ONCCドラマティック日本史

ドラマティックな歴史講座を展開いたします。

第9回講義

2023年03月04日 | 日記

講義テーマ:龍馬暗殺の真犯人は?!

 日時:2月27日(月)10時~11時40分

 講師:玉田 玉秀斉先生

龍馬の口癖:「天下国家を論じ合う者に保身などあってはならぬ」

龍馬の出自:土佐藩~・・

身長は? 西郷隆盛 中岡慎太郎 ・・・

玉山先生の講談:明智左馬之助湖水渡り 

近江屋2階で暗殺された!

「坂本先生ご在宅ならば是非お取り次ぎ願いたい」

「コナクソ(四国弁?」「討ち取ったり」

中岡慎太郎「坂本が頭をやられた、もういかん」

真犯人は?

・新選組説・薩摩藩説・土佐藩説・公家説・見廻り組説 ?? さてさて・・・

講義後の受講生 ”今日のひと言” 紹介

・坂本龍馬に関する色々名人物、時代背景の裏話が聴けて面白かった。

・幕末の歴史も講談で講義されると楽しいですね 頭に入ります。

・坂本龍馬の生きざまや暗殺の様子を玉秀斉先生の名調子で聴けた。

・明智左馬之助 湖水渡りの一席を数年振りに聴きました。古典講談野修羅場読みは格別です。

・坂本龍馬が長生きしていたらどんなに活躍した事でしょう。

・龍馬の暗殺者は、京都見廻り組という説が有力と聞いていたが、龍馬が薩摩、長州、紀州から疎まれていたというお話しを初めて聞き実に興味深かった。

次回の講座日:3月27日(月)  今期最終回

 テーマ:西郷隆盛はなぜ非業の死をとげたのか?

 講師 :林 和清先生

                                     (教室まとめ:黒木武紀)

 

 

 

 

 


第8回講義

2023年01月24日 | 日記

講義テーマ:赤穂浪士の秘められた逸話とは?!

 日時:1月23日(月)10時~11時40分

  講師:玉田 玉秀斉先生

■赤穂義士伝をもっと楽しむ!

義士伝は、本伝:刃傷から討ち入り、切腹に至る事実関係を語り、

    銘々伝:四十七士のエピソードを描き、

    義士外伝:周囲の人物を語る。」から成る。

■義士外伝

・天野屋利兵衛

■義士銘々伝

・大高源五

・竹林唯七

・堀部弥兵衛

・赤埴源蔵

■四十七士 修羅場読みで紹介:玉田 玉山先生(玉秀斉先生のお弟子さん)

■早駕篭

浅野内匠頭 殿中での刃傷の知らせを赤穂へ

早駕籠の構造・担ぐ人などについて説明

■箱根の関所

関所は明けから暮れ六つまで 夜間は通行禁止 さて どうする!

講談風に解説

                (教室まとめ:黒木武紀)

次回の講座日:2月27日(月)

   テーマ:龍馬暗殺の真犯人は誰か?!

    講師:玉田 玉秀斉先生

 

 

 


第7回講義

2022年12月20日 | 日記

講義テーマ:織田信長がもし死ななかったら?

 日時:12月19日(月)10時~11時40分

 講師:山村 純也 先生

織田信長の誕生

◆うつつけ者で知れ渡った青年時代

偉大な父信秀が存命中は注目されなかったが、美濃から濃姫をもらい受けまずは後継者として確約された。

◆義父斎藤道三を驚かせた運命の会談

◆信長に最大の危機!桶狭間の戦い

隣国今川義元が上洛の途についたとの知らせを受け、夜中に出陣、桶狭間で一気に奇襲攻撃を敢行、義元を討つ。これにより信長の名が全国に轟いた。

◆美濃攻略と天下布武へ

斉藤道三を滅ぼした斉藤義龍が治める美濃へ侵攻するが思うように攻略は進まなかったが斉藤龍興の時代に攻略美濃は信長の支配下となる。この時点で「天下布武」を使い始める。朝倉家へ逃れていた足利義昭を迎え入れ、浅井家とも同盟を結び、上洛の途につくことができ、足利義昭を第15代の将軍に据えることに成功した。

◆信長包囲網と天下統一への道

当初は友好関係を保っていた将軍足利義昭と織田信長だったが、次第に義昭は信長への不満を募らせ、全国の戦国武将に打倒信長を呼びかけるようになった。その筆頭は武田信玄であり、信長は窮地に立たされた。上洛してきた武田軍に織田・徳川連合軍は「三方ヶ原の戦い」で惨敗を喫したがその直後に信玄が病死した。信長は九死に一生を得た。その後義昭を追放し、朝倉・浅井家を滅ぼし畿内を平定した。

