重慶大爆撃
重慶大爆撃被害者の謝罪と賠償を求める闘い
 

はじめに 〜「重慶大爆撃とは?」  

 重慶大爆撃は、1938年から1943年までの5年半に及んでいる。日本軍が重慶の一般住民の殺戮を意図的に狙った残虐な無差別爆撃である。日本は、1937年7月の廬溝橋事件で中国への全面的な侵略戦争を開始したが、これ以降日本軍機は上海、南京をはじめとする中国のほとんどの主要都市を爆撃した。
 重慶大爆撃が最も激しかったのは1939年から41年までの3年間であった。1939年の「五・三、五・四」、1940年の「101号作戦」、1941年の「102号作戦」・「六・五大隧道惨案」とそれぞれ呼ばれている爆撃では、重慶は甚大な被害を出した。最近の資料では、この5年半の爆撃による死傷者は6万1300人、うち死者2万3600人、負傷者3万7700人とされる。重慶大爆撃は、日本の侵略戦争に徹底抗戦する中国の政府・民衆の戦意喪失と侵略への屈服を狙った最大規模の無差別・戦略爆撃であり明白な戦争犯罪であった。





1月29日(金)、押上にある東京大空襲原告団事務所にて交流会を行いました。



松潘爆撃、東京大空襲の被害や裁判について原告らが意見交換をしました。

  
星野原告団長に赤いシルクのマフラーを首にかける羌族の張翔里さん(松潘来日訴訟団長)
これは羌族の風習で大切な人を歓迎するという意味があります。


記念写真

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午後3時、東京地裁103号法廷にて松潘の原告安本欽さん、馬福成さんが意見陳述をしました。

午後4時40分、原告と弁護士、支援者等約40人は、
日比谷公園霞門を出発し、虎ノ門交差点、新橋、数寄屋橋、
京橋、水谷橋公園までを約1時間かけてデモ行進をしました。



原告安本欽さん(左)と馬福成さん(右)を先頭にデモ行進する原告ら



水谷橋公園での集合写真

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午後2時より、裁判所2階司法記者クラブ会見場にて
第四次原告である安本欽さん、馬福成さんが松潘爆撃の
被害や亡くなった親族について訴えました。






松潘爆撃によって伯母を亡くした安本欽さん




松潘爆撃によって祖母、叔母、従兄弟の3人を亡くした馬福成さん

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2010年1月27日(水)、第12回重慶大爆撃裁判が開かれました!

裁判当日は朝9時半から午後2時まで東京地方裁判所前で
裁判の支援と傍聴を呼びかける宣伝活動を行いました。

今回は第四次の原告である松潘から原告2名と弁護士・支援者ら7名と
楽山から弁護士3名が来日しました。




松潘爆撃について訴える松潘からの支援者 張翔里さん(中央)



松潘爆撃について訴える松潘からの支援者 禹吉成さん(中央)






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