ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

光太郎のように

2008-01-19 23:06:06 | 
遠い遠い回り道をしてきた。いや、まだ、回り道の途中かも知れない。
今いる自分が、あるべき自分の道を歩んでいるなどと、どうして信じられよう。
今が、回り道だとすれば、そもそも僕の本当の道とは、どこにあるのだろう。
どこに回帰すれば、僕の本当の道にたどり着けるのであろう。
本当の道など、存在するのか。実はそんなものは、ありはしない。
現に歩んできた道だけが、僕の後ろにある。ただ、それだけ。
あのときこうすればよかった。であれば今頃は・・・、などと考えるのは愚の骨頂であろうか。
頭の中だけの妄想とか空想。
後悔などに、何の意味も無く。
あるのは、現にここにいる、自分だけ。そして、今歩んでいる道。
こう、堂々巡りするのは、自分にちゃんとした羅針盤がないから。
到達すべき目標とか理想があれば、そこに向かって航海のしようもあろう。
海図も羅針盤も、今の僕には必要ない。
ただうろうろと、波のまにまに、浮かんでいる。
または、波打ち際で、永遠に踊っている流れ木のよう。
だらしのない人生だなぁ。
他人の生き方は、その人になりきれないから、わからない。
けれども、せっかくこの世に生まれてきて、こんなだらしの無い生き方をしていていいんだろうか。
神様の罰が当たりそうだ。いい加減だなぁ。
もっと大切に生きろ。まだまだ、僕の人生に残された時間はたっぷりある。

「僕の前に道は無い。僕の後ろに道はできる。」

高村光太郎の強い意志。彼は、最後を、岩手県の人里離れた山小屋で過ごした。
木彫りの仏を彫りながら、たった一人きりで。千恵子との思い出をきっと胸に秘めて。
光太郎66歳の時の詩。

三畳あれば寝られますね。
これが小屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のように美味。
あの畑が三畝(うね)、
今はキャベツの全盛です。
ここの疎林(そりん)がヤツカの並木で、
小屋のまわりは栗と松。
坂を登るとここが見晴らし、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでいる突き当りの辺が
金華山(きんかざん)沖ということでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
後ろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん こういうところ好きでせう。



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栗金団を買い込んで

2008-01-19 12:23:10 | 
歌舞伎町は、歌舞伎座があるわけでもないのになぜ「歌舞伎」なのか。
それは、戦後復興時に、この一帯を歌舞伎や能など文化的な地域にしようと、
地域の人たちが、先んじて命名したことが所以だと言う。
しかしながら、そうした地域の人たちの願いとは裏腹に、現在のような歓楽街になってしまった。
コマ劇場のような芸能は一部あるものの、他は、風俗やらマフィアやらが跋扈する。
その裏のラブホテル街は、学生の頃同棲していた彼女と良くお世話になったので、思い出深い街でもある。
デパートの地下の食品店で、なぜか栗金団を大量に買い込みホテルに持ち込みがぶがぶ喰った。相当腹がすいていたのだろう。
また、まだ十分若かったから、何度も行為を繰り返すため、そのエネルギーの源のためだったんだろうか。理由はすっかり忘れてしまった。
単に、彼女の嗜好だったのかもしれない。僕は、別に好きでも嫌いでもない。
その後しばらくし、うっかりポン引きにやられてしまったこともあった。これは痛かった。あのポン引きの瞬間芸は、まさに芸術である。
その才能をもっと別のところに使えば良いのにと思う。
今も通りには、怪しげなお兄さんおじさんたちがうろうろと獲物を狙っている。
5万円やられた。裏の住宅地のみすぼらしいビルの一室に引き込まれ、チープな写真を形式的に見せられ、少しするとその写真とは似て非なるおばさんがやってきて、「お兄さん。こんなのに引っかかっちゃ駄目だよ」と、さんざん説教され、やることをやって、「今度からは気をつけなよ。お兄ちゃん」といって帰っていった。
そんなこととわかっていたが、一度どんなもんか経験してみたかった。面白半分でもあったのだが、もう二度と御免だ。ずいぶん大人になったような気もした。
新宿は、甲斐バンドの解散コンサートのために来た。80年代後半ごろか。都庁が出来る前、あの辺一帯は大きな公園だった。その公園が満杯になった。熱狂的なコンサートで、青春の終わりを告げるような宴であった。
けれども新宿歌舞伎町は、今も好きな街の一つである。

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同窓会

2008-01-19 01:08:17 | 
さっき帰った。部下も今日は軒並み新年会とか言っていた。僕も、当時の同級生の同窓会というか新年会に出た。
昔話に花が咲いた。あの話、この話、ここで言えないことばかり。
20年前に一足飛びに戻り、あの頃の空間に浸りきった。
と同時に、今の現実にみんなため息をつきつつ。
早い奴で息子がもう25才になるという。
下のほうでも娘はもう10才だという。
未だに学生気分で人生を憂いているのは僕ばかり。
みんな日々の現実にいっぱいいっぱいのようだ。
僕の環境をみんな羨ましがっていたが、僕は僕でそれ以上の悩みがある。
生きている限り、どんなステージで、どんな境遇にあろうと、人は苦悩から解放されることはない。
そんな現実から目をそらし、人は生きざるを得ない。日々の煩雑さゆえにそんな現実を振り返る暇もなく時間が過ぎる人もいる。

