超級龍熱

香港功夫映画と共に

“日本アクション映画、最後の闘女”屋敷紘子インタビュー① 君よ、霧の都ロンドンへ飛べ!編

2018-02-15 12:15:37 | その他

私こと龍熱にとってライフワークの1つでもあるアジアの女ドラゴン映画。これまでアンジェラ・マオ、大島由加里、ミシェル・ヨー、水野美紀へのインタビュー、さらには武田梨奈、三田真央ら数々の女ドラゴンたちと対面を果たして来た私がどうしても避けて通れない日本の女ドラゴン、いや“闘女”がいる。
その“日本アクション映画、最後の闘女”こそ屋敷紘子。これまで「RE:BORN」を初めとする何本ものアクション映画でその本格派のアクションを披露して来たヤッシーさまに龍熱が90分3本勝負を挑んだ直撃インタビュー全3回をここにほぼノーカット版としてお届けする。今回「超級龍熱」屈指の人気企画である「アルティメット・インタビュー」でヤッシーさまが初めて、そして赤裸々に語った自身のアクション女優人生は、最終的には3万字(!)にも及ぶ超ロングインタビューとなった。
そう、これは1人の女子高生が単身イギリスに渡り、そこで孤独と闘いながら演劇の扉を開き、やがて帰国の後にアクションの世界に飛び込み、さらに韓国の地獄道場で血反吐を吐きながら修練を積んだ果てに、遂には世界の巨匠ジョン・ウー監督作品「マンハント」での日韓女ドラゴン対決に辿り着くまでの血と汗と涙の道程を語り尽くした“日本武打星一代闘女傳奇”なのである!!

ーではヤッシーさま、今日はよろしくお願いします。

屋敷 よろしくお願いします!

ー早速ですが、大阪出身でらっしゃるんですね。

屋敷 生まれは三重県なんですけど、3歳の時に父親の引っ越しで家族で大阪に引っ越したので、もう3歳から高校卒業するまでは完全にメイド・イン・大阪です。

ー小さい頃から映画はお好きだったんですか。

屋敷 父親がパイオニアの音響機器の仕事をしていたので、別にそんな裕福じゃなかったんですけど家に凄いスピーカーシステムとか“良い音”は沢山あったんですね。
なので父親はレコードとか、当時レーザーディスクがあったので、映画は結構観ていましたね。それも私が好んだり選んだりして映画を観ていたのではなくて、父親が“良い音”でかけてくれた映画を一緒に観ていたのが始まりみたいな感じです。

ーその当時に観た思い出の映画は何でしょう。

屋敷 一番覚えているのが「ローマの休日」(53)とか「サウンド・オブ・ミュージック」(65)かな。あとこれは今の人は中々観ていないと思うんですが「マタンゴ」(63)です。

ーええっ!あの東宝怪奇映画の「マタンゴ」ですか!?

屋敷 もう「マタンゴ」怖すぎて暫くキノコが食べたくなくなるぐらいで(笑)。弟と2人で「マタンゴになっちゃうぞぉ~!」って震え上がってて。あと「マタンゴ」と同じくらい怖かったので覚えてるのが「死霊のはらわた」(81)!

ーちょ、ちょっと女の子の思い出の映画では出てこない作品ですねえ(苦笑)。

屋敷 嫌でしたねえ!いま大人になって観れば傑作ですけど(笑)。そんな父親の影響と言うか、父親が観ている映画を観ていましたね。

ー何時頃から女優さんになろうと思ったんですか?

