パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

チベット大変

2008-03-16 22:18:00 | Weblog
 まず訂正。

 「風に吹かれて」の訳で、「友達の答」と書いたのはまちがい。この「友達」は、「友よ」という呼びかけで、別に友達が答えたわけじゃない。答えたのは、「風」すなわち、自然、あるいは神で、神は人間の、「我々はいつまで殺し合いをしなければならないのでしょうか」、といったような問いに一度も答えたことがないが、「友よ、それをわれわれは受け入れなければならないのだ」、とディランは歌っているのだと思う。

 実際、ディランは自分の歌をプロテストソングではないと明言し、たとえば、「戦争の親玉」が支配している現実も、それはそれとして受け入れるしかないと言っている。

 さて、チベットが大変なことになっているみたいだ。ダライラマ14世が「国際組織による調査団の派遣」を提案したみたいだが、中国は受け入れないだろう。

 しかし、不思議なのは、ソ連のアフガン侵攻の際には、西側が一致してオリンピックボイコットにもっていって、結局、ソ連崩壊につながったわけだが、中国オリンピックのボイコットは、少なくとも世界の主要な指導者は、誰も主張していない。ダライラマさえも。

 これは、今、中国を潰したら、とんでもないもの、…などと書くと、どうしても「毒餃子」を思い浮かべるけれど、別にそういう意味じゃなくて(いや、それも入るけれど)、ソ連の場合は、少なくとも半分は欧米圏と価値観を、共有していた。たとえば、ロシア正教だって、要するにキリスト教だし。しかし、中国はそうではない。全然価値観を共有していないから、潰したら、何が飛び出てくるかわからない。それを恐れているのではないか。

 実際、日本の場合は、欧米は、完全な「抹殺」を考えていたし、やろうと思えばできた。原爆を2個も落とした段階で、それは明らかだったのだけれど、中国の場合は、でかすぎて、それはできない。「抹殺」は、選択肢にない。それは確かだと思う。

 あと、もう一つの問題として、中国はいわゆる「近代化」を目指しているが、それは、必ずしも「欧米化」を意味しない。普通は、たとえば、強烈な反欧米国家であるイランだって、「近代化」と言えば、「欧米化」を意味し、それの是非を巡ってイラン国内でも議論が交わされているのだと思うけれど、中国では、国を挙げて「近代化」を目指しながら、その「モデル」が明確にイメージされていない…ような気がするのだ。あえて言えば、イミテーションしかない。イミテーションがモデルっていったい…。

 というわけで、まあ、正直言ってこのままでは、百年後には、中国を彷彿とさせる文物は、中国料理しか残っていないような気もしないでもないのだけれど…。(今でも実際はそうだと思うけど)

風に吹かれて

2008-03-14 16:44:43 | Weblog
 水道橋の中古レコード屋で、ボブ・ディランの『ブリンギング・イット・オール・バックホーム』CDを500円で売っていたので、慌てて買い求めた。ついでに、「ベストセレクション」というのも1000円で買った。この2枚で全部で40曲弱。ディランの有名曲は大体網羅されていると思う。

 さて、これをパソコンに取り込み、さらにIシャッフルに取り込んだ。(申し遅れましたが、Iシャッフルを買ったのです。5700円のやつを、ポイントを使って3600円。安い、たしかに)
 しかし、取り込む時に、先に適当に入れておいた、ソニー・ロリンズとソフトジャズが入っていて、いくらなんでもディランとロリンズでは、相性が悪かろうと思い、ロリンズとソフトジャズは外したつもりだったのだが、そのまま消されずに入っていたので、「シャッフル」すると、ディランの「風に吹かれて」の後に、ロリンズのサクソフォーンが流れたりして、なかなか乙…というわけにはいかない。

 しかし、もちろんロリンズだっていいわけなんだが、ここ当分はディラン漬けになりそうだ。さすがにいいなあ、ディランは。「エブリバディ・マスト・ゲット・ストーンド!」(みんな石で打たれるべきだ)とか、あのしわがれごえで叫ばれると、まるで、ディランが旧約聖書の預言者のように聞こえてくる。