僕は、そんななかで空虚に日々を過ごしているんだなあ。
思想も信仰も自己愛も何も無い。
刹那の愛、刹那の恋、刹那の友情、刹那の生甲斐、刹那の情熱、刹那の・・・、
その刹那の積み重ねのみでできている自分の生き様。

またしても酒をしこたま飲んだ。
そしてフィリピンバーでいやになるほどカラオケを歌ってきた。
実は、僕はカラオケが好きで、自分で言うのもなんだが歌が上手い。
聞きたければいつでも聞かしてあげよう。実は、ダンスも上手い(マジ?)。
飲んでも歌って踊ったよ。僕の中の空白は埋まりはしないが、それはそれで刹那を楽しめばいいんだ。

瀬戸内晴美のように出家するまで煩悩は消えないだろうね。
寂聴師匠に弟子入りを希う。

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専門的ということ

2008-01-17 22:56:40 | 
部下が、ある雑誌に掲載されたやけに太った男の写真を見て、「いったい何キロあるんだろう。みんなこうならないように気をつけなきゃね」と、それを差し出した。(一番やばいのは・・・、と思いながらも武士の情けで多くは語らなかったが・・)
なんと、元祖オタク評論家の「岡田斗司夫」ではないか!?しかもそのページの隣に現在の写真が大きく載っていた。同一人物であることに部下は気がついていない。
体重117キロ→67キロ、体脂肪率42%→17%という凄まじいばかりの成果を達成した岡田斗司夫は、まるで別人。すっかり上品なジェントルマンになっていたのである!?今も大学の客員教授(「オタク論」?)をしているようだが、確かに教授然とした風貌になりきっていた。
昔の脂ぎって見るからに息苦しそうな体躯の面影は、もはやどこにも無かった。

「これとこれは同じ人だよ」

「えぇぇぇ~・・・・(ひぇぇぇ~)」

部下の悲鳴にも似た驚きの声に心臓が止まるかと思った(ウソ)。
岡田は、調子に乗ってそのページにダイエットの「秘法」をまとめた本の紹介までしていた。ここまでに至るには並大抵のことではなかったろう。一読の価値はありそうだ。

で、デブのダイエット法を語りたかったわけではなく、その「オタク」にこだわり続け、学問にまで昇華させた岡田斗司夫の凄さというか、専門性についてである。
誰も見向きもしない分野や事象、現象にとことんこだわり続け、何がしかの本でも出せば、一夜にしてその道のオーソリティーになれるということ。オタクでもオムツでも何でもいいのである。

僕の大学の同期のノ●ベ●賞のTのことは前に書いたので省略する。ふたつ下の寄宿舎の後輩Iについて。
90年代の半ば、神戸の震災の前後でインドネシアやらパプアニューギニアやらフィリピン沖やらで大地震がやたら続いた。そのたびに「津波」の被害や日本への影響が語られた。その時に、必ずTVに登場するわが「母校」の先生がいた。歯切れの悪いしゃべり口といい、細面の色白の容姿といい、まさにIではないか。Iは若くして教授となった。しかも専門は、「津波」学・・・!?
Iは、その頃誰も見向きもしなかった「津波」の研究に、憑かれたように没頭したらしいことを風の噂で聞いた。津波に没頭したくなったIの気持ちもわからぬではない。
何でも良かったんだろう。寧ろ、皆が大宇宙だ天体だ、アインシュタインだと騒がしかった時に、ひっそり日の当たらないところにいたかったに違いない。
それが、意外なところで脚光を浴び、TVにまでひっぱりだされたから本人もたまらなかったろう。何しろ、津波をそれとして語れる専門家がいなかった。ご愁傷様である。
それにしても、「うろ覚えのI」と言われていたあの男がこんなに立派になっているとは。感動ものであった。
他にも、ペレストロイカの最中、ゴルバチョフに直撃インタビューしていたとある新聞社に就職した後輩のTの勇姿にも感動した。
他にも、、、。きりがないのでやめよう。

それにしても、きょうび、人のする裏の専門性を磨き上げることが成功の秘訣といえるかも知れない。みんながすることをしたのでは大成はしない。なぜなら競争が厳し過ぎるから。競争の無い分野をいかに見つけるか。「先生」と呼ばれる近道が、そこにある。
「オタク」「電車男」「津波」、・・・・。
僕の場合は、・・・何だろうか。日陰者の逆襲。
部下はことによると「メタボ」評論家。メタボはもうメジャー過ぎるかな。

