こいつは計算外だ」。
それに停車駅の多さを考慮したところでこれは遅すぎるといわざるをえない。バスなら3時間くらいの距離を8時間だ。それに反対勢力の拠点と言われるボアウケへはできれば早く抜けたいと思っていたのにこれではいつそこまで到達するのかすら分からない。
緊張と不安は徐々に高まってくる。一度駅は忘れてしまったがフランス軍の兵士が車内を点検に来た。情報によると国連軍が地域上に信頼線と言うものを設けているらしいが現地兵とは明らかに違う装備や燦然と肩に輝くフランス国旗のエンブレムがこの場所が正にその「信頼線」である事を如実に物語っている。
「ここからが真の危険な旅の入口だ...」
私の体の中に緊張感が駆け抜け、これからの行く手の困難さを考えると心細くなり始めていた。
そしてその後カンというボウアケ手前の駅で兵士がパスポートチェックに来て乗客が100セーファー(約20円)づつ支払っている。彼らが反体制側かどうかは分からないが私も皆にならって100のコインを兵士の手に渡す。同乗していた兵士のいない今、不安な気持ちは拭いようも無い。
緊張感はマックスに達している。次はいよいよボウアケだ。