講義テーマ:聖徳太子は本当にいたのか?!
講師:林 和清 氏 現代歌人集会理事長
日時:6月27日 10時~11時40分
講師 自己紹介
聖徳太子系譜
厩戸皇子(聖徳太子)は蘇我氏と強い血液関係にあった。
■穴穂部皇子・宅部皇子殺害事件
皇位継承争いで守屋・穴穂部皇子⇔蘇我馬子が対抗、穴穂部皇子と宅部皇子が殺害された。
■藤ノ木古墳
男性2人が合葬されていて、穴穂部皇子と宅部皇子の可能性が高いとされる。
■丁末の乱 蘇我⇔物部の宗教戦争
蘇我馬子(厩戸皇子など率いて)は群臣と謀り物部守屋と交戦、一旦は敗れて後退した。
(物部軍に追われた皇子が椋の木の下で念じて大木が割れて身を隠した逸話がある)
軍を立て直して(信貴山で厩皇子が四天王を像を造り戦勝を祈願した逸話もある)進軍、守屋の軍は敗退した。その結果仏教の国内浸透が本格化していくこととなった。
■崇峻天皇弑逆事件
丁末の乱の後、馬子によって推薦され即位した崇峻天皇・欽明天皇皇子だが、次第に関係は悪化していった。国家的大事業は馬子の独断で行われ帝の意思が反映されることはなかった。(こんな逸話がある:帝に献上された猪を見ながら専横を極める馬子の暗殺を口にした)「何の時かこの猪の頸を断るがごとく、朕が嫌しと思うところ人を断らん」と独り言を漏らした。ついには暗殺されることになった。
このことは「宮廷クーデターであった可能性も示唆している。
■推古女帝の即位
① 国が乱れ男の王同士が争う状態を終結させる女性のカリスマ性
② 男の複数の皇位継承者がいて決着がつくまでの中継ぎとしての女性の存在
③ 長年皇后として政治の補佐をしてきた経験を生かせる女性の存在
■厩戸皇子を摂政に
甥の厩戸皇子を皇太子として万機を摂行させた。
■なぜ飛鳥から斑鳩へと宮を移したのか?
斑鳩には雄大な大和川が流れ込んでいることに気付く。この大河を下れば、容易に遠洋航路の拠点、大和川に出ることができる。太子が外交戦略を重要視していたことが伺える。
600年に随に派遣した最初の遣隋使(第一回)の弁が、随の初代皇帝・文帝に蔑まれたことがあった。内政を充実させるとともに外交に重きを置くようになった。
■603年 30歳 冠位十二階を制定する
先の遣隋使の失敗が国として成立していないと考えた太子は多くの改革を始めた。
■604年 31歳 憲法十七条を制定する
■607年 34歳 第二回遣隋使
小野妹子らの遣隋使が国書を皇帝に奉呈する。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す 恙無きや」と記し、皇帝を怒らせた。しかし小野妹子は冠位を持った正式の使者であり、倭国が国として成立していることを知ったため、外交を結ぶことにした。翌年、使者を送った。随は倭国を国家と認めた。
■斑鳩宮と法隆寺
日本書紀によると厩戸皇子は、推古天皇9年(601)に斑鳩宮を造営し、推古天皇13年(605年)に移り住んだ。法隆寺は用明天皇が自らの病気平癒のため建立を発願したが、志を遂げずに崩御したため、遺志を継いだ推古天皇と太子が寺と薬師像を造ったという。
■夢殿
奈良時代建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置されている。夢殿は聖徳太子を供養するために建てられた堂であり、太子信仰の中心となる聖地。
■救世観音像
夢殿には、長年封印されてきた秘仏であり、開けると厄災が降りかかり大地震が起きてこの世滅ぶと言われていた。
■アーネスト・フェノロサ
1884年(明治17年)にアメリカ人東洋美術家のアーネスフェノロサと文部省職員の岡倉天心は、明治政府から文化財調査の依頼を受け、秘仏の調査のため法隆寺を訪れた。災いを恐れる僧侶たちを説得し、夢殿の扉を開けた時は、この世の終わりが来ると信じていた僧侶たちは地に伏して絶叫するように経を読んだという。
■聖徳太子の死 622年(推古30年) 49歳
太子の母:621年に死亡
太子の妃:622年死亡 その後を追うように同年 太子は逝去
三骨一廊の御陵となっている。
太子は聖徳皇と崇められ救世観音化身と慕われて、日本人の生活の中にい着続けている。
聖徳太子は飛鳥時代に本当にいた! 記事:黒木武紀
次回の講義は7月18日(月) テーマ:道長が望月に見たものはなにか?!