下部の碑文は、「江戸時代中期までの講談は町の辻々
に立っての辻講釈や粗末な小屋で聴衆と同じ高さで
演じられていた。文化4年(1804)湯島天満宮の境内
に住み、そこを席場としていた講談師伊東燕晋が
家康公の偉業を読むにあたり庶民と同じ高さでは
恐れ多いことを理由に高さ三尺 一間四面の高座
常設を北町奉行小田切土佐守に願い出て許された。
これが高座の始まりであり当宮の境内こそ我が国
伝統話芸講談高座発祥の地である。
平成17年11月吉日 六代目 一龍齋貞水」
に立っての辻講釈や粗末な小屋で聴衆と同じ高さで
演じられていた。文化4年(1804)湯島天満宮の境内
に住み、そこを席場としていた講談師伊東燕晋が
家康公の偉業を読むにあたり庶民と同じ高さでは
恐れ多いことを理由に高さ三尺 一間四面の高座
常設を北町奉行小田切土佐守に願い出て許された。
これが高座の始まりであり当宮の境内こそ我が国
伝統話芸講談高座発祥の地である。
平成17年11月吉日 六代目 一龍齋貞水」
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