 実際、ディランの歌詞に頻繁に出てくる、「ストーン」とか「ニッケル」とか「ダイム」といった硬質な言葉を聞いていると、アメリカは今現在、一つの神話時代を生きているような気がしてくる。理由については、ちょっと曰く言いがたいのだが、アメリカがアメリカ以外の国とはまったく違っていることは明らかで、いわば、アメリカには、アメリカ以外の国にある「伝統」はない代わりに、「神話」がある。なんか、そんな気がする。

 実は、今作りかけの私の写真集のタイトルが「風に吹かれて」なのだが、ディランの歌を聞いていて、《風に吹かれて》の意味がよくわからなくなった。

 というのは、以前は、ディランの疑問に対し、友達の言った言葉そのものが、「風に吹かれて」だったのだろうと思っていたのだが、ディランの歌声を聴いていて、友達は何かを言ったみたいだが、風に吹かれて消えてしまい、自分(ディラン)には聞こえなかった、という意味ではないかと思ったのだ。きっとそうだ。(というか、私がずっと間違えていただけかもしれないが)

追伸 ウィキペディアで調べたら、「風に吹かれて」の日本語訳は主に片桐ユズルがやってきたが、ディランはそれに大いに不満で(ディランが日本語がわかるわけはないのだから、たぶん、スタッフが要約してディランに伝えていたのだろう)、最後には、日本発売のレコード(CD)に訳詞カードをつけることにも難色を示したほどだったんだそうだ。

 では、その片桐ユズルによる訳はどんなかというと、以下の通り。

Blowin' In The Wind

How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
Yes, 'n' how many sear must a white dove sail
Before she sleeps in the send?
Yes, 'n' how many times must the cannon balls fly
Before they're forever banned?
The answer, my friend, is blowin' the wind.
The answer is blowin' in the wind.

どれだけ道をあるいたら
一人前の男としてみとめられるのか?
いくつの海をとびこしたら 白いハトは
砂でやすらぐことができるのか?
何回弾丸の雨がふったなら
武器は永遠に禁止されるのか?
そのこたえは、友だちよ、風に舞っている
こたえは風に舞っている

この片桐訳のどこが不満でディランは怒ったのか、ウィキペディアには書かれていなかったが、多分、最後だろう。
実は、ウィキペディアに載っていた訳詞も似たようなもので、「答えは、吹く風の中にある」と書いてあった。
そうじゃないだろう~、友達の答えは、「風に散って聞こえなかった」のだよ、きっと。
真相はディランに聞いてみないとわからないけど、いずれにせよ、「そのこたえは、友だちよ、風に舞っている」じゃあ、何を言っているか、そもそもわからんじゃないか、と思う。

「近代」の象徴

2008-03-12 19:44:09 | Weblog
 昨日は東急ハンズの店員を誉めたのだが、今回は、逆。

 といっても、これは無理な注文かもしれないのだが、ともかく、2週間ほど前のこと、のこぎりの刃が減って、切れなくなってしまったので、新しく買おうと思って東急ハンズに行った。しかし、こういう大工道具というものは、高いものとなると切りがないし、応急ということで安いものを探したのだが(毎回これだ)、もう一つ、西洋風の、「押し引き」のできるのこぎりを探した。

 なぜ、「押し引き」がいいと思ったかというと、日本式の場合、上体で押さえ込みながら、「手前に引く」。なんか、動作が矛盾してないか?

 これに対し、西洋では、カンナも、のこぎりも「押して」使うようになっている。

 まあ、これは「慣れ」のようなもので、日本人だとどうしても、「手前に引く」方式に慣れているから…と思ったのだが、なんかおかしい。

 最初に気づいたのは、手製パイプを作るためにヤスリを使っているときだった。実は、ヤスリは日本でも西洋式に「押して使う」ようになっているため、最初は違和感があったのだが、使っているうちに、「押す」ほうが、手のひら、いわゆる「掌底」を使えるので力が十分に入ることに気がついた。

 これはヤスリの場合だが、のこぎりの場合も同じではないかと思った。なんでだろう? 日本では、「上体の力」の代わりに、スピードで勝負しているのではないかな、とも思った。いわゆる、「切れ味」を重視する考え方だ。

 しかし、一般的に言えば、やはり、「押して切る」ようにしたほうがいいのではないか。そうすれば、「上体の力」を十分に使える。「手前に引く」場合は、足で板を押さえ込んだ上で、「引く」。これは、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるようなものじゃないか?