屋敷 子供の頃は全然引っ込み思案で人前で何かするなんて考えていなかったので、高校3年の頃に進路を考える頃「いったい自分は何をやりたいんだろう?」って本心を考えた時に「あ、私は芝居とか映画とか表現する方に回りたい」って。
舞台とか観るのは好きでしたけど、自分がそれをやりたい!と強烈に思ったのは17歳ぐらいからですね。

ー屋敷さんの世代だと香港映画ならジャッキー・チェンですよね。

屋敷 私が小さい時、多分ジャッキーの「ドランクモンキー酔拳」(78)の頃だと思うんですけど、おばあちゃんの家に帰ると夜のテレビのロードショー番組でしょっちゅう放送していたのがジャッキー映画とか「ロッキー」(76)とか男性が好む映画だったんです。
でも私自身の好みってわけではなかったので流し見で観ていました。あと従兄弟が男だらけなので皆がジャッキーの映画を観ていて、一番小さかった私と弟にジャッキーの技を真似てかけてくるんで本当に鬱陶しいな!って(笑)。

ージャッキーの技って言うと、どんな技なんですか(笑)。

屋敷 ポーズが取りやすい「蛇拳」とか、そういうのを真似しながらやって来るんですよ。で、私はご飯食べてるのに「あ~もう鬱陶しいなぁ!」って(笑)。
なので当時は意識して観たアクション映画って1本もなかったかも知れないですね。
だから私はアクション映画に興味を持たないまま大人になって芝居の道に入っていったので、アクション映画に出会ってはいたけど全部通り抜けていった感じです。

ーそれはちょっと意外ですね。ではブルース・リーはどうですか。

屋敷 ブルース・リーも有名だし知っているけどぐらいで。学生時代も私はブルース・リーは見向きもしなかったし、家で父親が一切アクション映画を観なかったので私も触れる機会がなかったんです。
あと映画館でもブルース・リーの映画を上映していなかった世代なのでちゃんと観た事がなかったんです。

ーそんな屋敷さんが今では本格派のアクション女優になられているとは(笑)。

屋敷 はい(笑)。本当に不思議ですよね。

ーそして高校卒業後にイギリスの演劇学校「London International School of Acting」に入学されるんですね。高校を出たばかりの女の子が1人で海外の学校に入学するのはかなり大きな決断だったと思います。

屋敷 17歳とか18歳ぐらいに進路を決めなきゃいけないとなった時に、やっぱり両親は普通に大学に行って欲しい、そこから公務員だよねって感じだったんです。
でも私はそこで初めて両親に「大阪芸大の演劇学科コースに行きたい。そこで芝居をやってみたい」って言ったんです。
それを聞いた父親は自分がバレエも見るしオペラも見るし映画も観るしクラシックも聴く人で芸術が好きな人だったので「そんな生半可で中途半端に芸大に行ってうまくいくはずないだろう!」って言われたんです。
でも私はどうしても普通の大学に行きたくなくて。自分がやりたい事もまだ見えなかったし。で、私が考えに考えていた時に私の従兄弟、章兄ちゃんって言うんですけど、その章兄ちゃんがニューヨークとロンドンでフォトグラファーをやっていて、彼がたまたま日本に帰国していて、私が「章にいちゃん、私は自分の進路をこういう風に思ってるんだけど、どうしたらいいかな?」って相談したら、章にいちゃんが「ダンスやミュージカルならブロードウェイだけど、芝居なら発祥の地はイギリスだぞ。やるならイギリスに行ってやればいいじゃないか。芝居も根本は変わらないんだ。やってみろよ!」って言ってくれたんです。

ー章兄ちゃんの素晴らしいアドバイスだったんですね。

屋敷 でも私、英語は何時も欠点だったんです。何時も補習で3にして貰ってたんですね。でも私はイギリスに行く事だけは「これだ!」って思ったんです。
それで高校3年の元旦に父親と母親に「もし私を大学に行かせてくれるお金を貯めててくれたんだったら、私はそのお金でロンドンの演劇学校に行きたい!」って直談判したんです。
それを聞いた両親は「お前、そんな事一言も言ってなかったし英語も出来ないのに頭おかしくなったのか?」って感じだったんですけど、最後は両親も「そんなに言うならやってみなさい」とイギリス行きを認めてくれたんです。
で、そこから高校卒業して、5月のゴールデンウィーク明けに1人でイギリスに行く事になったんです。