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早朝トレーニング・・

2008-01-16 23:16:13 | 
英会話のジオス。朝の8時から実験的に教室を開いたら、結構繁盛しているという。
出勤前のサラリーマンが、熱心に講義を受けに来る。凄いなあ・・・。
業界トップクラスの駅前留学で有名なところが、解約金の不払いが元で潰れちまい、ブームも終わったかに見えた。しかし、英会話熱は依然として衰えを見せていないんだなぁ・・・。

そういうニーズが世の中にある。経済のグローバル化が進展し、国のボーダーがいよいよ曖昧になってきたからだ。
通貨という国力を象徴する価値も、本質的価値の増殖を求めて国を超える。
ドルであろうがポンドであろうが、はたまたインドネシアルピアであろうが、たちまち利益の臭いをかぎ分けて、目ざとく儲かる対象の前に資本として立ち現れる。
それに引きずられるように人も動く。人も国境を越える。
人と人のコミュニケーションを仲介するのが言語である。
資本が瞬時に飛び交う現代であればこそ、なおさら共通言語化しているイングリッシュが必須となる道理だ。

僕も仕事柄、外人さんとコミュニケーションを迫られる場面が多々ある。
今日もそうだった。とある外資系証券会社のアレンジャー(要するに通訳)を通して、来社した英国の投資家にビジネスの話をせねばならなかった。
相手の言葉をこちらに伝え、こちらの話を相手に伝える。英語を流暢に使いこなす証券会社の女性が何か「女神様」のように見えた。
確かに今日のアレンジャーは、長い髪のすらっとした美形の彼女。年齢も30代後半。見るからに「女神」っぽかった。残念だったのは薬指に指輪をしていたこと。
いったい僕は、何を見てたんだ??実は彼女に見とれていた・・・(スマン)。

あんなに勉強した英語が、いまや何にも役に立っていない。いや、正確には英会話としてまったく役に立っていない。
英語は得意な方だった。もちろん、受験のための英語である。
それでも、以前の会社では、外国から流れてくる英文のテレックスを解釈し、和文に直すというような仕事も経験し「昔取った杵柄」で大変重宝したこともあった。
しかし、スピークやヒアリングは、まったく別世界。もう、駄目なのである。

実は、○十の手習いとばかり、「駅前留学」してみようかと密かに考えている。
その、早朝トレーニングならもしやと思った。仕事終了後は、もうそんな気にはならない。もうくたくたで帰って風呂入って寝ることしか考えられない。
トレーニングにより、あの「女神」のお姉さまのように、すらすら流暢に話せるようになるものだろうか。
それとも、英会話会社にぼったくられて仕舞いなのだろうか。

こんな考えがもう●●年早く僕の中に実感できていれば、何も考えずにアメリカへ武者修行に旅立ったろう。2~3年いれば嫌でも熟達する(はず)。
いまさら武者修行に行けといわれてもなぁ・・・。

英語を話せるようになりたい。もしかしたら今一番望むことかも知れない。

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はてしない物語

2008-01-15 22:51:32 | 
人の思いは、なかなか相手に伝わらない。
歯がゆくて歯がゆくてしょうがない。
伝わらなくても伝わらないまま、
いつものように何も変わらず日常は過ぎていく。
たとえ思いが相手に伝わったとして、それがどうだというのだ。
なにも変わりばえのしない現実が、ただただ続いていくだけではないか。

こんなニヒリズムによく襲われる。何もかも放り出したくなる瞬間。
時計の振り子が左から右へ大きく振れる刹那。
頭の中の回路が「プツン」と切れる。虚無の世界へようこそ・・・。

僕の中の心象風景が荒涼としていく。
戦中に空襲で焼け野原となったここ東京の原風景。
こんなことを幾度と無く繰り返してきた。

ミハイルエンデの「果てしない物語」では、世界を虚無が覆う。それを救うために少年が立ち上がった。そう、ファンタジーエンを救うために・・・・。

この物語の最後に、古本屋で主人公の少年が店長に自分の体験した冒険の話をした。ファンタジーの共有。
店長は言う。
「きみは、これからも、何人もの人に、ファンタジーエンへの道を教えてくれるような気がするな。そうすればその人たちが、おれたちに生命の水を持ってきてくれるんだ」
ファンタジーは共同、共有、共感の世界かも知れない。
ファンタジーは虚無の対岸にある。

ファンタジーと妄想は違う。現実を見る創造的な、想像的な視点。
つまらないと思っていた事象に新たな見方を提示し、驚きと違う世界を広げる。
それは、時として絵画であったり哲学や音楽であったりもする。
表面的な現実に深みを与えるものが、ファンタジー・・・・。

ファンタジーをヨスガに、荒れ果てた耕地に、また種を蒔き緑を起こすとするか。
生命の水をいろんな人に運んでくれる人との共同・共感を求めて。
そして僕はファンタジーエンへの道を教える旅に出なければならない。

