文芸評論家の古谷野敦のブログ、「猫を償うに猫をもってせよ」は、いつもというわけではないが、時々チェックしている。
意見に共鳴するというか、興味の対象が時々重なるところが面白いのだ。
5月30日の「猫を償うに」では、ゴジラの伊福部昭に触れていた。
おやおや、また興味重なったかと思ってみると、伊福部は、新藤兼人の『どぶ』の音楽を担当しているが、これが、すっかり「ゴジラ」のテーマの使い回しなんだそうだ。
それだけではない。
吉村公幸三郎の『源氏物語』でもゴジラを使っているんだそうだ。
古谷野曰く、「どれだけ使い回ししているのだ、と思ったが、違和感のないところがすごい」と。
あの、「ズンズンズンズン…」と響く低重音とともに、牛車が京都の街を進み仇敵の牛車と遭遇、喧嘩しているところを想像すると、確かに「違和感」はなさそうだ。
実は伊福部昭先生には、昔「アウト」でインタビューしたことがある。
池袋と目白の中間にある、なんとか音楽大学の教授だったが、快くインタビューに応じてくれた。
中でも面白かったのは、なんという映画だったか忘れてしまったが、出来上がった画面を見て「この映画には、音楽は無い方がいい」と思い、そうしたら、試写会で誰もそのことに気がつかなかったというのだ。
「ギャラはもらいましたか?」と聞くと、「もちろん!」と、愉快そうに笑っていたが、ここら辺は、「ゴジラ」のテーマ音楽を平気で使い回すところと同じ感覚なのだろう。
あ、思い出した。
キューブリックの『2001年宇宙の旅』の「美しき青きドナウ」について、どう思うか聞いたら、真っ向から「あれはダメ」、「邪道」と否定されたことだ。
私は、今でも、『2001年』の「美しき青きドナウ」がなぜ「ダメ」なのか、よくわからないでいるのだが、少なくとも、「これでいいのだ」と無批判に喜んでいたことを、伊福部先生の言葉で思い知らされたことは確かだ。
あ、そうなのだ!
「批判」は、理性の本質であり、それなくしては音楽も、絵画も、映画も、そして写真も成り立ち得ないのだ。
伊福部先生は、きっとそう言いたかったのだと思う。
意見に共鳴するというか、興味の対象が時々重なるところが面白いのだ。
5月30日の「猫を償うに」では、ゴジラの伊福部昭に触れていた。
おやおや、また興味重なったかと思ってみると、伊福部は、新藤兼人の『どぶ』の音楽を担当しているが、これが、すっかり「ゴジラ」のテーマの使い回しなんだそうだ。
それだけではない。
吉村公幸三郎の『源氏物語』でもゴジラを使っているんだそうだ。
古谷野曰く、「どれだけ使い回ししているのだ、と思ったが、違和感のないところがすごい」と。
あの、「ズンズンズンズン…」と響く低重音とともに、牛車が京都の街を進み仇敵の牛車と遭遇、喧嘩しているところを想像すると、確かに「違和感」はなさそうだ。
実は伊福部昭先生には、昔「アウト」でインタビューしたことがある。
池袋と目白の中間にある、なんとか音楽大学の教授だったが、快くインタビューに応じてくれた。
中でも面白かったのは、なんという映画だったか忘れてしまったが、出来上がった画面を見て「この映画には、音楽は無い方がいい」と思い、そうしたら、試写会で誰もそのことに気がつかなかったというのだ。
「ギャラはもらいましたか?」と聞くと、「もちろん!」と、愉快そうに笑っていたが、ここら辺は、「ゴジラ」のテーマ音楽を平気で使い回すところと同じ感覚なのだろう。
あ、思い出した。
キューブリックの『2001年宇宙の旅』の「美しき青きドナウ」について、どう思うか聞いたら、真っ向から「あれはダメ」、「邪道」と否定されたことだ。
私は、今でも、『2001年』の「美しき青きドナウ」がなぜ「ダメ」なのか、よくわからないでいるのだが、少なくとも、「これでいいのだ」と無批判に喜んでいたことを、伊福部先生の言葉で思い知らされたことは確かだ。
あ、そうなのだ!
「批判」は、理性の本質であり、それなくしては音楽も、絵画も、映画も、そして写真も成り立ち得ないのだ。
伊福部先生は、きっとそう言いたかったのだと思う。
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