ーイギリスに行かれたのは何時頃ですか。

屋敷 確か1996年頃から99年頃までだと思います。ただ演劇学校は簡単に入学出来ないし英語も出来なかったので、丸々1年は現地の英語学校に行ってひたすら英語を勉強しました。
でも英語学校の英語じゃ芝居は出来ないので、学校の後に大学の夜間クラスとか色々な所で英語を勉強しました。
でもいざオーディションを受けるとなっても英語はネイティブじゃないし外国籍だし受け入れる学校も少なかったんですね。あと差別も厳しい国でしたから。
現地に演劇向けの新聞があるんですけど、それで学校のチラシを見て自分で学校の門を叩いて廻って「私はこういう者なんですけどオーディション受けさせて貰えませんか?次の年度から留学させて貰えませんか?」って。それでその中の一校で入学出来たのが「London International School of Acting」だったんです。

ーそのオーディションを受けている間は何処に滞在されていたんですか。

屋敷 アパートと言うかフラットを借りてました。あとイギリスは日本と違って一軒の家を何人かで借りるハウスシェアが多かったんです。親から多少仕送りも頂いていたので。
で、私が入学した学校が唯一外国籍の生徒も受け入れていたのと、先生もフランスとかギリシャとかから来ている先生が色々な脚本を持って来て古典や現代劇を教えてくれるんですね。
私に関しては英語はまだまだだけど芝居は出来ているようなのでと言う事で入学出来て、1年間殆ど休みが無くて芝居の勉強だけで4学期ありました。

ー学校では屋敷さん以外に日本人の生徒さんはいたんですか?

屋敷 男性の先輩が1人いました。でも学校の中では日本語は一切喋らなかったので。彼も現在舞台俳優をやっていて今でもやり取りはしています。
私以外にたった1人だけいた日本人だったし、ロンドン中探しても演劇をやっている日本人って私たちだけだったと思います。
その先輩には学校のしきたりとか教えて貰いましたし、学校では学年に関係なく芝居をするので、お互いひたすら英語で喋っていましたね。

ー私も中等科がアメリカンスクールで、そこに英語が全く出来ない状態でポン!と入れられたので、当時の屋敷さんの孤独感が相当なものだったのはよく判ります・・・。

屋敷 ・・・辛かったですね。言葉が出来ないから他の生徒の中にも入っていけないし。でも人間って根本は変わらないので、やっている内に英語が出来なくても何か通じるものがあったりとか。
あとは毎日が台本読むので精一杯で、現地の生徒が2、3時間でパパッと読むのに私は12時間ぐらいかけて読むわけで、朝6時に台本読み終わって、1時間くらい寝ただけですぐ学校行って。もう寝る時間なんて全くなかったです。

ーそういうハードな毎日の中で嫌でも英語力は身についていったんですね。さらには古典から現代劇もマスターしていって・・・。

屋敷 全部やりました。向こうではそれが当然というか、シェイクスピアからモリエールとか全部です。向こうでは役者というのはちゃんと学んでプロフェッショナルになっていくという考えなので、日本のようにアイドルさんがいきなり、とかは無いんですね。

ー「London~」には3年いらしたんですか。

屋敷 イギリスにはトータルで3年いましたが、学校には学費がそんなに払えなかったので1年ほど在学しました。

ー屋敷さんがこの「London International School of Acting」で学んだ一番大きな事は何でしょうか。

屋敷 やっぱり・・・実際の台詞廻し、芝居は言葉じゃないんだって事ですね。勿論、言葉はツールではあるんですが、言葉に頼る役者には絶対ならない!と思いました。
その人が何故ここにいて、何故生きているのか、その根本が無いと。
言葉なんて本当に只のツールで、勿論それは演技を完成させるためには必要なんですけど、でも言葉とか、表面とか、見た目だけに頼ったら絶対に面白くないって。
私の拙い英語でも芝居では通じる事もあったわけで、だからこそ台詞廻しとか言葉とかのテクニックに囚われないでおこう、とは今だに思いますね。