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Dr.コトーならぬ・・

2008-01-14 21:10:27 | 
寒空の中、駅前のジェネリック薬品の販売店へ足を運んだ。
何でもいいから抗生物質が欲しかった。愛想の悪い店員に、「処方箋は?」と聞かれ、「ありません」。
「それでは販売できませんねぇ・・・」
あ、そうですか。悪うございました。とっとと店を出た。
さて、開いてる病院はないかと思案した。
ほとんどの病院・診療所は日曜・祝祭日はお休みである。
そもそも病院は、土日、祝祭日こそやるべきではないかと常々思う。
大多数の勤め人は、仕事の忙しい平日は行きにくいに決まっている。診療に行く頃には相当悪化している。にっちもさっちもいかなくなって初めて会社の許可をもらって行くことになる。
何とかならぬものだろうか。

灯台下暗しで、そういえば近くの病院に緊急窓口というのがあることに気がついた。
早速お伺いした。インタホンで事情を説明したら、入り口を開けてくれて中に通された。少しほっとした。
年配の看護婦さんが出てきて、「今日は整形外科医の先生しかおりませんがいいですか??」
いいも何も、医者は医者でしょ。しかもたかが「扁桃腺」くらい内科も外科も耳鼻咽喉科も無いだろうと思った。
出てきた先生は30才前後くらいの若手であった。Dr.コトーばりの出で立ち。
体温を測り先生から細かい問診を受けた。診断書にことさら一生懸命に症状を記入していた。
「それではお口をあけてもらえますか」
これでもかとばかりあーんと大きくあけた。
「あ、、、結構赤く腫れてますね・・」
痛み止め、炎症沈静、止血?の薬を1日分出しておくと言われた。
僕は、「先生、喉チン子に薬塗ってください」とお願いした。
扁桃腺といえばこれは必須だろう。
先生は看護婦さんに「それってあるの?」と聞き看護婦さんはそこいらじゅう捜していたが、無いとのことだった。一応総合病院で内科もある。置いてないことは無いだろうに。
先生は、厚い薬の台帳をペラペラめくっていたが埒があかない。
「無いみたいですね。私、整形外科なんで詳しくなくてすみません」

ということで、薬だけ3回1日分もらって帰った。保険証を出したが5千円取られた。看護婦いわく、「事務員いないんで一応5千円いただきます。今週来てくれれば清算致します」だって。

薬飲んだが、一向に改善している気配が無い。薬自体も自信が無かったのだろうか・・・。
普通なら、3日分くらい出すだろうに。
藁をも掴む気持ちで行った病院だったが、徒労だったかも・・・。

扁桃腺のおかげで貴重な休日潰れっちまった。明日と今週のハードな仕事の予定考えると更に憂鬱だ。直るものも直らんなこりゃ・・・。

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夢枕に立つなよ・・・

2008-01-14 12:55:43 | 
この辺の耳鼻咽喉科をyahoo地図で捜した。いくつか近くの医院は知っていたが、思いがけずその多さに驚いた!内科、歯科、小児科、産婦人科、そして耳鼻咽喉科など狭い地域に密集してあった。こんなあったっけ???
よっしゃ!朝一で薬でももらってこようか。と、開店時間を調べようと思ったが、なんだよ。祝祭日はどこも休みじゃあないか・・・。ちくしょう。

昨夜は、汗っぽく寝苦しかったが、熱もやや収まりいつの間にか寝入ったようだ。
けれどもまだ扁桃腺は痛いし、腫れが収まっている気配は無い。これは風邪と明らかに違う。風邪の部分は何とか治まった感じがするが、扁桃腺独自の部分は依然として燻っている。
昨夜は、亡くなった爺さんや婆さんが夢枕に立った。何だよ縁起でもない。
そっちに逝くにはまだ早いだろう。もう少し時間をくれよ。
爺さんはタバコを吸っていて灰皿をくれないかと言い、僕は「どこいったっけなぁ・・」と捜しに行こうとしたら婆さんが、沸かした牛乳を持って来て「学校へ行く前に飲みなさい」とテーブルの上に置いた。「わかったよ・・・」それと同時に目が覚めた。
何の暗示だったんだろう・・・。

夢枕とか虫の知らせというのはよくあると言われる。幽霊を信じない人でもその程度のことなら一度や二度は経験があるのではないか。僕は、その辺の事情には疎いので、多くを語れないけれど、次のような体験談を半信半疑で聞いたことがある。

亡くなった親や兄弟が綺麗なマンションに住んでいて、「オレもここに住みたい」と言ったら「まだ、ここに来るのは早い!」と言われて目が覚めた。
また、やってきた黒塗りのタクシーに数年前に亡くなった両親や親戚が乗っていて、席が空いていたので、「私も乗りたい」と言ったら、かわいがってくれていた叔母さんが「お前は、まだ若いから乗っちゃ駄目だ」と言ってタクシーは走り去った。置いてきぼりになったようで、悲しくなって涙が出たら目が覚めた。
毎年、お盆の季節になると、同じ浴衣を着た父が玄関で「ただいま!」というから、「おかえりなさい」と言って、少し話していて「あれ、お父さんは○年前に死んだんじゃなかったっけ?」と言ったら目が覚める。玄関というのは今現在住んでいる場所ではなく、父親が死んだ頃に住んでいた家の玄関だったそうだ。

