講義テーマ:織田信長がもし死ななかったら?
日時:12月19日(月)10時~11時40分
講師:山村 純也 先生

■織田信長の誕生
◆うつつけ者で知れ渡った青年時代
偉大な父信秀が存命中は注目されなかったが、美濃から濃姫をもらい受けまずは後継者として確約された。

◆義父斎藤道三を驚かせた運命の会談


◆信長に最大の危機!桶狭間の戦い
隣国今川義元が上洛の途についたとの知らせを受け、夜中に出陣、桶狭間で一気に奇襲攻撃を敢行、義元を討つ。これにより信長の名が全国に轟いた。

◆美濃攻略と天下布武へ
斉藤道三を滅ぼした斉藤義龍が治める美濃へ侵攻するが思うように攻略は進まなかったが斉藤龍興の時代に攻略美濃は信長の支配下となる。この時点で「天下布武」を使い始める。朝倉家へ逃れていた足利義昭を迎え入れ、浅井家とも同盟を結び、上洛の途につくことができ、足利義昭を第15代の将軍に据えることに成功した。


◆信長包囲網と天下統一への道
当初は友好関係を保っていた将軍足利義昭と織田信長だったが、次第に義昭は信長への不満を募らせ、全国の戦国武将に打倒信長を呼びかけるようになった。その筆頭は武田信玄であり、信長は窮地に立たされた。上洛してきた武田軍に織田・徳川連合軍は「三方ヶ原の戦い」で惨敗を喫したがその直後に信玄が病死した。信長は九死に一生を得た。その後義昭を追放し、朝倉・浅井家を滅ぼし畿内を平定した。


中国の毛利に対しても羽柴秀吉が備中高松城まで攻め込み、毛利家は自国防衛に奔走するという状態だった。同じ時期に四国征伐も開始され、織田信孝を大将に丹羽長秀などの重臣が着々と準備を進めていた。


◆まさに青天の霹靂・本能寺の変に信長死す
秀吉から援軍要請を受けた織田信長は、平定した機内ということでわずかな供回りを連れて上洛し、本能寺で茶会を開催したがその翌日1582年6月2日未明に、明智光秀率いる1万3千騎が突如本能寺を襲撃した。信長は49歳で自刃した。嫡男織田信忠も攻め込まれて二条御所で戦死した。


秀吉

秀吉⇔光秀

■織田信長が「本能寺の変」で生き延びた場合 ・・・考えられること
◆本能寺を脱して安土・美濃へ
信長は手勢が少ないこともあり、金ヶ崎の退きのように、真っ先にその場から逃げることを選ぶのは間違いないでしょう。自らの居城である安土城か、さらに万全を期するなら美濃まで逃げると確実に光秀の攻撃は防げたはずです。
(金ヶ崎の退き)
※この謀反の知らせは当然各地域に届きますが、光秀につくものはないでしょう。完全に孤立したと考えられます。亀山城か坂本城に籠もるものの、信長の動員した家臣団によって討ち取られているでしょう。
◆明智明智の滅亡の結果
・近畿方面司令官であった光秀の代わりはすぐに見つからず、しばらくして丹羽長秀あたりが代行することになったと思われます。
・四国攻めはいったん白紙に戻り、長宗我部元親に対して、土佐一国以上の国を認めるなど、譲歩した上で、家臣団に取り込んでいくことになったでしょう。
・上杉家、北条家も信長の家臣団に組み込まれていった可能性が高いです。
・中国毛利家は和睦を望んでおり、やがて信長の家臣団に取り込まれていったでしょう。
・九州方面は本能寺の変の時点では未知数ですが、おそらく四国、中国地方が従った時点で、九州の諸大名もとりこまれたことでしょう。
※織田信長は守護代からの下克上ではるが、歴史ある家(秀吉よりも)のため、信長の侵攻には各大名がかなり早い段階で、恭順の意を表した可能性があります。何より最終的に将軍を追放したものの、室町幕府を再興した立役者という箔が信長には既に備わっており、圧倒的な経済力も諸大名にとって脅威でしかなかったと思われます。
◆織田信長の全国統治
織田信長は革命児や革新的なイメージがあるものの、一方では古風なしきたりや保守的な要素も持っていた。足利将軍家をしっかり認め、これを当初は守ろうとした点です。朝廷に対してもしかりで、朝廷に対しては父の信秀の代から膨大な献金を行っていました。朝廷をたてながら、これまでの権威、体制の維持に努めようとしていたと考えられます。

信長の中ではおそらく幕府の再興というプランが消えずに残っており、その将軍として自分がその地位に座ることをイメージしていたと思います。いわゆる織田幕府の誕生です。
◆織田信長の内政と外政
統治面で特徴的なのがキリシタンへの寛容的な態度でした。外国に興味を持ち、その風俗も自ら取り入れ、かつ貿易の利益も目を付けていた信長は、キリスト教の保護をこれからも続けていたでしょう。鎖国という政策は取らなかった可能性が高く、海洋立国としての日本の成長を大いに促した可能性があります。もちろん江戸時代が来ることもなく、信長の嫡男である信忠が二代将軍として後を継ぎ、そのまま織田政権が続いていったと考えられます。
◆現在の日本はどうなっていたか
貿易によって国力の増強は、明治維新以降に本格化するわけですが、江戸時代という鎖国政策の時代が無かった場合、この日本が最終的にたどり着く貿易国家に、信長の時代から入った可能性が高いです。信長の時代、日本は世界的にみても鉄砲の最多保有国で有り、軍事力だけみると、世界トップ水準にありました。造船の技術のみ遅れていたが信長の時代に大幅に飛躍し(毛利家との戦いですでに鉄板を貼り付けた船を投入)。貿易国家として少なくともアジアでは確固たる地位を占めることになったでしょう。
日本人の気質も今と違って、もっと欧米に近い形の性質を持ち、開放的で力強い、自らの主張をはっきりと行う民族として発展していったのではないでしょうか。
■そもそも「本能寺の変」が無かった場合 ・・・考えられること
◆第一の家臣である明智光秀の動きは
・近畿方面司令官であった光秀ですが」、当初の信長の指示通りに山陰地方に送り込まれていた場合、毛利家はかなり領地を割譲して降伏するか、滅ぼされた可能性があります。
・四国の長宗我家は滅亡していたでしょう。
・九州方面を「日向守」として秀吉の「筑前守」とともに任されていたはずです。今後の外交戦略に九州は欠かせないため 能力もあって信頼できる光秀と秀吉にまずは先ずは統治させたでしょう。
◆能力のある家臣団の扱い
家臣の扱いは、能力主義が基本であり、出自や家柄などは不問としていた印象が強いが、あくまでそれは武力が必要な時代であり、天下統一する過程で武力がやがて必要なくなり、統治の力が必要にとなった場合は武力のみの武将は冷遇されていくことになったでしょう。しかしやがて森蘭丸のような側近を登用し、織田一族で人事を固めるのは間違いなく、
特に秀吉や光秀のように能力が高いほどその将来は危険が伴ったと考えられます。いずれにしても最終的には織田家臣で織田信長や信忠を中心とする幕藩体制が構築され、外交的には貿易を積極的に行って、国の利潤を確保し新たな国家が創造されていくことになったと思われます。 (教室のまとめ:黒木武紀)
★建勲神社
明治天皇の下命で創建された神社で、織田信長が祀られている。

次回の講義日:1月23日(月)10時~11時40分
講義テーマ:赤穂浪士の秘められた逸話とは?!
講師 :講談師 玉田 玉秀斎先生
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