 そんな風に思って、東急ハンズの店員に、「押し引きののこぎりはありませんか」と聞いたのだが、店員が、「何か不都合でもありますか」というので、「板が持ち上がっちゃうんですよ」と答えると、店員は、笑いながら、「それは引き方が悪いのです。角度をつけすぎてるんですよ。もっと浅めに引いてください」という。

 私は、「いや、押し引きなら押さえ込みながら引けるから…」とちょっと言ってみたが、店員は、日本式の「手前引き」に凝り固まっているようだったし、また、ちょっと見回したところ、商品も、西洋式ののこぎりは、巨大な丸太を引く時に使うような、ジャックと豆の木の巨人が使いそうなのこぎりしか置いてなかった。それは、ほとんど、「飾り」のように置いてあるだけで、実質的に、「押し引き」ののこぎりは、東急ハンズには一つもないのだった。

 そういうわけで、私は「わかりました」といって、後は自分で見て回ったのだが、そうしたら、一つだけあった。「押し引きと手前引きの両方ができます」といううたい文句の、ちっちゃなのこぎりで、簡単に言うと、刃の形が2等辺三角形で、引いても押しても有効になるようにできている。

 ははーん、こりゃあ、結構いいかもしれないと思って、安かったので、買ったのだが、使ってみて、とても動作が安定している。これはやはり、西洋風の「押し引き」のほうが合理的ではないか、という私の考えが当たっているのではないか。そんな風に思った。

 こういう「風習」については、大衆は大変頑固なもので、変更については、専門家、建築で言えば大工や建築家が率先して範を示すことが重要である。大工の場合はともかく、建築様式の点で言えば、たとえば、靴を脱ぐという風習も、大正から昭和初期にかけてはやった「応接間」を、靴のまま入れるような設計にすれば、戦前において本式の「和洋折衷」スタイルが完成し、ひいては、西洋由来の「市民感覚」なるものも多く養われたたのではないか。具体的に言えば、玄関と応接間をくっつければよい。実際の話、応接間は玄関のすぐ近くにあるのが普通だったのは、それが玄関の延長だったからだが、建築家は、「玄関と応接間の融合」までは踏み切れず、結局、「スリッパ」で代用してしまい、やがて、「応接間」そのものも消えてしまった。

 今現在、室内で靴を履いたまま生活をしている人は、日本にいるかというと、ただ一人だけいる。それは、恐れ多くも、天皇様だ。実際のところはわからないが、少なくとも、「広報写真」では、ご家族揃って室内で「靴を履いたまま」記念写真を撮られている。

 つまり、天皇家は、日本近代の象徴ということで、「靴を履いたまま」の日常を喧伝されているわけだが、結局、「象徴」にとどまっている。言い換えれば、日本の「近代」自体、いまだ「象徴」にとどまっているのだ。

 というわけで、話が大きくなってしまったが、「家の外」では、すっかり一般化している、靴を履いたままの生活を、一部、「家の内」に取り入れた設計が、そろそろ現れてもいい頃じゃないかな、と思うのだがどうだろう。

生活の知恵

2008-03-11 21:45:08 | Weblog
 新しい部屋の台所のドアを支える蝶番のねじの穴がぐずぐずになってしまっている。最初見たときも、ちょっとおかしかったのだが、まあ、なんとかなるだろうと思ったのだが、手でぐいと引っ張るとすっぽり抜けてしまうくらいで、どうしようもない。ドアを外して穴を見たら、直径2,3ミリの穴がぽっかりと開いている。

 これは、穴をパテで埋めるか、木を張り替えるかなんとかしないといけないと思い、東急ハンズでまず、穴埋め用のパテを探したが、説明書が今一よく分からないので、おばちゃん店員に聞いたところ、「穴埋めだったら、割り箸を突っ込めば大丈夫ですよ。大工さんは皆やってます」という。「ボンドで固めるとか必要ないんですか」というと、「そんなことしなくて、大丈夫ですよ。木と木だから、一緒になっちゃうの」

 これはいいことを聞いたと思い、早速試してみた。

 ぽっかりと開いた穴に割り箸をぐいと突っ込み、金槌でがんがん打つ。残りはポキっと折って、あとはさらに金槌でたたいて平らにし、さて、ドアをセットして電動ドライバーで木ねじを締めようと思ったら、すいすいと入るかと思いきや、ものすごく固くなっている。つ、つごい。これなら、ばっちりだ。