中国の毛利に対しても羽柴秀吉が備中高松城まで攻め込み、毛利家は自国防衛に奔走するという状態だった。同じ時期に四国征伐も開始され、織田信孝を大将に丹羽長秀などの重臣が着々と準備を進めていた。

◆まさに青天の霹靂・本能寺の変に信長死す

秀吉から援軍要請を受けた織田信長は、平定した機内ということでわずかな供回りを連れて上洛し、本能寺で茶会を開催したがその翌日1582年6月2日未明に、明智光秀率いる1万3千騎が突如本能寺を襲撃した。信長は49歳で自刃した。嫡男織田信忠も攻め込まれて二条御所で戦死した。

秀吉

秀吉⇔光秀

■織田信長が「本能寺の変」で生き延びた場合 ・・・考えられること

◆本能寺を脱して安土・美濃へ

信長は手勢が少ないこともあり、金ヶ崎の退きのように、真っ先にその場から逃げることを選ぶのは間違いないでしょう。自らの居城である安土城か、さらに万全を期するなら美濃まで逃げると確実に光秀の攻撃は防げたはずです。

(金ヶ崎の退き)

  

※この謀反の知らせは当然各地域に届きますが、光秀につくものはないでしょう。完全に孤立したと考えられます。亀山城か坂本城に籠もるものの、信長の動員した家臣団によって討ち取られているでしょう。

◆明智明智の滅亡の結果

・近畿方面司令官であった光秀の代わりはすぐに見つからず、しばらくして丹羽長秀あたりが代行することになったと思われます。

・四国攻めはいったん白紙に戻り、長宗我部元親に対して、土佐一国以上の国を認めるなど、譲歩した上で、家臣団に取り込んでいくことになったでしょう。

・上杉家、北条家も信長の家臣団に組み込まれていった可能性が高いです。

・中国毛利家は和睦を望んでおり、やがて信長の家臣団に取り込まれていったでしょう。

・九州方面は本能寺の変の時点では未知数ですが、おそらく四国、中国地方が従った時点で、九州の諸大名もとりこまれたことでしょう。

※織田信長は守護代からの下克上ではるが、歴史ある家(秀吉よりも)のため、信長の侵攻には各大名がかなり早い段階で、恭順の意を表した可能性があります。何より最終的に将軍を追放したものの、室町幕府を再興した立役者という箔が信長には既に備わっており、圧倒的な経済力も諸大名にとって脅威でしかなかったと思われます。

◆織田信長の全国統治

織田信長は革命児や革新的なイメージがあるものの、一方では古風なしきたりや保守的な要素も持っていた。足利将軍家をしっかり認め、これを当初は守ろうとした点です。朝廷に対してもしかりで、朝廷に対しては父の信秀の代から膨大な献金を行っていました。朝廷をたてながら、これまでの権威、体制の維持に努めようとしていたと考えられます。

信長の中ではおそらく幕府の再興というプランが消えずに残っており、その将軍として自分がその地位に座ることをイメージしていたと思います。いわゆる織田幕府の誕生です。

◆織田信長の内政と外政

統治面で特徴的なのがキリシタンへの寛容的な態度でした。外国に興味を持ち、その風俗も自ら取り入れ、かつ貿易の利益も目を付けていた信長は、キリスト教の保護をこれからも続けていたでしょう。鎖国という政策は取らなかった可能性が高く、海洋立国としての日本の成長を大いに促した可能性があります。もちろん江戸時代が来ることもなく、信長の嫡男である信忠が二代将軍として後を継ぎ、そのまま織田政権が続いていったと考えられます。

◆現在の日本はどうなっていたか

貿易によって国力の増強は、明治維新以降に本格化するわけですが、江戸時代という鎖国政策の時代が無かった場合、この日本が最終的にたどり着く貿易国家に、信長の時代から入った可能性が高いです。信長の時代、日本は世界的にみても鉄砲の最多保有国で有り、軍事力だけみると、世界トップ水準にありました。造船の技術のみ遅れていたが信長の時代に大幅に飛躍し(毛利家との戦いですでに鉄板を貼り付けた船を投入)。貿易国家として少なくともアジアでは確固たる地位を占めることになったでしょう。

日本人の気質も今と違って、もっと欧米に近い形の性質を持ち、開放的で力強い、自らの主張をはっきりと行う民族として発展していったのではないでしょうか。

■そもそも「本能寺の変」が無かった場合 ・・・考えられること

◆第一の家臣である明智光秀の動きは

・近畿方面司令官であった光秀ですが」、当初の信長の指示通りに山陰地方に送り込まれていた場合、毛利家はかなり領地を割譲して降伏するか、滅ぼされた可能性があります。

・四国の長宗我家は滅亡していたでしょう。

・九州方面を「日向守」として秀吉の「筑前守」とともに任されていたはずです。今後の外交戦略に九州は欠かせないため 能力もあって信頼できる光秀と秀吉にまずは先ずは統治させたでしょう。