そして、僕も学生時代休学して1年間東京に住んでいた頃、そんな体験をしたことがあった。人が死ぬときに親しい人の夢枕に立つというのがあるらしい。その年ある建築会社に就職し東京に出てきていた寄宿舎の一つ下の後輩がいた。「あすなろ」のメンバーでもあり、ミリタリィマニアで心優しい男だった。僕は何度か彼に会おうとしてコンタクトをとったのだが、中々忙しくて会えなかった。
ある時彼の夢を見た。食堂がある大学の厚生会館の薄暗い通路で、見かけない誰かと一緒に彼がこちらに歩いてくる。「おっ!●●、久しぶりだな・・・」声をかけたのだが、彼はすーっと通り過ぎて行った。ただそれだけの夢。
彼が自死したと聞いたのはだいぶ立ってからのことだった。地元に残してきた彼女が、彼に連絡も無く堕胎したことに気を病んでのことらしい。
●●よ、「会いに来てくれたんだな・・」と思った。

「夢枕」は、当事者の潜在意識の中にある問題が、夢という形を借りて顕在化している現象と捉えることもできないことはないのだが、そうばかりとも言い切れない側面もあるような気がする。何しろ不思議なことだ。

扁桃腺から夢枕の話になってしまった。まだ扁桃腺は痛い。腹が空いてりんごをカリカリかじっている。飲み込むのにも支障が出つつある。やばいなぁー・・・。
病院やっていないなら薬局で薬を買ってこよう。今日も大変気温が低い。

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扁桃腺が腫れた

2008-01-14 02:01:26 | 
こんな時間にまだ起きているのは、「扁桃腺」が腫れて、しばし床にふしていたため。
熱が出て、汗をかいた。虚ろな状態で布団に包まっていたが、もう寝飽きぎみでもっそりと起きてきた。

7年前に解散した「ルナシー」が、再結成されるとかで、その準備の過程のノンフィクション番組を、見るとも無く見ている。

その前に、風邪かもしれないと思い、風邪の際に子供の頃から母に作ってもらった玉子スープを作って飲んだ。
お醤油とカツオだしにニンニク、しょうが、ネギを入れ、玉子を混ぜて煮込んだスープ。御まじないの様になんとなく利いた気がする。
3時間も寝ていなかったが、もう眠くない。無理に寝たくない気分だ。
「扁桃腺」とは、とても長い付き合いだ。久しぶりに湧いて出たな。
仕事の関係で、やや夜寝不足だったのが祟ったか。
この寒空に長時間マラソンしたのが輪をかけたか・・・。

唾を飲み込むと喉チン子が痛む。まだそんなに症状は悪化していない。
悪化する前に直さないと、そのうちご飯が食べれなくなり、声さえ出なくなる。
そこまで酷くなったのは、もう10年以上も前のことで、東中野の当時の彼女んちに転がり込んでいた頃のこと。
あれはもう真っ平御免である。
明日は安静にしていよう。というか、こんな時間にブログなど書き込んでいること自体が「安静に」とは程遠いのだが。

明日は病院やってんだろうか。抗生物質が一番効く。
この喉チン子、いっそのこと切除しようか。
手術は1時間くらいで終わるが、1週間くらい入院が必要になる。
手術は、悪化している時ではなく、通常時にせねばならない。
どうしようか。仕事の関係でなかなか入院などできそうに無い。

また、部下に「マラソン」勧めておきながら、扁桃腺が腫れたくらいで会社休んだらとっても格好が悪いね。
この喉チン子め!僕の弱点の一つである。
あっちのチン子でなくてまだ良かったが・・。

ルナシーのライブが始まろうとしている。別に好きでも嫌いでもない。

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女闘士たち

2008-01-13 22:14:47 | 
ついでなんでその頃の女闘士列伝でも記してみようか。

僕らのいたころは、それこそキャンパスにはいろんな勢力というかグループがいた。
工事現場で着用する土建用のヘルメットで颯爽と登場する。そんな学園紛争(もうその頃では10年も前のこと)文化も営々と継承されていた。
そのヘルメットの色ごとに大体どこのグループかさっしがつく。
唯一、日●共●党系や社●党(協●派)系だけは、もうそういう習慣を捨てたようだった。
昔は、黄色をヘルメットのシンボル色としていた日●系は、いまや「暴力反対」のレッテル貼り戦術で勢力を拡張しようと躍起になっていた。
なんて汚い・・・。かつての学園紛争の時のあのゲバルトの酷さはどうしたんだろう。
彼らは何しろそうしたヌエのように曖昧でずるい連中というイメージしかなかった。
彼らが長らく自治会の執行部を掌握していたが、選挙ではそうした戦術が一定、効を奏していたようだ。彼らに反対するその他諸勢力の「統一候補」は毎年、善戦及ばず小差で敗退した。
日●系の「女闘士」は、その言葉さえ似合わない「甘ちゃん」ばかりであった。
「お嬢ちゃん。もう少し世の中のこと勉強したら??」というような世間知らず。
そういう人らを、フォークダンスやら芋煮会やらで取り込むのが彼らの戦略。まるで高校の、いや中学校の生徒会のレベル。