 おばちゃん、いいこと教えてくれてありがとう。(年下かもしれないが)。皆さんも、いざという時にはお試しあれ。割り箸を突っ込むだけ。それだけ。

 でも、これをマスコミが知ると、「大工が割り箸で手抜き!」とか騒ぐんだろうなあ。

現ちゃんが…

2008-03-10 21:16:45 | Weblog
 アチャー。上田現が死んじゃった。肺がんだそうで、享年47。死んだ人に責任を問うわけにはいかないが、どうして、こう、腹立たしいくらいに、「早死に」が多いのだ。広川太一郎だって、早死にというほどではないが…もっと生きていたっていいだろうに。

 アチャーと言えば、引っ越しのどさくさに、ラジカセ2台盗まれてしまった。今時、でかくて重たいラジカセなんか持っていく奴はいないだろうと思って、へやの外の引っ越し荷物の上に積み重ねておいたのだが、側に置いてあったプリンターには目もくれず、見事に、ラジカセ2台だけ持っていかれてしまった。

 とはいえ、その2台とも、いわゆるジャンクで、音がいいので2台組み合わせてなんとか使っていたのだが、持っていった奴はどういう風に使うのだろう。

 しかし、持っていかれてしまっては音楽が聴けない。それで、昨日、久しぶりにフリマに行き、ラジカセを探したら、ありました。ソニーのドデカホーンという、まあ、マニア好みの機械があったので、値段を聞いたら500円だという。「動くの?」というと、じいさんが、「動かなければ売らないよ」と言うので、500円で買ったのだが、持ち帰って電源を入れたら、全然動かない。とはいえ、自前のテープデッキをつなぐと、かなりいい音が出る。つまり、再生部分は正常で、CDプレイヤー部分がおかしいのだが、CDプレイヤーを買い増そうとしても、調べると、意外に高い。

 さて、どうしたものかと思いながら、ネットでなんとなく調べてみたら、CDプレイヤーとはそもそも欠陥商品である、という主張にぶちあたった。曰く、CDプレイヤーを介してデジタル信号の3割以上は欠損してしまうのだと。

 メカニカルな詳しい話はよくわからないが、CDプレイヤーは元来、コンピュータメーカーが作るべき部品であり、パソコンをCDプレイヤー代わりに使った方が全然よい、というのだ。特に、MacのOSXは、CDプレイヤーとして、「完璧」だというのだ。具体的に言うと、iPodが史上最強のCDプレイヤーというのだが、iPodはないので、とりあえず、ドデカホーンをMacにつないだところ、おっしゃられる通り、音が抜群によろしい。

 ということで、盗まれたラジカセの代わりに500円で買ったぽんこつドデカホーンも生き返ったわけで、万々歳といいたいところなのだが、パソコンは残念ながら1台しかない。その1台に、OS9とOSXを二つインストールしているのだが、仕事ではもっぱらOS9を使っている。

 もちろん、OS9でもCDの再生はできるのだが、Xに比べると音が歴然と悪い。悪いといっても、普通のCD並みには十分にでるのだけれど、Xで聞いてしまうと、物足りない。(それくらい、Xで再生すると音がクリアーであると同時に厚みがある。)しかし、Xには仕事用のアプリケーションが入っていないから、仕事はできない。ああ、G3があればなー!

 実は、引っ越しの際、G3を捨てちゃったのだ。捨てるつもりは、必ずしもなかったのだが、回収業者に「捨てるの?」と聞かれ、まあ、まったく使ってないし、フリーズが激しかったし、場所塞ぎになるだけだろうと思い、つい、うなづいてしまったのだが、あのG3があれば、G3で仕事をこなし、Xを入れたG4は再生専門に使うことができたのにー!

