Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

個人情報保護法とハンコ文化・ヒトゲノム

2005-07-20 03:06:15 | エッセイ
日本に帰国してまもなく銀行口座を開こうとして某巨大銀行に立ち寄った。この銀行は中部地区の到る所にATMがあると聞いたので、その利便性を考慮して口座開設に踏み切ったのである。手には残ったアメリカドル紙幣、店員がすぐに妙に丁寧な応対でこう言った。「お客様申し訳ありません、当銀行では外貨は扱っておりません。」すぐに近場の小さな銀行でドル・円の変換を行ったが、妙な気分になった。(巨大銀行でドルを取り扱わず、この小さな銀行では扱っているのはなぜだろう?)ともかく某巨大銀行に戻ったが、もう一つの口座開設への大きなバリアに出会ったのである。

「お客様、印鑑はお持ちでしょうか?」何でもカード&サインで済ませるクセがついていた私は面食らった。まだ「印鑑」を使っているのか・・・。それは文化の問題であるとしても、次の言説に度肝を抜かれた気持ちになった。まず私はこう言った。「印鑑は持っていませんが、サインではダメですか?本人の確認とか個人の情報をプロテクトする意味であれば、サインの方が合理的ではないのですか?」今ならこんな発言はしない。このテの発言は日本では"洋行帰り"とか"西洋合理主義"として嫌われ易いと判ったからである。

そこで店員は答えた。「申し訳ありません。サインはお受けしておりません。代わりに印鑑を承っておりますが、三文判でしたら隣の売店にもございます。印鑑をお求めになって下さい。」確かに合理主義的思考だったのかも知れない。ここまで来て私は理解の限界に達していた。

隣の売店でも買える印鑑でもって本人照合をしているのであれば、それは全く意味が無い事になる。たとえば、私を装った国際テロ組織・アルカイダのメンバーが「森」というハンコを買って使ってもよいはずである。(笑)サインのよいところは、それが「本人」にしか書けないという点である。何度かサインを書かせれば、本人のクセが出てくるし、私のサインには私しかアクセスできない。誰でも買えるハンコとは個人情報保護という観点からは雲泥の差が出てくるのである。



最近「個人情報保護」について喧しい。医学部の学生実習においても、実験データを個人情報の観点から提出拒否された場合についての対応について指示をされている。個人的考えを述べれば、学部学生の実習データに個人情報も何もないはずである。第一それなら科学データは公共のものではなく、データ提供者のものとなってしまう。ヒトゲノムプロジェクトなどでの遺伝子解析の結果(遺伝子配列)はでは科学データなのか個人情報なのか?HELA細胞は公共の実験系細胞となるのか、株を生み出した被験者及びその親族のものなのか?

やはりハンコなど「アクセス可能性」の高い存在は「個人情報保護」の象徴(鍵)になりにくいのではないか?

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