ーこのロンドンでの3年間が「女優、屋敷紘子」のベースになったんですね。

屋敷 はい、なりましたねえ。凄まじく大変でしたけど(笑)。

ーロンドンから帰国なさった時は20歳ぐらいですか。

屋敷 はい、20歳でした。

ーそこから女優活動を始められたんですね。

屋敷 やりたい!と思って、大阪に実家があるので一端大阪に帰って、半年ぐらいで上京費用を貯めなければいけなかったんです。
両親は生命保険を解約して私をロンドンに行かせてくれたので、もうこれ以上両親に負担をかけるのはとてもじゃないけど無理だし、アルバイトをして上京資金を貯めて、それこそ段ボール1個とバックパック一つで上京して来ました。
そこからはもう全く判らない東京で「え~どうやって芝居やっていこうかぁ」って思いながら、舞台をやったりしながら、アルバイトを探したりでした。

ー映画デビューは「自殺サークル」(02)になるんでしょうか。

屋敷 それはもっと後になりますね。私はその前に舞台をやっていたので。映画界ってどうやって入っていけばいいのか判らないジャンルなので「映画ってどうやって出たらいいんだろう?」って。しかもイギリスから帰って来て日本もまだよく判らないわけだし。
そんな時に唐十郎さんの赤テント出身の山崎哲さんっていう凄く厳しい演出家がいるんですけど、その方の舞台にたまたま私も出れる事になって、その時は映画は忘れてとりあえず芝居がしたかったんです。山崎さんはメチャクチャ厳しい人で、ロンドンで相当シンドイ思いをして来た私が精神病になりそうなくらいシンドかったんですよ。
そんな山崎哲さんの舞台をやりながら「どうやって映画に出たらいいのかなぁ?」なんて2、3年ぐらい模索していましたね。
だから「自殺サークル」は私が24歳ぐらいの時に出た映画で、確かにこれが映画デビューです。

ーここから映画女優、屋敷紘子がスタートしたんですね。

屋敷 そうなりますね。この時って「ぴあ」という雑誌の端っこの余白みたいなところに「園子温、新作映画キャスト募集。オーディションあり」って書いてあって、それを読んでオーディションを受けたのが「自殺サークル」だったんです。
で、この「自殺サークル」の現場で会ったのが「VERSUS」(01)のヒロインの三坂知絵子だったんですよ。その現場で彼女から「私、この映画のヒロインやってるから是非観てね!」って渡されたのが「VERSUS」のチラシで、私はそれがキッカケで「VERSUS」を知ったんです。あとこの現場には「虎影」の西村喜廣監督も実はいたんですけど。その後、私は「VERSUS」の初日に渋谷の「シネアミューズ」って映画館に行ったら満員で観れなくて、その日は諦めて帰ったんです。
そこから私も「VERSUS」の事は暫く忘れていたんですけど。
でもその後「サバイバル自衛隊SO SOLDIER」(05)っていう今ではもう幻のアクション映画なんですけど、私がそのオーディションに受かって、アクションリハーサルの時にその映画のアクション監督の小原剛さん、その下についていたのが園村健介さんで、彼らが「僕たちは「VERSUS」みたいな映画を目指したいんです!」って言うんですね。
そう言われた私は「あれ、「VERSUS」って何か聞いた事あるな?」と思って、そこで初めて家で「VERSUS」のVHSを借りて来て観たら、もう「何だ!これえええ!」って凄まじい衝撃を受けたのが全ての始まりです!!

ーおお、いよいよアクション女優、屋敷紘子誕生の時来たり!!

以下、屋敷紘子インタビュー②、「君よ、韓国地獄道場の門を叩け!」編に続く!!

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