Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

赤地金彩 羊歯文 蓋付壺

2021年05月28日 14時45分00秒 | 古伊万里

 今回は、「赤地金彩 羊歯文 蓋付壺」の紹介です。

 

 

 

生 産  地: 肥前・有田

製作年代: 江戸時代後期

サ  イズ : 高さ(蓋共);16.2cm 蓋径;7.7cm 胴径;12.8cm

 

 

 この蓋付壺につきましては、実は、既に、令和元年(2019)8月15日に「古伊万里の茶壺」

として紹介しているところです。

 ただ、この蓋付壺は、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中でも紹介していたのですが、その令和元年(2019)8月15日の紹介の際には、そこでの紹介文の紹介を省略してしまいました。

 古伊万里の紹介の際には、極力、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中での紹介文も紹介することにしていますので、ここで、改めて、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中でのこの蓋付壺に関する紹介文を追加紹介したいと思います。令和元年(2019)8月15日の「古伊万里の茶壺」と合わせてご覧いただければ幸いです。

 

 

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            <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー16 古伊万里様式色絵蓋付壷      (平成13年12月20日登載)

 

 

 この茶壷を見ると、いつも思うのである。以前から日本人に愛されていた「古伊万里」とは一体どんなものだったのだろうかと?

 初期伊万里は、文字通り初期の伊万里だから、当然に「古伊万里」に含まれるであろうことはわかる。ただ、これだって、愛されるようになったのは、たかだか30~40年前からであろう。

 古九谷は、もちろん古い九谷焼だったから、「古伊万里」の範疇外である。柿右衛門も、名門柿右衛門家の作った焼物のことであり、名もない陶工の作った焼物などとは一緒にされてきてなかったので、これまた「古伊万里」の範疇外となる。ましてや鍋島は、藩窯であり、民窯のものとなど同一に列せないのであり、「古伊万里」と比較することすらはばかられるので、当然に範疇外である。

 輸出向け金襴手は、これは外国人向けだから、日本人に愛されたものではない。そうすると、わずかに、国内向けの金襴手である型物だけが残る。しかし、これとて、富裕層に愛されたにすぎないだろう。

 また、元禄・享保を過ぎたようなものは古伊万里とは言わなかったろうから、結局、以前から日本の一般庶民から愛されていた「古伊万里」というものの実体はなかったということになる。

 今後は、以前から日本の一般庶民から愛されていた「古伊万里」というものの実体はこんなものだったのだ、ということを主張したい茶壷である。

 

        江戸時代後期   高さ(蓋共):16.2cm

 

 

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*古伊万里随想8  醤油顔の古伊万里 (陶説533号;H9年8月号)(平成13年12月20日登載) 

 

 

 何年前のことだろうか。一時、あの娘(こ)は「醤油顔?」、「ソース顔?」という言葉がはやったことがある。顔つきが、どちらかというと和風に属するのか、洋風に属するのかを区分しようとする遊びである。顔つきの何が和風で、何が洋風かの基準も曖昧だし、和風と洋風の中間ということも考えられるのだから、和風と洋風のどちらかに区分しろというのも、なかなか乱暴な話だが、そんなむづかしいことはぬきにして、とにかく、和風か洋風かを単純に区分する、たわいのない遊びがはやったことがある。

 なんだ、こんなくだらない話を突然もち出して、だいたい「古伊万里・鍋島」とどんな関係があるのだ、とお怒りのことと思うが、それは、最近、高さ16センチメートル程の蓋付きの古伊万里の茶壷を、近年では珍しくも、田舎の古美術店で購入し、その壷を眺めていたら、ふと、思い出したからであり、お許しを願いたい。

 ところで、近年、田舎の古美術店で、気の利いた古伊万里を見つけることは困難である。田舎の店では、ほとんど古伊万里の動きがない。かつては、田舎の旧家等から供給されていたのであろうが、昨今では、その供給ルートも枯渇してしまったからであろう。

 それに反して、大都会の店では、けっこう気の利いた古伊万里を発見することができる。大都会には、古伊万里に動きが見られるのである。では、なぜ大都会には、気の利いた古伊万里が出現するのであろうか。その秘密は、大都会の古美術商の方々が、海外から逆輸入してきているからではなかろうかと、私は思っている。昨今の、古伊万里の供給源は、ヨーロッパ諸国なのである。

 このような市場環境から、近年の我が家の古伊万里コレクションの多くは、大都会の古美術店を経由して入ってきている。また、我が家では、比較的に新しく購入されたものが身近に置かれて鑑賞され、古く購入されたものは押入れ行きの傾向にある。その結果、近年、我が家で鑑賞されるものの多くは、ヨーロッパ諸国からの里帰り古伊万里ということになってしまった。

 こうしたなかで、最近、我が家に、突如として、蓋付きの色絵茶壷が、田舎の古美術店を経由して入ってきたわけである。その茶壷たるや、いかにも“茶壷”という風体である。蓋と肩当たりにかけては、赤と金とで逆唐草文がめぐらされ、ちょうど和紙で茶壷に封をしたような文様が描かれている。胴には、染付丸文の中に、赤や緑で、草花文や幾何学文が施され、いかにも和風な趣なのだ。まわりの里帰り古伊万里たちとは全く雰囲気が違うのである。いかにも、「私が純粋な古伊万里よ! 私こそ本物の古伊万里だわ! まわりの皆さんは、古伊万里なんかとはいえないわよ!」と一人でわめきちらしている。少なくとも、私には、そのように感じられるのだ。

