パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

死ね、じじい!(私以外)

2006-07-29 14:33:18 | Weblog
 「好事魔多し」というけれど、別に好事がなくても、魔は起こる。
 昨日、ちょっとしたはずみで左足の甲をひねってしまった。最初は、大したことはないだろうと思っていたが、そのうち痛みが増し、やがてまったく歩けなくなってしまった。特に、左足のつま先を上げて歩いていたせいで、左足の臑が突っ張ってしまって、七転八倒。イテテイテテイテテ……と、バナナボートソングを独唱する羽目になってしまった。
 そのうえ、痛みを癒そうと、水で濡らしたTシャツで患部をぐるぐる巻きしてモーツァルトをCDプレイヤーで聞いていたところ、Tシャツから水の雫が一滴二滴、プレイヤーの蓋の上に落ちてしまった。あ、まずい、と思ったが、ほんの少しだし、蓋の上だから大丈夫だろうと思っていた。実際、その時はちゃんと聞くことが出来ていたし。ところが、これまた時間が経つに従い、動作がおかしくなって、最後には、まったく動かなくなってしまった。水を落とす前から、少しおかしかったので、水のせいではないと思うが……。それにしても、モーツァルトのバイオリン協奏曲第五番イ長調ケッヘル219はすごい。アバンギャルドな自由さが、ほとんど「狂」にいたっているというか。また聞きたいよ~と思ったが、聞けない。

 それだけじゃない。
 痛い足を引きずりながら、デリカテッセンのお弁当を買いにいったのだが、二種類しか残っていない。一つは豆腐ハンバーグ、もう一つはひき肉とピーマンのチンジャオロースだ。どちらにしようかと覗き込んで手にとったら、奥から六十をかなり過ぎていると思われるじじいが出てきて、「あんた、何をしてるんだ!」と怒鳴り付ける。え?と思ったが、「弁当を買いに来たんですよ」と言うと、「弁当はないよ」という。びっくりして、「だってあるじゃないの」と目の前の弁当を指差したが、何も答えずにくるりと背を向け、店の奥に引っ込んで何やら伝票に書き込みはじめた。「この弁当は売り物じゃないの?」と奥に向かって声をかけたが、依然、知らんぷりである。
 営業時間を過ぎているからかと思って、「この店は何時までやってるの?」と聞くと、「何かないの?」と聞こえたらしく、「ないない、何もないよ」と言う。「そうじゃないよ、何時までやってるの、と聞いたんだ」と言うと、「3時まで」と答える。今、3時半だ。ふーんと思いつつ、営業時間の問題じゃない、目の前に商品があるのに売らない、というか、「ない」という言い草が問題なんだと腹に据えかねながら、外に出てウィンドウを改めて見ると、営業時観は、午前10時から5時までとなっている。
 足が痛くてろくすっぽ動けないので、やむをえず、そのまま店を出たが、十数メートル歩いたところで、「売り物じゃないんだったら、引っ込めておけ!」と、弁当をじじいに投げ付けに戻ろうかと思った。本当にそう思ったのだが、十数メートル歩くのも非常にしんどい。ちくしょーと思いつつ、結局そのまま歩いた先にあった壱番屋で野菜カレーを食したのだが、一体、何者なのだ、あのじじいは。口振りから見て、経営者なのかもしれない。JR御徒町駅から秋葉原方面に徒歩2、3分の高架下にあるデリカテッセンで、屋号はなんていったか、いったん忘れてしまって、さっき思い出したのだが、また忘れてしまった。思い出したら、書き込みます。

 そんなわけで、よく、「若い者は礼儀知らずで、接客態度もなっていない」、「人生経験豊かなリタイアした老人なら安心だ」とか言うけれど、私の経験した限り、若い連中に嫌な思いをさせられたことはない。(理屈っぽいお宅店員に辟易したことはあるが)チェーンをずらずらぶら下げた、モヒカン刈りのお兄ちゃんたちに部屋を貸したこともあるが、まったく気持ちのいい連中だった。
 逆に、中年以上、特にじじいには何度、心底イヤな思いをさせられたか! オートバイで走っていてガス欠させてしまい、自転車屋に飛び込んで、ガソリンをコップ一杯でいいから売ってくれ、と頼んだら、じじいが出てきて、目の前にガソリンタンクがあるにも関わらず、「うちはガソリン屋じゃないから売れないよ」と言われたこともある。「近くにガソリンスタンドがある」と言うのだが、それは知っている。でも、七、八百メートル離れている。やむをえず、炎天下、重いナナハンのバイク(200キロはある)を押してガソリンスタンドまで行ったが(そのガソリンスタンドは廃業になったが、別に新しい店が出来たわけでもなく、今もそのままだ。野口記念館の真ん前で、ものすごくいい場所なのだが……。前を通るたび、あの夏の日のイヤな思い出が蘇る。くそ! 死ねじじい!)、自転車屋だが小型バイクも売っていて、バイクに関しては半ば専門家なのだから、炎天下ナナハンバイクを押して歩くのがいかに大変かわかっているだろうに。

 自分がじじいの年齢にさしかかってみて、はじめて何となくわかったのだが、儒教的社会の名残りで、世間が老人を甘やかしているのだ。そのため、独善的で、横柄になる。朝鮮や中国のような本格的儒教社会では、老人であることは万能であることを意味するが、その分、「徳」が要求される。それが、「大人(たいじん)」ということなのだろうが、日本は「儒教の理」を徹底的に追い詰めて成り立っている社会ではないので、「徳」ではなく「独善、横柄」ばかりが目立つということになるのだろう。
 しかし、団塊の世代はもうそろそろ老人になるが、彼らの場合はどうなるだろう。私も彼らの仲間みたいなものだが、注目してみたい。