そしてその他のグループ。白いもの、青いもの、赤いもの、黒いもの。大きく4つのヘルメット色がある。赤いのは、さらに二つに分岐している。
どこのセクトにも属さないグループを俗に「ノンセクト」と呼んだ。
白、青、赤はセクトである。赤のもう一つは文学部系のノンセクトグループ。
黒は寄宿舎、学寮、サークル連合系のノンセクトであった。なぜ、ノンセクトが黒と赤に分かれていたのか理由はわからないが、関西方面の影響らしい。

白い勢力の女性闘士は、情熱的で迫力があった。こんな女性にかかったら、どうにでも好きにされてしまいそうなくらい迫力があった。ちとおっかない・・。
青い勢力の女性闘士は、内向的で先鋭な感じを受けた。そのくせ眼光が鋭く、余り関わりたくないなと思わせる。白が陽なら青は陰という印象を受けた。
赤い勢力の女性闘士は、何か実務的で口やかましい。新聞会などを仕切っていた。
文学部のノンセクトの女性闘士は、とても理知的に見えた。素敵なお姉さんという感じで好印象を持った。理屈っぽいのが玉に瑕。
サークル連合系の女性闘士は、格好気にしなさすぎでちと不潔っぽい感じがしたが、面倒見が良く根が優しい方々だった。
ノンセクト系は、大体が「優しいお姉さんは好きですか」系と言えた。余りお世話になったことはありませんが・・。
で、寄宿舎系は、男子寮なので残念ながら女性闘士はおりませんでした。
入り浸っていたのが何人かいるくらいで。
女子寮については完全にノンポリ(政治的無関心)。

他にもわけのわからない勢力はいろいろといたが、忘れた。
ただ、統●教会の学生組織には、手を焼かされたものだ。
合同結婚式で有名な組織。これが知らないうちに学生に蔓延っていた。
いわゆる「洗脳」というものはこの当時からあった。学生の下宿を訪問し引きずり込む。「宗教の仮面」を被っているからもう理屈を超えていた。
洗脳された女子学生もだいぶおり、リーダーはそれこそ「女性闘士」顔負けとなる。

こんな感じだったろうか。H子もその一人であった。

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H子のことを

2008-01-13 10:22:56 | 
H子は、僕にとって「上司と部下」のような関係だった。
ミィーティングやサークルの勉強会などでは、僕の下に集う数名の一人であった。
僕は、当時はまだ組織や規律というものに厳格な意識を持っていたので、大きな目標に向かっての効率的な体系をなすそうしたファンダメンタルズや倫理に、忠実すぎるほど忠実だった。けれどもそうしたスタンスの「上司」や「部下」は、今思うと意外に少なかったんだなあと思う。

「なんでそんなに一生懸命なんですか?」
「先輩は、もっと楽しく楽に生きるということを考えなかったんですか?」
「それで未来は良くなるんですか・・・」

H子は、僕に問うているようで、実は自分に問うていたんだろう。

彼女は、高校生の頃から社会問題や政治に問題意識を持ち、いろんなところに首を突っ込んでいた。家庭環境にも起因する。そのことは多くを語るまい。
H子はなるべくしてそうなった。一般の女子生徒のように、コンパだ合コンだと面白おかしく青春を謳歌するわけには行かなかった。

僕はH子のそうした問いに、当然ながら杓子定規の原則的な回答しか返してやることが出来なかった。H子は、多分、そんな答えを期待してはいなかったはずだ。
それはそれとして、もっと心の奥底にある、人間の本音の部分、弱い部分を話して欲しかったんだろう。けれども、僕にしてみれば、そこを吐露するということは、彼女の全てを許容し、一線を越えてしまいそうな予感もした。
「上司」であることの矜持もあった。上司は泣き言は言わぬものと決めていた。
そんなことのナンセンスさを今はつくづく身にしみている。僕は、H子の「孤独」を癒やしてあげることは出来なかった。

「上司」「部下」、翻って「組織」とは、目標に向けて効率的に事を進めるための「方便」であろう。方便とそれを支える人間とをごっちゃにすると、人間は単なるネジやボルトになってしまいそうだ。
いろんなことに思い悩み、泣いたり笑ったりする人間が組織を構成していることを忘れてはならない。すべての「装置」は、そこに集うものらを、幸福にするものでなくてはならない。