◆能力のある家臣団の扱い

家臣の扱いは、能力主義が基本であり、出自や家柄などは不問としていた印象が強いが、あくまでそれは武力が必要な時代であり、天下統一する過程で武力がやがて必要なくなり、統治の力が必要にとなった場合は武力のみの武将は冷遇されていくことになったでしょう。しかしやがて森蘭丸のような側近を登用し、織田一族で人事を固めるのは間違いなく、

特に秀吉や光秀のように能力が高いほどその将来は危険が伴ったと考えられます。いずれにしても最終的には織田家臣で織田信長や信忠を中心とする幕藩体制が構築され、外交的には貿易を積極的に行って、国の利潤を確保し新たな国家が創造されていくことになったと思われます。                (教室のまとめ:黒木武紀)                                      

★建勲神社

明治天皇の下命で創建された神社で、織田信長が祀られている。

 

次回の講義日:1月23日(月)10時~11時40分

 講義テーマ:赤穂浪士の秘められた逸話とは?!

 講師   :講談師 玉田 玉秀斎先生

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第6回講義

2022年12月01日 | 日記

講義テーマ応仁の乱、本当の原因は何か?!

   日時:11月28日(月)10時~11時40分

   講師:山村 純也 先生

■応仁の乱前夜

◆将軍として抵抗を試みた足利義教

第4代将軍義持は最後まで後継者を指名せずに病死。

出家していた義円が「くじ引き」で第6代将軍義教となる。政治は祖父義満の復活であり、幕府の権力強化だった。ついに家臣の赤松満祐が義教を自邸に招き暗殺。室町幕府の権威は大きく失墜して混乱期へと突入していく。

◆室町幕府混乱期と義政の登場

義教が亡くなった混乱期に9歳で第7代将軍になった良勝が8ケ月で病死、8歳で第8代将軍義政となる。幼少の将軍であり、政治は家臣任せになり将軍の権限は大きく抑制された。成人してからは自らの美意識の全てを注ぎ込んで東山の麓に山荘・東山殿の造営を始めた。自らの後継者選びを発端に、「応仁の乱」を引き起こした。一方、東山文化を庶民に広める役目も果たしたが、「銀閣」の完成を見ることなく55歳で死去。

■応仁の乱とは

◆原因と始まり  1467年~1477年

応仁の乱の根本的原因として室町幕府の将軍継嗣問題があったと一般的には述べられている。8代将軍義政と日野富子との間には子供がいなかった。弟の義視を後継者に指名したが、その翌年に日野富子が嫡男の義尚を生んだ。将軍に据えたいと考えて、山名宗全を頼った。一方義視には細川勝元が後ろ盾となっていた。次第に細川氏対山名氏の対立が深まった。

この対立とは別に、管領であった畠山氏もお家の当主争いが起こり、畠山政長には細川氏が、畠山義就には山名氏が味方したため、ついに畠山氏の身内騒動から「応仁の乱」へと発展した。

義視

義尚

細川勝元

山名宗全

◆経過・結果

近畿周辺を押さえていた細川氏に参集した軍勢を「東軍」、西国一帯を押さえていた山名氏に参集した軍勢を「西軍」と呼び、京都の真ん中でにらみ合いが始まった。足利義視、足利義政も双方に慰留に務めたが、すでに権力を亡くした室町幕府では抑えることはできなかった。

東軍の拠点

西軍の拠点

上御霊神社

初戦は山名宗全が先制攻撃を仕掛けることで、西軍が圧倒したが、細川勝元は準備を整え、政治的な根回しを行ったので徐々に東軍が有利に展開した。西陣一帯はほぼ焼け野原となった。

しかし、西軍の援軍として周防(現在の山口県)から大内政弘軍が参戦して形勢が逆転し、西軍へと傾いて醍醐寺三宝院などが焼かれた。東軍は勢力挽回策として、西軍の大名の領地を脅かすという後方攪乱作戦を展開、戦いは全国に広がって泥沼化していった。

11年間の戦いは京都一帯を焼き尽くし、細川勝元、山名宗全が相次ぎ病死してようやく終焉に向かった。

◆その後・影響

この戦乱で領国を留守にして遠征をおこなった守護大名の中には、帰国の途中で襲撃にあったり、帰国すると国が守護代に乗っ取られていたり、民意が離れて統治が難しくなったりと困難に直面した。その隙ついて台頭した新しい支配者は幕府が崩壊したことで、一国一城で独立することも可能になった。

