A Day in The Life

主に映画、ゲーム、同人誌の感想などをコンクリートミキサーにかけてブチまけた、ここはいいトシしたおっさんのブログ。

今後のことについて

2018-03-27 23:11:50 | 居合

 先日日記に書いたとおり、京都の道場は辞めました。
 正直なところ居合自体を辞めようと言う気持ちもゼロではありません。
 10年以上かけて行き着いた先がこんなものだったらもうやる意味などないとも思いましたし、以前はあれほど楽しんできたことをここまで楽しめなくなってしまったなら、少なくともこのまま続けることは出来ない。
 そもそも10年以上かけてやってきたことがこれなら、自分にはもう何かをやる意味もないという気持ちもあります。
 それに、他人に追い越され、蔑まれ、見下され、憐れまれさえしてまでするほどのことなのか?という思いもあります。
 ここ数年……3年前に五段受験を失敗してからは本当に居合をやるのは全く楽しくなく、得られたのは苦痛だけでした。
 こんな思いをするくらいなら死んだほうがマシだと思っていましたし、道を歩いていてトラックが横から突っ込んできてくれたら、僕は確実にある側面では救われていたでしょう。
 本当に居合に関しては苦痛だけの数年間でした。
 少なくとも今の状態で居合を継続することはしない。
 しかし、おそらく居合は僕自信が自覚している以上に僕の人生と癒着していると思います。
 正確には居合が、というよりは、10年以上続けてきたことが、でしょうか。
 なのでそうそう簡単にハイさよなら、と忘れられるものでもないでしょう。
 もちろんここまで続けてきたんだから辞めてしまうのはもったいない、という気持ちもありますが、ここからはもったいないだけで続けていくことは不可能でしょう。動機としては弱い。
 なので居合に関しては今後も続ける方向では行くつもりです。
 続けざるを得ない、の方が正しいかもな……。
 熊本の道場の先生も、ほかの道場を紹介してやると言って下さっているのでいずれは新しい道場で、と考えてはいますが、その前に可能であれば単独で稽古ができる場所を見つけて、そこでしばらくのあいだ一人で稽古をしようと思っています。
 ここ数年で居合に関してはもうほんとうにさまざまなものを失いました。
 居合をやる動機は当然「楽しいから」だったわけですが、それが失われた状態でいきなり次の道場に行っても続かないでしょうし、何より今は疲弊しきっています。
 「楽しむ」がもう完全に他者との比較されるから……という強迫観念に塗りつぶされていましたから。
 なので、ここで改めて自分が居合をやる動機を見つめ直す……というよりは、「行動の動機の中心には必ず自分を据える」ということをもう一度確認することをしようと思います。

 この問題については、表出したのが居合という側面だったというだけで、その本質は居合云々というよりも実はアダルトチルドレンとしての自分の抱える問題にあると思います。
 問題の大本は「行動の判断基準が自分の中ではなく外にある」ことだと思います。
 五段受験に失敗した時の京都の道場の指導者の対応は端的に言って人間としての信頼を完全になくすにふさわしいものでしたが、そこまでされても道場をやめるという選択肢を取れなかった理由が、「京都の道場を紹介してくださった熊本の先生に迷惑がかかるかもしれないから」でした。
 つまり行動の判断基準が「自分がどうしたいか」になかった。
 このせいで無駄な苦痛を2年間も味わい続ける羽目になった挙げ句、居合を楽しむこともできなくなってしまった。
 「行動の判断基準を自分の外から押し付けられ続けてきた」というのはもう幼少期から仕込まれてきたことで、ここにきて一気にその病巣が発現した感じです。
 これについてはカウンセリングの中でも担当の先生と話し合って行こうと思います。
 カウンセリングに通うようになって本当に良かった……。
 居合云々の部分はあくまで表層であって、根本的な問題はやはりアダルトチルドレンとしての部分にあるんですよね。
 居合への復帰は焦らず、カウンセリングと並行して少しずつ「楽しい」を思い出しながらやっていこうと思います。
 そもそも居合を選んだ動機の一つには自分ひとりでやれるから、ってのがあったはずなんだよな。
 マイペースでやれていたからこそ楽しめてた。
 京都の道場では自分のペースではなく指導者のペース……というか、相手がしてあげたいことを一方的に飲み込まされていたというのもあります。
 これはもう幼少期の親からされていたことと同じなんですよね。
 それをまたそのまんま再現される羽目になっていたわけです。7年間も!
 思い返すだけでおぞましい。
 あそこでは完全に自分に蓋をした状態でしたし、自分から相手の望む自分でいようともしていた。これも幼少期から親に仕込まれていた悪癖の一つです。

 自分は他人がいる限りほんとうの意味での自分になれないと感じることがあります。
 親を始めとする他人の多くは、僕に対して役割を求めてくる。
 その役割というのは大抵のばあい自分を投げ捨てるゴミ箱もしくは自分のやってあげたいことでいくらでも殴らせてくれるサンドバッグだ。
 そうした幼稚な欲求を向けてくる他人が嫌いだ。
 それについつい応えてしまう自分も嫌いだ。
 正直なところ、他人と関わりたくないとすら思います。まともな他人って本当に少ないんだよ……。
 でもまあ、僕が全ての他人を助けてやる義務なんてありませんし、興味のない他人には無関心でいようと思います。
 もっと自分勝手になろうと思いますし、これからも他人との接触は極力避けていくでしょう。全ての他人と親しくしてやる義理はありませんし、向こうがそれを僕に求めていたとしてもそれは僕が同じようにしてやる理由にはならない。
 あくまで僕がどうしたいか。
 もちろんすべての他人が僕に対してそうだというわけではありませんが、それらはあくまで例外だという認識は変わらないでしょう。
 以前はもっとマイペースで要られたと思いますが、メンタル面が弱っているのか病巣が広がっているのか、自分が他人に侵食されている割合が広がってきている感覚があります。

 いろいろと書いてきましたが、要は「自分が蚕食されていってる」ってことなんでしょうかね。
 居合の側面でそれが大きく出てるってだけで、そこだけが問題じゃない。
 マイペースでいられるときが一番強いとうのは自分でも自覚していることですし、諸々の焦りは自分をいちいち他人と比較してしまうことから発生してるんですよね……。
 それでまたメンタルが削られるという完全な悪循環。
 なので、まずはゆっくりと自分を取り戻していこうと思います。
 

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