何しろ当時の僕は「やせ我慢」が過ぎた。
H子は免許を持っていなかった為、誰かのバイクの後ろに乗せてもらうのが常だった。
僕のほかにもいっぱいあったのに、多くの場合、僕のバイクを選んだ。
一応、住まいである女子寮にも、よく送っていった。
その途中、道草をして見晴らしのいい高台から夜の街を一望し、タバコを一服する。空気が澄み渡り星空も宝石を散らしたようだ。

「先輩は全て投げ出して、どっかへ行きたくなったことはないですか」

「まま、あるよ」心の中でそう思った。
しかし、吐いた言葉は「なに弱気になってんだ。がんばろう!」みたいな強がりでしかなかった。
彼女は、遠い夜空を見上げながらタバコをふーっと大きく吐いた。
H子は一枚上手だった可能性がある。すべて見透かされていたかも知れない。

こんな経験もあり、その後会社では「上司と部下」の禁をたびたび破ることにあいなった。それもまたいかがなものかと思いつつ・・・

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あるおちびちゃんの思い出

2008-01-12 21:31:18 | 
大学も数年経ち、一緒にいろんな活動をする仲間には女性も多数いた。2つ下の学生にH子という子がいてその子にとても慕われた。

H子の出身は千葉県でお父さんはお医者さん。文学部・仏文科に在籍、大学に一つだけある女子寮に入っていた。
背は小さくおちびちゃんなのだが、とても勝気で、僕と同じく様々な運動に学年・学部のリーダー格として、早くも存在感を示していた。
また、目がくりくりして上の写真のようなかわいい顔をしていた。おちびちゃんのくせに、おっぱいが大きくいわゆる「トランジスタグラマー」だった。
だからかどうか知らないが、性的にはすごく早熟だったことが後からわかった。

当時、大学の教養部は共産党系の自治会であった。彼女が2年生の時には自治会の執行部選挙に、反日共系の委員長候補として立候補したこともあった。

そんなH子は、僕たちの寄宿舎にも入り浸っていた。確かに寄宿舎の集会室でいろんなミィーティングもあったし、交流会やいろんなその筋の催し物もあったので、そのことで来ることも多かった。
夏休みや冬休み、春休みなどもよく見かけた。というか僕の部屋にも良くいた。

そんなH子になんとなく慕われていたのはわかっていたが、僕はH子には手を出さなかった。
先輩の何人かに彼女を気に入っていた人がいることを知っていたし、彼らと争ってまで彼女を獲得しようとも思わなかったからだ。

H子は大胆な子だ。何日も寄宿舎に宿泊(集会室or空き部屋)し、お風呂に困ると深夜に寄宿舎の男子用大浴場にこっそり入浴したりした(もちろん女子用などは無い)。
その際に僕は入り口で「見張り番」をさせられたことも何度かあった。曇りガラスに映るH子の影に、やばくなりそうなことも何度かあったが、理性がそれを止めた。
その入浴、他の寄宿生の手前とても危険なので、普通はバイクで10分くらいのところにある銭湯にH子を連れて行った。
ジャージにTシャツ姿のままバイクの後ろでぴったり抱きつかれるのには、これまた参った。H子はわざとしている節があった。
寄宿舎の僕の部屋に来た時には(2人部屋だがその当時の僕は2人部屋に1人で住んでいた)、「疲れた・・・」といって“万年床”の僕の布団にごろんと寝るのである。僕の目の前で、目をつぶりそれも仰向けに。
誘惑の罠をいたるところに仕掛ける小悪魔的な彼女に半ば僕は閉口していた。

「●●先輩は、そんなに格好いいのに、なぜこんなことばかりしているの?」
僕らの運動のことであるが、ま、若いときの僕はそこそこ格好は良かったようだ。
その質問はそっくりそのまま返してやりたいくらいだった。
こんな2人だったが、チームワークはとても良く、クラス討論やサークル活動ではいつも息がぴったりだった。

10年以上も経ってから聞いた話だが、街頭で反戦か何かの宣伝をして、一斉に解散した帰り道、出会いがしらでH子と出くわした同期のYは、そのまま勢いに任せタクシーで連れ込み旅館(ラブホテル)に直行したという。
Yはまるでプロレスのブルーザー・ブローディーに似た粗野な奴だったが、事が終わってからH子に「誰でも良かったの・・・」と言われショックだったと嘆いていた。
やることやりやがってショックも無いだろう。今は東京にいるYに対し、事あるごとに僕は嫌味を今でも言ってやる。

H子は、その後案の定、僕の3つ上の先輩と学生結婚した。僕はといえばその前にH子ではなく違う人を選んでいた。
H子と先輩の結婚は「政略結婚」じみていた。1年もしないうちに破綻したと聞く。その後のH子の消息は洋として知らない。
たくましい奴だから何をやっても生き延びているだろう。きっとそうだろう・・・

H子というおちびちゃんのお話でした。

  ~ 映画「バブルへGO!」を見ながら。

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今年の日本経済は闇の中から

2008-01-12 10:05:03 | 
11日の東京株式市場で日経平均株価は続落。終値は前日比277円32銭(1.93%)安の1万4110円79銭と連日で昨年来安値を更新し、2005年11月15日(1万4091円77銭)以来、約2年2カ月ぶりの低水準に落ち込んだ。