結果的に刃」この長い戦いによって、室町幕府は」完全に形骸化し、事実上戦国時代の幕開けとなった。

■応仁の乱の

◆発端となった畠山氏とは

持国の実子「義就」と甥で養子の「政長」は家督を争い、応仁の乱を引き起こした。

◆畠山氏に始まり、畠山氏に終わり、時代は戦国へ

応仁の乱の開始時点では、「義就」に山名宗全が肩入れ、「政長」には細川勝元がついた。こうして始まった大乱が1473年3月に山名宗全が、5月には細川勝元が相次いで死去した。1474年には宗全の後を継いだ山名政豊と、勝元の後を継いだ細川政元が和睦し、山名軍はついに東軍に加わるようになった。畠山勝就や大内政弘野軍勢と戦い始めた。さらに1476年には、西軍に擁立されていた足利義視が足利義政に帰順を申し入れ、義政は義視を許した事から将軍家野争いも落ち着いた。そして最後まで西軍側で戦っていた大内政弘が周防へ引き上げ、戦いが終結した。

しかし、それでもなお、畠山義就と政長は戦いを続行した。つまり「応仁の乱」とは、この両者の争いがきっかけであり、多くの武将を巻き込んだ大乱となった。

畠山政長は基本的に幕府の指示を得た官軍で、義就は賊軍の扱いの時期も多かったが、名目上は政長の領国であった大和と紀伊国を実質的に支配続けた。最終的には義就が亡くなることによって、権力の座を確固たるものにした細川政元の時代となり、細川政権が畿内に誕生した。実子がおらず3人の養子をとったことから、政元が暗殺されると今度は細川氏のお家騒動に発展する。この中で台頭したのが、阿波細川家の家臣であった三好家で、時代は完全に下克上の戦国時代に突入した。

次回の講義日:12月19日(月)10時~11時40分

     テーマ:織田信長がもし死ななかったら?!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第5回講義

2022年10月25日 | 日記

講義テーマ:後醍醐天皇

  乱世を生きた、後醍醐天皇の大義名分とは?

日時:10月24日(月)10時~11時40分

講師:若村 亮先生

平安神宮と時代祭り:10月22日にありました。

平安神宮には、平安京創始の桓武天皇が御祭神として祀られている。また、孝明天皇も合祀されている。時代祭りの行列順序は新しい時代の明治維新から順次古い時代に平安~延歴時代へ・・。

 

■南北朝時代

皇位の継承は:両統迭立へ (皇位の継承は混乱の時代へ)

幕府は皇位継承への深入りを避けるために両統迭立を原則とした。しかし、

・鎌倉幕府 VS 朝廷 後醍醐天皇の対立(皇位の継承に対する鎌倉幕府の決定に不満を募らせた後醍醐天皇)

後醍醐天皇:第96代天皇 正中の変・元弘の変に敗れ、隠岐に流された。1333年に隠岐を脱出し、新田義貞・足利尊氏らの支援で鎌倉幕府を滅ぼして親政権を樹立した。のちに武士との不和から親政は崩壊し、足利尊氏らも離反し、1336年、吉野に移って南朝を立てた。

・執権・北条氏 VS 御家人・足利尊氏の対立(執権・北条氏による鎌倉幕府の独裁に不満を募らせた足利尊氏)

鎌倉幕府が滅亡、そして親政権の誕生へ(鎌倉幕府に不満を募らせた後醍醐天皇と足利尊氏の連携)

・後鳥羽天皇による倒幕計画

・鎌倉幕府の滅亡

・後鳥羽天皇が”建武の新政”を始める

朝廷:後醍醐天皇 VS 武士:足利尊氏の対立(後醍醐天皇と足利尊氏の対立によって早くも政権は崩壊へ)

・後醍醐天皇は八瀬から比叡山へと逃げる

・後醍醐天皇は奈良・吉野へにげて新しい朝廷を立てた。

南朝:後醍醐天皇 VS 北朝:足利尊氏(朝廷を二分する深い対立へ)

南朝の動き:後醍醐天皇の崩御

1339年8月 吉野で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。

天竜寺

1339年に建立された。南北朝時代、敵として対立した後醍醐天皇の死去に際して、”怨親平等”を説いて後醍醐天皇の菩提を弔う寺院の建立を足利尊氏に強く勧めたのは、当時武家からも尊崇をうけていた禅僧・夢窓疎石であった。

北朝の動き

・足利尊氏による鎌倉幕府の樹立

・1338年には」北朝・光明天皇より征夷大将軍に任じられた。

 

戦乱に休止符を打つ南北朝統一、そして安定した室町時代へ

・3代将軍・足利義満の斡旋で南朝・大覚寺統と北朝・持明院統の両迭立と、領地を大覚寺統の所有とすることを条件に、南朝・後亀山天皇が北朝・後小松天皇に三種の神器を渡して南北朝統一とした。(講義まとめ:黒木武紀)

次回の講義日:11月28日(月) テーマ:応仁の乱、本当の原因は何か?!