 というわけで、これがアチャ-その2というわけだが、なんにせよ、現ちゃんの冥福をお祈りします。

パラダイス鎖国

2008-03-08 22:04:17 | Weblog
 誰が言い出したのか知らないが、「パラダイス鎖国」という言葉があるんだそうだ。
 中々、言い得て妙だ。

 実際、鎖国してもパラダイスであれば、それでいいのだ、という考え方もあるだろう。というか、だから「鎖国」するわけだろう。しかし、それでずっとやっていけるかというと、そうではない。

 例えば、日本の江戸時代にしても、恐らく、「パラダイス」が最も長く続いた世界的に稀な例かもしれないし、アメリカのペリーがやってきて、無理矢理開国を強いられなければ――要するに、「近代」なんてものがなければ、あのまま「パラダイス」が続いていたのだ、と、今現在思っている人も少なくなさそうだ。
 しかし、そんな風に考えることは、やはり、どこか、おかしい。

 といって、具体的に、どこがおかしいのか、指摘することはできないのだが……。

 ただ一つ、言っておくと、日本がヨーロッパのキリスト教国を締め出した時、日本の知識人は、キリスト教国から学ぶべきことはあまりないと考えていた。新井白石なんか典型的だが、宣教師たちの説く「キリスト教的世界観」はあまりに非合理的であり、「こんなあり得ない話を信じるなんて、キリスト教徒はバカではないか」とまで思っていた。鎖国政策の断行には、こういう背景もあると思う。

 しかし、皮肉なことに、彼の地では、今まさに「科学革命」が始まろうとしていた。もちろん、「始まろうとしていた」ということは、まだ形にはなっていなかったのであって、新井白石などが、「学ぶベきものなし」と断ずるのも無理はなかったのだが、日本の鎖国を決定的にした島原の乱が闘われていたまさにその時、頑迷固陋なキリスト教的世界観を打ち破るべく、デカルトの『方法序説』が出版されたのであった。

 もし、日本の鎖国の断行が後十年も遅かったら、新井白石程の頭脳の持ち主ならば(白石は、日本史上有数の本物の「天才」だったらしい)、きっとデカルトの存在を知り、その重要性をただちに認識し、彼の地の「科学革命」と、その後の「産業革命」にいたる発展進化をリアルタイムに随行し得たのではないかと思うのだが、結局運命の悪戯で、開国後も常に彼らの「科学革命」の結果を後追いするしかなくなった。「科学革命」の原点(『方法序説』)を知らないためだ。(もちろん、われわれは、デカルト哲学が、西洋科学の「原点」であることを、知識としては知っている。しかし、それは「頭」で知っているだけで、「実感」しているわけではない。)

 それはともかくとして、要するに、徳川日本は、デカルト登場直前に鎖国してしまったために、デカルト以前のスコラ神学しか知らず、それを批判するデカルト哲学を同時代的に味読するチャンスを永遠に失ってしまったことを、私は、「歴史の皮肉」と呼んだわけだが、この「皮肉」は、歴史において常に存在するのだと思う。言い換えれば、歴史とは常に危機の連続であり、注意深く、勇気をもって、これを克服しなければならないのであり、この欠如が、結果的に「歴史の皮肉」を招くのだ。

 さて、では、今の日本はどうなっているかだが、一昨日、仰天ニュースを目にした。
 70歳の老人が、40歳年下のミャンマー人女性を後妻(だと思ったが)に迎えようとしたら、日本の役人(多分、出入国管理事務所だったと思う)が、40歳の年齢差その他を鑑み、この結婚は「真摯な結婚」とは認められないとして、ミャンマー人女性に国外退去を命じたというのだ。

 そりゃー、結婚は「真摯」なものであるべきだとは思うが……実際は、「真摯なものであることを期待する」、のであって、第3者が、「これは真摯ではない」と断じて、結婚を認めないなんてことは、普通はあり得ない。それを、役人が、しかも末端の窓口が決めるのか?!  

 これは、「上意下達」というか、高級官僚が「パラダイス鎖国」を国策として決定し、それを下々の官僚が「空気を読んだ」結果だと思うのだが、本当に、福田になってからめちゃくちゃだ。

 しかし、「パラダイス鎖国」がベスト体制であるが故に、その実現を狙っているかと言うと、多分、そうではなく、今、世界で極めてドラスティックな変革、資本主義体制そのものの大幅変更にまで到るような根本的変革が進行中で、しかも、その成否は必ずしも明らかではない、つまり、「失敗」する可能性もなくはない、だとしたら、ここは「洞が峠」を決め込んで、「様子見」に徹するのがベストだと、高級官僚たちは考えているのかもしれない。その結果の、「パラダイス鎖国」だと。

 だとしたら、それは「甘い」。変革に失敗したとしても、その「失敗」が、その後に生きてくるからだ。「失敗」は避け、「成功」だけを味わいたいなんて、あり得ない話なのだ。(もちろん、日本では、「パラダイス鎖国」が常にベストの社会体制なのだと官僚が考えている可能性もあるけれど……)

 それはさておき、では、現在、世界で進行している根本的変革とは何かだが……「ベーシックインカム」制度の導入に向かっているのではないかと思っちゃったりするのだ。ちょっと我田引水的結論かもしれない。でも、何が「根本的」って、ベーシックインカム以上に「根本的」な変革のないことは確かなのだ。

中国人は「せっかち」?

