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古硯說(明)許獬 (現代中国語訳から日本語にしてみました)

2021-08-20 06:45:51 | 日記
  1. 古硯說(明)許獬 

原文、译文 (現代中国語訳)

http://wap.5156edu.com/wyw/html/z6952m5090j6068.html

 

原文、譯文 (現代中国語訳)

https://www.itsfun.com.tw/%E5%8F%A4%E7%A1%AF%E8%AA%AA/wiki-2588986

 

翻譯 (現代中国語訳)
我家有方古硯,是過去因友人的贈送所得到的,接受了後就一直放在那裡,當作一方(普通)的硯台使用著,不知道它是一方(珍貴)的古硯。不久有能辨識古物的人告訴我:“這是五代、宋時的古董,年代很久了,應該小心的把它當作珍寶一樣收藏著,不要讓它受損和毀壞了。”我聽到了這樣的勸告後,也就依從了他的話把(這方硯)當作了寶貝。但沒時間來辨識它是否真的是五代、宋代時的物件。

雖然這樣,這器物如果真的是五代、宋時的東西,當初的人也只僅僅把它當作一個硯台來使用罷了,哪裡知道一定不能毀壞、還一定要把它傳到現在而成為一件古物呢?傳到現在,然後才知道它是五代、宋時(的寶物),不知道它在五代、宋時,那些把周、秦、漢、魏以上時期的器物當作珍寶的人,對這塊(五代、宋時的)硯台又如何(看待)呢?但又不知道那些把周、秦、漢、魏以上時期的器物,拿來給周、秦、漢、魏以上時期的人看,那時期的人看這些器物有怎樣呢?

人們看到世上那些和和樂樂的人,沉醉於奢華艷麗的享樂中,在權貴和地位顯赫的人的門前來回奔跑,卑躬屈膝的樣子,遭受羞辱卻不知道羞恥。這時,有一個人站出來改變這種風氣,高高直立守道自重,憑淡泊的心態守住自己的操守,拿古代先人琴書圖畫、器物愛好來娛樂自己,並且美其名叫“好古”。所以大凡能名之曰 “好古”的人,一定不是平庸世俗的人。因為那不是平庸世俗的人所喜歡的,那么那些平庸世俗的人也就追隨並模仿著他們。於是讀書人中那些追求財利求得上進的人,一定想竭盡辦法拿出權貴們沒有的東西,來巴結侍奉那些權貴要人;權貴要人也時時拿出自己的器物的在讀書人中誇耀。可是那些羨慕“好古”卻不知追求什么的讀書人,也每每與世人競爭角逐,一定要仿效他們所擁有的器物而後快。

唉!這不是真能愛好古物,只不過與平庸世俗的人趣味相同罷了。既然與平庸世俗的人愛好相同,可是還要吵嚷著要擁有好古的名聲,來顯示與那些平庸世俗的人不一樣。不知道他們的名聲是這樣,而他們真實想法卻不是這樣的。

我所說的好古的人,想學習(先人或前輩)的道義,寫他們那樣的文章,思念他們的人卻不能相見,上下徘徊,期望只能得到他們的遺墨、遺物中存留下來的東西來玩賞,就好像恍然見到他們真人一樣,因此喜好它們而從不滿足。所以古代的那些“好古”的人,不是因為他們留下的器物,而是他們的為人。

我看當今世人所愛好的,大都像這樣。不能詳盡闡述,只能表述相近似的,就寫了一篇《古硯說》。


現代中国語訳から日本語にしてみました。

結局のところ、自分でも意味がよくわかりません🤣
(拙訳)
私の家に古い硯があり、過去、友人のを贈ってもらったのだが、受け取った後、ずっとそこらにほったらかしで、普通の硯だと思って使用していて、それが貴重な硯だとは知らなかった。まもなく、古い物を鑑定できる人がいて、私に知らせた。「これは五代、宋の時代の骨董で、年代がとても古く、それを貴重な物と同様にみなして、気を付けて収蔵すべきです。取り落として壊してはいけません。」私はこのような勧告を聴いた後、まあ、その人がこの硯を貴重な物とみなした話に素直に従った。しかし、それが五代、宋代の時の物であるのが本当か否か特定する時間がない。このようであるが、この道具がもし本当に五代、宋の時代の物なら、昔の人もただ単にそれを一個の硯とみなして使用していたにすぎない。絶対に壊してはいけないこと、また必ずそれが現在まで伝わって一件の骨董品になることを、どうして知るだろうか。現在まで伝わり、それが五代、宋の時代の宝物とわかる。それが五代、宋の時代に、周、秦、漢、魏以上の時期の道具を貴重な物とみなす、それらの人たちは、この五代、宋の時代の硯に対して、またどのように取り扱うのだろうか?しかしまたさらに、周、秦、漢、魏以上の道具を周、秦、漢、魏以上の人に持って来て見せるそれらの人たち、その時期の人たちは、これらの道具を見て、どのように扱うのか、わからない。人々は世の中で、和らぎ楽しむ人が、ゴージャスな楽しみの中に酔いしれて、権力と地位の目立つ人の門前で行ったり来たりし、腰を低くしてペコペコする様子で、屈辱を受けても屈辱と思わないのを見かける。
この時、ある人が身を起こして、このような風潮を改めて変える。高く真っ直ぐに立ち、道を守り、自らの言動を慎み、淡白な心の持ち方で自分の信念をしっかりと守る。古代先人の琴、書、図画、道具を持って愛好して自分で楽しむ。そのうえ、美しい名前まで付けて「古きよき」と呼ぶ。およそ「古きよき」と呼ぶことのできる人は、凡庸で平凡な世俗的な人ではないにちがいない。それは凡庸で平凡な世俗的な人が好む所のものでなく、そのようにそれらの凡庸で平凡な世俗的な人も彼らに追随し模倣しないからである。というわけで、読書人の中の、それら財物の利益を追及して求める進歩的な人は必ず、権威ある人たちが持っていない品物を持ち出す可能な限りの手立てを尽くそうと考える。それら権威のある要人に取り入って世話をしに行き、権威のある要人も時々自分の道具を持ち出して読書人の間で見せびらかすのだ。しかし、それらの「古きよき」を羨ましく思うのに何も追い求めない読書人も頻繁に世間の人と互いに競り合って競争し、必ずその後すぐ、世間の人が所有する道具を見倣う。
これは本当に古い物を愛好できているのではない。ただ、平凡で凡庸な世俗的な人の趣味と同じなのに過ぎない。平凡で凡庸な世俗的な人と好みが同じなのだから、やはりまた、古きよき名声を擁するべきだと大声でわめき立て、平凡で凡庸な世俗的な人と同様ではないと顕示するようになるだろう。彼らの名声がこのようであるのに、彼らの真実の考えがこのようでないのかは、わからない。
私が言うところの古きを好しとする人は(先人或いは前輩の)道義を学習したくて、彼らのそのような文章を書き、彼らを恋しく思う人は、かえって相まみえることができない。上へ下へと行ったり来たりし、ただ彼らの遺した墨、遺した物の中に存留してきた品物を鑑賞するだけで、あたかも彼らが実在する人のように会えることに望みをかける。それだからこそ、それらを好み付き従って、満足しない。それ故、古代のそれら「古きよき」人は、彼らが留めてきた道具によってではなく、彼らの人格によってである。
私は今の世の中の人が愛好するところのものは、ほとんどがこのようであると見なして考える。詳細を尽くして論述できず、ただ近似的に述べ、一篇《古硯說》を書いた。



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