椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

父の場合〔4〕

2016-07-09 12:04:53 | 高齢化社会
父が施設から戻って、母が疲れ果てないように、3泊4日ほどの往復を月に3回ほど繰り返しました。

まだ、4月ごろは、父は家の中では歩くことができましたし、着替えも自分でできました。
私は主人の介護の経験から、この遠距離介護は当分続くものと思っておりましたので、
体力を温存する必要があり、夜はホテルに泊まることにしていました。

父と母の2人とも睡眠薬をもらっていましたので、夜はぐっすり眠ることができました。

4月下旬にタクシーの運転手さんから弘前公園のサクラが開き始めたと聞いて、父を連れて行きたいと思いました。
あちこちに聞いてみたところ、介護タクシーを頼めばよいことがわかりました。
父は旧制弘前高校で3年弘前で過ごした時期があります。
また、父と母は何度も弘前の花見に出かけていて、母はもう一度弘前のサクラを観たいと願っていました。

4月21日に行きたくないという父を叱るようにしてタクシーに乗ってもらいました。
弘前まで行きは高速道路を、帰りは一般道を走ってもらうことにしました。
リンゴ畑が広がったり岩木山が大きな姿を現したりで、助手席に座った父は自分が運転しているような気がしていたようです。

介護士の資格をもつ運転手さんに弘前公園の中を車いすを押していただきました。







父は車いすに乗ってよかったのですが、母は自分が思っていたほど歩けなくて弘前公園の一部だけで帰ることになりました。
食事もできずお弁当も買えずでしたが、父はおでんを食べたい、コーヒーを飲みたいと一口ずつ口にしての4時間ほどの花見の外出でした。

さすがに弘前の方たちが日本一だと胸を張る見事なサクラを、咲き始めの混まない中で見ることができました。


青森のタクシーの運転手さんは親切で頼りがいがあり、介護士の資格を持っておられる方たちも多いようです。
希望に合わせて案内してもらえる観光タクシーがお勧めです。
慣れない道では、地元のタクシーを利用するほうがいいのではないでしょうか。

体調と天候がうまく合ったなら、思い切っての思い出作りはいかがでしょうか。

この次に出かけたときには、父は今度は海を見に浅虫に出かけたい、といっておりました。
そのときには天候がよくなくて出かけられませんでした。
 
無理をしてでも行っておけばよかったと思います。

父の場合〔3〕

2016-07-08 14:26:34 | 環境を考える
父が高齢者施設で見ていたのは、だいぶ以前に購入したシャープ製のテレビでした。

このシールにはっとしたりします。


父は理系でもあったので出征することもなく、日本の戦後の景気のもっともよい時代を生きましたが
ほかの商売仲間の方たちは70歳台で亡くなって、取り残されて日本経済の急速な衰退、とりわけ青森の寂れた様子を目の当たりにすることになりました。
東京一極集中でよかったのでしょうか。

結局のところ、東京も地方も荒廃することになっているのではないでしょうか。

ひとたび大きな災害が起これば今の東京では多大な犠牲が出てしまうと思います。

ゆとりがあれば、同じ規模の災害であってもそれほど犠牲者が出ないのは自明のはずなのですが
不動産投資とやらで土地を小刻みにして高層の建築物をつくっていく・・・・・

地方ではボロボロのバスが走っていたりするのに、東京では税金の大盤振る舞いが行われています。
しかし、その東京でも本当の福祉にはお金が回らず、高齢者の施設も保育所も後回しになっています。

高層の建物や地下の工事は災害に対して果たして大丈夫なのでしょうか。
地盤の弱いところにたくさんの新しい建物が建てられています。

安全についての目配りはどこが受け持っているのかよくわからない状態にあると思います。

また、車の排気ガスその他による大気汚染は解決されているとは思えません。
熱中症の中には大気汚染によるものが含まれている可能性はないでしょうか。

東京の過密を解消する必要があると思います。
これは多くのいわゆる学識経験者の方々が提言してきたことであるのに、利権優先の声の大きい方たちが無視してきたという歴史があると思います。

オリンピックはある意味では、東京のあるべき姿を見直す機会でもあると思います。


父の場合〔2〕

2016-07-07 20:43:17 | 高齢化社会
椅子やテレビなど、2階の父の部屋のものを運んだせいもあってすぐ自分の部屋のようになり、居心地は悪くなかったと思います。
ほかの施設と違ってかなり自由で、食事もおいしそうな献立で、スタッフの方たちも親切でキビキビしていると思いました。

部屋を出てすぐのスペースにテーブルがいくつか置いてあり、そこで入居者の方たちと一緒に食事をするようになっていました。

施設の敷地内に医院があり、また家族が泊まることのできる部屋がありました。
希望すれば、終末期もこの施設で過ごすことができるとのことで、最期に近くなったら母と私が付き添って、この施設で在宅介護というかホスピスというかそういう形でできるのではないか、と考えました。

しかし、父は4日いただけで家に戻ってしまったのです。

理由はよく眠れない、ということのようでした。

こちらで、高齢の知り合いの女性の方2人の方に、この話をしてみたところ
父の気持ちがよくわかる、とのことでした。

一緒に食事といっても、和やかな会話ができず
また、高齢になった他人との食事は苦痛に感じるのだそうです。

父は前立腺ガンのため採尿のバッグを持ち歩き、その管が見え隠れしていたりします。
それが気になる方がいたかもしれません。
比較的恵まれた施設であっても、このような問題が隠れているのではないでしょうか。

70歳台ではそれほど問題がなくても、80歳台になってくれば手足が不自由になって
きれいに食べるといったことができなくなり、それを食事のたびに目にすれば
お互いさまといった気持ちにはならないのかもしれません。

60歳台から70歳台の方たちは、
・高齢者施設で和やかに食事ができるような世話をする
・ちょっとした身の回りの世話をする
というボランティアというものに参加することを考えるべきではないでしょうか。
無理のない月1,2回であれば、できるのではないでしょうか。

自分たちの介護を考えるとき、老いというものをしっかり見つめ、介護の人手不足解消にも貢献する必要があるのではないでしょうか。




父の場合〔1〕

2016-07-06 01:07:12 | 高齢化社会
私の実家は青森市にあります。
だいぶ以前から前立腺ガンを患っていた私の父は、昨年の夏に余命1年との診断で急速に弱っていきました。
大正14年生まれで90歳を過ぎ、歩くことができて認知症の症状はでませんでした。

昭和2年生まれの母と2人暮らしで、母は年の割には元気にしていますが、ケアマネージャーさんや私の助言を聞かずにあれこれ実行してしまうところがあります。
2人とも階段が無理になって来たので、2階から1階の部屋に寝室を変えたときにも1部屋に1つのベッドにしたほうがよいといっても、1部屋に2つのベッドを入れ狭いところで寝起きすることになってしまいました。

その結果、今年の3月ごろから母はストレスが高じてモノ盗られ妄想が始まり、限界だから父を病院に入院させたいと言い出しました。
父に聞いたところ、家政婦さんに面倒を見てもらい自宅で死にたいとのこと。
母が高齢者施設に行けばよい、などと希望をいうのですが、母にはその気がありません。

かかりつけの先生に紹介状を書いていただき、近くの病院に付き添って出かけましたが、個室での入院は断られてしまいました。
父がそこなら考えてもよいという高齢者施設に見学に行き、契約をしました。
部屋と食事の提供があって、そこで介護保険でのヘルパーさんを依頼するという形でした。

弟に頼んで布団やテレビ、椅子、机、掃除機、バケツなども運びました。
いわば高齢者向け下宿のような感じです。


日程表です。