11日の米株式相場は3営業日ぶりに大幅反落。ダウ工業株30種平均は前日比246ドル79セント安の1万2606ドル30セント。ハイテク株比率が高いナスダック総合株価指数は同48.58ポイント安の2439.94と2007年4月2日以来の水準で終えた。ニューヨーク外国為替市場で円相場は続伸。前日比50銭円高・ドル安の1ドル=108円80―90銭で取引を終えた。米株安や大幅利下げ観測などを手掛かりに、円買い・ドル売りが優勢となった。

なんたる惨状であろうか・・・。
昨年8月のサブプライムショックを契機として世界経済は完全に収縮過程に入っている。ミレニアムと共に始まった欧米の不動産を中心としたバブルが崩壊しているというのがことの本質のようだ。
これはまさに日本が90年代に経験済みのバブル崩壊と同じ現象が起きているということだ。
日本経済はその余波を食らっている側面も否めない。米国株式の下落につれて、日本の株式市場も同じく下落する。

しかし、市場動向を大きく左右する「外国人投資家」が日本パッシング、日本エクセプトなどといい、日本への投資から撤退しているという要因もある。
小泉改革による政治改革、金融改革、規制緩和路線は外人にとってとてもわかり易い政策だったという。「美しい日本」の安部政権が倒れ、無策と政策的「先祖返り」の福田政権の登場に、外人投資家は総悲観、総撤退を決め込んでいる。
まさに政策不況、政権不況とも言えよう。「アジアの金融センターへ」というかつての掛け声はまったく色あせている。
このままだと中国(上海、香港)、シンガポールなどに東京マーケットは取って代わられる運命だろう。

それにしても個人の株式投資家こそ悲惨である。この相場でみな水浸し、追証攻めの連続となっている。グローバルな競争下にあり過酷な競争を強いられ汗水たらし努力している民間企業もまた憐れである。特に株式市場を利用し拡大を図ろうとする新興企業に対しあだ名す所業である。政治家や官僚の無能さは目を覆いたくなるばかりだ。
昨夜のニューヨーク市場を見ると来週もまた下落が続くのだろう。みな「総投げ」となるまで下げ相場は終わらない。

今年の日本経済は闇の中からの出発となった・・・



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妄想カンタービレ

2008-01-12 09:01:20 | 

きみの花芯に僕はそっと手をふれる。
かすかにゆがむきみの表情がいとおしい。
やわらかく宝石をめでるように大切に。
まるで食べてしまいたいほどに。

すると温かく潤うきみ自身がその思いにこたへ、
僕らは深いぬくもりの世界へ静かに落ちていく。
指も手も首筋や襟足、背中といい、髪の毛一本さえも、
すべてがきみに違いない。
そのひとつひとつを、僕はていねいに愛する。

そうした時間が過ぎていき、営みはやがて頂点をむかへ、
僕らは一足飛びに、この世の果てへと昇華するのである。
一人の男と一人の女が織りなす命の燃焼の繰り返し。
夜空にちらちら輝く星座のように、いつまでも、いつまでもと・・・。


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バットマンの悪党

2008-01-12 00:29:39 | 
地下鉄のドアのガラスに映る自分の顔やその後ろで次々変わる景色と暗闇を二重写しに眺めていると、なぜか「バットマン」のシリーズ映画が恋しくなった。

バットマンには憎めない悪党がいっぱい登場する。ジョーカー、ペンギンマン、キャットウーマン、リドラー、ミスター・フリーズ、ポイズン・アイビー・・・。
90年前後から続く「バットマンシリーズ」の映画を、僕は欠かさず観ている。
これらの怪人は、5作目に突入したこの映画に出てきた連中だ。

サーチライト、暗闇、プレゼント、サーカス団、地下道、降雪、老紳士、クリスマス、腹黒為政者、風船、ピエロ、遊園地に家族団欒。そうした装置の上に展開されるヒーローと怪人のドタバタ劇だが、なぜか観た後に切なさが残る。
バットマンは有閑階級の苦悩する男。上品で素敵なジェントルマン。
それに対し悪党たる怪人たちは、過酷な宿命を背負い、悪を演じる以外に存在を確認できないかのようだ。
実は、こうした怪人たちに僕はより心を動かされているようにも感じる。

僕がそんな「怪人」だったらどうだろう。
名前は・・・・  得意技は・・・  悪行は・・・・ そしてバットマンにどう勝とうか・・

そんなことを考えているうちに、乗り換えのターミナル駅に着いた。
どうでもよいことを思い悩んでしまったが、結論は出ないまま。
悪党の才能が無いのだろうな。
というより、悪党になりきれるくらいの悲しい宿命を僕は負っていないからだろうか。あり難いことだ。

しかし、キャット・ウーマンを演じたミシェル・ファイファーの小悪魔的なエロティシズムには悩殺された。

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