 恐らく、この茶壷は、日本の田舎の旧家に伝来し、最近、何らかの理由で、田舎の古美術店を経由して、我が家に入ってきたのであろう。ヨーロッパ諸国からの里帰り古伊万里ばかり見馴れてくると、「古伊万里とは、こういうものだ。」という、ある種の観念が形成されてくる。そこに、それとは、ちょっとちがった、毛色の変わった古伊万里が入ってくると、「あれ!」と思うのである。「古伊万里には、こんな顔もあったのか!」と、再認識させられるのだ。

 冒頭に記した、顔つきを和風か洋風かに区分する遊びに当てはめてみると、里帰り古伊万里が「ソース顔」ならば、旧家伝来のこの茶壷は、まさに、「醤油顔」なのである。もっとも、「そもそも、古伊万里に、和風も洋風もあるものか。ナンセンスではないか。またまたくだらないことを言い出して。」と、更なるおしかりを受けそうであるが、私には、どうしてもそのように感じられるのである。

 江戸時代にオランダ東インド会社によってヨーロッパ諸国にもたらされた古伊万里が、ぞくぞくと里帰りしている。そして、それらは、何となく雰囲気が似ているように思えるのである。当時、商社であるオランダ東インド会社から、「ヨーロッパでは、こんなデザインのものが好まれるのだから、このように作ってくれ。」というような注文があったであろうし、生産者側も、外貨獲得のため、その注文には忠実に、一生懸命になって製作したと思われるのである。その結果、ヨーロッパ諸国へ輸出された古伊万里は、その一群が、なんとなく雰囲気の似ているものになっていったのであろうと思われる。

 一方、国内の需要も相当程度あったろうし、内需拡大に力を入れた生産者もいたはずである。彼等は、当然、国内の好みに応じた生産に力を注いだであろう。そうした、国内向けに生産された一群の古伊万里は、今、改めて注意深く観察してみると、これまた、なんとなく雰囲気が似ていることを発見するのである。

 伊万里も、最近では、古九谷様式、柿右衛門様式、古伊万里様式等に、様式で分類されるようになってきた。でも、それを更に仔細に観察してみると、それぞれの様式内には、更にまた、異なった様式の一群が存在するように思われる。それは、特に、古伊万里様式において顕著なように感じられるのである。古伊万里様式を、更に、「古伊万里輸出様式」と「古伊万里国内様式」とにでも分類することができるのではなかろうかと思っている。

  ( 陶説533号;H9年8月号は「古伊万里・鍋島」の特集号だった。)


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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんにちは (つや姫日記)
2021-05-28 16:30:48
こんにちは

このふた付き壷は茶壺とりかいして
良いのでしょうか。?
奇麗な文様の壷ですね。このような壷から
何が出てくるのでしょうね。

最近は難しい骨頭の説明で読んではいるのですが
全くコメントが出来ません。
もうDr.さんが大先生過ぎて 作品を眺めるだけで歯ぎしりです。(笑)
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Dr.kさんへ (遅生)
2021-05-28 17:05:26
何ともピッタリの一致ですね。
今回の古伊万里の記事、そのまま陶胎七宝に使わせてください(^^;

国内向けの品も、純和風というのではなく、時代の雰囲気はもとより、どこか異国へのあこがれのようなものを反映しているように思えます。
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つや姫日記さんへ (Dr.K)
2021-05-28 19:06:40
壺の用途はいろいろですよね。
でも、この壺は、多分、茶壺として作られたのだと思います。
大きな茶壺は、お茶が湿気らないように口に紙を被せ、そこを紐でしっかり縛りますよね。
この壺の文様はその姿を表現しているように見えるからです(^_^)

茶人が、ここからお茶の葉を取り出し、その茶葉を石臼で碾いて抹茶を作ったんでしょうね。

最近、昔書いた文章を読んでいて、よくこんな難しいことが書けたなと、我ながら感心しています(爆)。
言い回しが難しいだけで、それほど内容はないですから、適当に読み飛ばしてください(笑)。

古伊万里へのコメントだけでもいただければ嬉しいです(^_^)
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遅生さんへ (Dr.K)
2021-05-28 19:16:32
どうぞ、どうぞ、ご利用出来るのでしたら、ご自由にお使いください(^_^)
光栄です(^-^*)

有田の陶工たちも、輸出の仕事がなくなり、内需の仕事に向かったのでしょうけれど、なんとなく、まだ、輸出華やかなりし頃の余韻を引きずっている感じをうけますね。
それが、幕末、明治になると、またまた、再度花開いたのでしょうか、、、?
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Dr.kさんへr.kさんへ (酒田の人)
2021-05-28 20:19:45
典型的な江戸後期の赤に羊歯文、形といいデザインといい、とても魅力的です
後期になると、元禄あたりの金襴手の写しが登場しますが、「赤で見分けられる」と
昔、業者さんに教えられたような覚えがあります。
思えば大聖寺にも元禄写しがありますから、それだけ元禄の金襴手の存在が大きいということなんでしょうか。
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Dr.kさんへ (酒田の人)
2021-05-28 20:22:11
すみません、↑のお名前が変テコになってました<m(__)m>

典型的な江戸後期の赤に羊歯文、形といいデザインといい、とても魅力的です
後期になると、元禄あたりの金襴手の写しが登場しますが、「赤で見分けられる」と
昔、業者さんに教えられたような覚えがあります。
思えば大聖寺にも元禄写しがありますから、それだけ元禄の金襴手の存在が大きいということなんでしょうか。
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酒田の人さんへ (Dr.K)
2021-05-30 09:33:49
「赤地金彩 羊歯文 」というのは、なかなか魅力的ですよね(^_^)
江戸後期の赤絵は魅力のないものが多いですが、これなど、なかなか人の心を引きつけますよね(^_^)

金襴手は明の頃から作られるようになったのでしょうけれど、人気がありますね。
手を変え品を変え、いろいろと作られていますよね。
これなど、俗に走らず、成功した部類に属するかもしれませんね(^-^*)
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