マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

Dr.肥沼と塚本回子さん

2017年12月25日 | 

 八王子へ足繁く通うになり、何人かの魅力的な方と巡り合った。そのお一人に「Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会」代表の塚本回子さん(右写真は東京新聞より)がいる。Dr.肥沼信次と聞かされても知らない人の方がはるかに多いだろう。その詳細は後日書き綴るとして、簡単に略歴を記しておくと、








「1908年、八王子に医者の子として生まれた肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)は日本医科大学を卒業後東京大学で放射線医学を研究。1937年にドイツに渡り、ベルリン大学放射線研究室で研究に励み、数々の優秀な論文を提出する。  
 1945年3月、ベルリン陥落直前、日本政府はベルリンより全員帰国の指示を出すと、肥沼は説明会に顔を出したものの、退去の日に顔を出すことは無かった。肥沼が再び姿を現したのは半年後の1945年9月。終戦後のヴリーツ
エン伝染病医療センター所長に就任した肥沼は、チフスなどの感染症が猛威を振るうなか献身的に治療活動に当たり、多くの患者の命を救った。最後には肥沼自身が発疹チフスに罹り、1946年3月8日、37歳の若さで死亡した。“日本の桜が見たい”との言葉を残して。肥沼に救われた、多くのヴリーツェンの人々は今も彼の墓を守り続け、1992年、市は肥沼に名誉市民の称号を与えた」 

 ベルリン自由大学での2年間の招聘期間中にこのことを知った川西重忠氏(現桜美林大学名誉教授)はDr.肥沼の偉業を多くの人に知って貰おうと、講演活動を始めた。2005年2月ころ、NHK八王子文化センターでの講演を聴講した一人に塚本さんがいた。
 こんな偉大な人が地元の八王子にいたことに驚き、感動した彼女は、その年の11月には八王子ボランティアネットワークの仲間とヴリーツェンを訪ね、肥沼の墓に詣でた。現地では名誉市民となるなど敬愛の気持ちが受け継がれていることを知った。
 帰国後、ヴリーツェン市と交流を深めるため友好都市になるよう市に申し入れたが事態は思うようには進まなかった。2015年に「伝える会」を発足させ、肥沼の偉業を知って貰うための地道な講演活動も続けてきた。
 市制百周年の今年、状況は一気に進んだ。7月には両市が友好交流協定を結び、9月には顕彰碑が完成した。10月には市は市制100周年記念式典で肥沼を特別顕彰し、ヴリーツェン市長等を式典に招聘した。(写真:顕彰碑)










 今年の10月、2年振りに塚本さんと再会した私は、その時初めて顕彰碑のことなどを聞かされた。多分その序幕式でも塚本さんが挨拶をしたと思う。思い立ってから12年の歳月が流れていた。そこに至るまでには多くの方の絶え間ない努力があったことだろうが、常に活動の中心にいたのが塚本さん。決断力と実行力。それにリーダシップを兼ね備えた方だと、私は会うたびに感じている。
 12月13日(水)、八王子に出掛けた帰り中町公園の顕彰碑を訪れた。“お帰りなさい Dr.肥沼”と書かれた碑。そのことを伝えるメールの返信は次の様にあった。








 「市から頂いた、90センチ四方の土地にどんなものを建てられるか随分皆で検討しました。・・・桜が見たいと言った言葉から、使う石は国産で桜色と決めて探しました。“お帰りなさい、Dr.肥沼”の字は実行委員の一人が心を込めて筆で書いてくれました。ドイツの方が見てもすぐに分かるようにドイツ語で“お帰りなさい”も入れました。(右写真参照)
 7月の調印式でヴリーツェンに行ったときには、顕彰碑のレプリカを、調印式の日付を入れてお持ちしました。10月にお出で頂いたヴリーツェンの市長さんからは『あのレプリカとこの顕彰碑に今、虹が架かった』と嬉しいお言葉を頂きました」とあった。
 顕彰碑は市民による手作りの運動の証でもある。


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