2008-03-06 21:58:33 | Weblog
 今回のイージス艦事故関連でちょっと面白いというか、「へー」と思ったのは、サンケイ新聞に書かれていた石原慎太郎の文章で、日本を占領したアメリカは、日本の海軍を特に恐れていたので、全国の「漁民」たちに、諸外国では考えられないような多大な専有権を付与したというのだ。たとえば、都会からきた観光客がダイビングを楽しんでも、魚介類をとってはいけないことになっているが、これもその結果なのだと。
 「へー」である。いや、しらなかった。

 もう20年以上前、今ではすっかり有名カメラマン、いやウーマンのI女史の実家が保有する伊豆の別荘に仲間たちと遊びにいったことがあって、その時、潜水の得意なやつが素潜りでさざえ等を沢山とって、みなで食べたことがあった。(旨かったな-)。その時、I女史が声を潜めて言うには、「本当はこういうことはしてはいけないの。漁師さんに見つかったら怒られるの」。要するに、ここの海の産物はすべて地元の漁師たちのものであり、われわれは、彼らの眼を盗んで、「泥棒」したというわけだ。
 といっても、私は漁師たちを糾弾したいわけではない。基本的に、漁民というのは、「自己責任」で「自由」に生きているというイメージがあるし。
 しかし、一方で、日帰りの海水浴くらいだったら別にどういうこともないけれど、ちょっと長逗留したりすると、「地元の漁師」との間に結構いろいろトラブルが生じることはある。「なんで、あんなに漁師どもはえらそうなのかなー」という感想を抱いたことのある人はきっと私だけではないだろうが、これが実は、人間のエゴイズムを見据えた「アメリカの深謀遠慮」の結果だとは、お釈迦様で気がつくめえ♪って、もちろん、石原の話が本当ならという話だが、アングロサクソンの「冷血」な「知恵」は凄い。とてもかなわない。

 引っ越しの後片付けをしながら、有吉佐和子の『中国レポート』をぱらぱらと見る。

 有吉佐和子は何回か中国に行っているようだが、『中国レポート』は、彼女のベストセラーの一つ、『複合汚染』を書いた後で、文革後十年以上経過していた当時の中国側は、彼女のこのベストセラーのことをしっていて、「農業の近代化と農薬汚染」のテーマでみんな(農民)に、講演をしてくれと行く先々で頼まれ、後半部にかけて話はすっかり、「中国における農業のありかた」に絞られてくる。 
 これは、ちょっとタイムリーではないかと思って、少し読み込んだのだが、彼女の結論は、こうだ。

 「日本は工業立国を急ぐあまり日本の農村を犠牲にしました。近代化と言う言葉には便利性と裏腹に大きな危険が秘められています。端的に言って日本の農政は失敗しました。この度の中国で私は六つの人民公社を見学してきましたが、今日まで見るところ、中国もまた気をつけないと、かつて日本が誤った方向へ向かっているように思えます」

 と彼女は講演でズバリ農民や、農民を指導すべき人民公社の幹部たちの前で言うのだけれど、はっきり言って、当の中国人たちにはあまり通じていない感じがするし、実際、そうだったことになる。しかし、考えようによっては、今回の「毒入り餃子」事件は、つまるところ、彼女が指摘した日本の「農政の失敗」がもたらした結果なのだと言えないこともない。有吉佐和子が生きていたら、きっとそう言うだろうと思う。日本は近代化において先行したので、その「ツケ」を中国に付け回すことが出来たと。

 日本の食料自給率が低いことについて、警告を鳴らす多くの人は「食料安保論」で説明してきたように思うが、私はこれまで、この「食料安保論」というのが大嫌いで「ケッ」と思っていたし、今でもそう思っているが、食料自給率が低いことそれ自体は確かによくないのだ。しかし、こんな形で、しっぺ返しを食らうとは思っていなかった。

 いずれにせよ、日本の存在は、良しにつけ悪しきにつけ、われわれが思っている以上に、中国にとって大きいのだ。

 あと、有吉佐和子の指摘で気になったのは、中国人が「遅れ」を取り戻すべく、非常に「焦っている」というのだ。
 「焦って何をしても、よいことはありませんよ」、と彼女はしきりに中国人に忠告するが、「農薬」問題については理解できても、「焦るな」という忠告は、まったくといっていいほど、理解されていないようだった。

 大陸には悠久たる時間が流れているとか、われわれ日本人は考えたがるが、もしかしたら実際は逆で、彼らは元来「せっかち」なのかもしれない。青信号の時間なんかも非常に短くて、人が渡り切らないうちに信号が変わってしまう。彼女がそれを指摘すると、「どうせ誰も守りませんから」という返事。これは、遵法精神の欠如というより、「待てない」のだろう。「百年河清を待つ」とか言うけれど、これは実際には、彼らが「待てない」ことを表現しているのかもしれない。

「ドッグ」って、何語だ~?

2008-03-05 21:11:28 | Weblog
 このたび、秋葉原から新宿に出戻り引っ越ししました。

 新しい場所は、地下鉄丸の内線新宿御苑駅の「真上」といった感じ。ただし、私自身は、健康保持の為、新宿駅から徒歩で通っている。引っ越しも健康保持の為……じゃあなくて、貧乏だからだが、一人でやってしまった。もちろん、運送屋(赤帽)は頼んだが、四階から一階までの荷物降ろしは一人でやった。階段を昇るのではなく下るのだから、まあ、一人でもできるだろうと思ったのだが、結構大変で(エレベーターが無いから)外交評論家の岡本行夫似の赤帽の運ちゃんに、「信じられない!」を連発され、ちょっと満足。

 結局三日間かかって、万歩計メーターは6万歩を指していた。一日平均二万歩、しかも、その大半は階段! 足腰が張って、かなり痛かったが、痛くても、疲れてても、息切れはなし。もちろん、息切れしそうになったら休むわけだが、四階までの昇り降り連続5、6回くらいまでは全然大丈夫だった。本当に、「ウォーキング」はおすすめ健康法である。

 ところが、こんなに体を動かしたのに、依然として不眠症は治らず、朝の6時から9時くらいまでしか満足な睡眠はとれなかった。昔から寝つきはよくなかったのだが、睡眠時間をあまり必要としないタイプなのかもしれない。3時間でいいから、ぐっすりと良質の睡眠を取るように心がけるしかないのだろうか。

 イージス艦事故について、ジェームス・アワー元国防総省日本部長が、自衛艦側ばかりを責めるのは不適当とサンケイ新聞に寄稿していた。

 そうなんだよな。なんで、どこの誰も、「あなたがたは回避できたのに、清徳丸だけがぶつかってしまったのは何故だと思いますか」と、他の二隻の漁船の船長に聞かないのだろう。別に「ためにする質問」ではない。ごくごく常識的なことだ。(実際の話、清徳丸と彼らの関係を考えれば、聞かれなければ、「疲れて寝ていたかもしれないねー」とは言えないだろう。)

 ところが、そんなことはそっちのけで、首相官邸への連絡に時間がかかったのは何故かとか、そんなことばかり。福田に連絡してみてもしょーがないと思うけどねー。
 それはともかく、海難事故には「審判」があるから、いずれ事情は明らかになると思うけれど、ちょっと、ここ一、二年の、マスコミのバカっぷりは異常である。

 戦争中のこと、エノケン、ロッパらのカタカナ芸名は外国人と紛らわしいので、漢字にせよと当局から命令されて怒ったロッパが、「カタカナは日本の文字だぞ」とやり返したという話があるそうだが、この時の「当局」に近いと思う。かく言う、私も、最初、グ-グルで検索をする時、英語のスペルがわからないので、とりあえずカタカナで入力し、「外国」で検索したことがある。そうだよ。「ドッグ」は英語ではなく、日本語だったんだねー、それをついうっかり「英語」と勘違いしてしまったわけだが、最近のマスコミ(というか、それを看過している一般の日本人も)のピントのずれっぷりは、このレベルのものであるような気がしてならない。気付かないのが凄いよ、ホントに。