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主に映画、ゲーム、同人誌の感想などをコンクリートミキサーにかけてブチまけた、ここはいいトシしたおっさんのブログ。

第21回博麗神社例大祭戦利品レビューその11-7

2024-08-09 23:42:57 | 同人誌感想
 なんつってる間に明日は夏コミ出発日っすよ(笑)
 というわけでもはや背水の陣通り越して水の中に鼻の下まで浸かってる状態なのでどんどんやっていきますよ。やるべきことを終わらせて新品のパンツを履いた元旦の朝のように清々しい気分で夏コミに出発するのだ。
 
・東方SFアンソロジー 夢現理論の臨界点(東方SFアンソロジー製作委員会)
 長かったこの作品のレビューも、いよいよあと残り9作品! 5・4で休憩挟んで書いていけばなんとか終わる量……なはず……。
 
・差異(Difference)(星原渚氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「他者のとの違いというつながり」。
 SFではしばしば憑依や精神寄生等といった方法で他者と同一化する描写があります。本作では秘封倶楽部のふたりというキャラクターを使って、タイトル通りの差異によるつながり。
 前回の日記でも何度か書きましたが、蓮子とメリーは東方の中でももっとも結びつきの強いカップリング。だからこそこうした作品では二人の「差異」が際立つわけですね。
 本作はインプラントチップが一般化した未来世紀を舞台に、「結界を見るための能力を獲得できるチップ」を巡った物語が展開されます。
 本作では、「結界を見るための能力」が外挿化されることによる特殊性の喪失を、そのまま「結界を見る」という特殊性が一般化されることで蓮子とメリーの関係性もまた喪失してしまうのでは?というところに話を持っていっているのが作劇的に上手い。
 作中の蓮子の言う「貴女とぜんぶ同じになりたいわけじゃない」という言葉がこの作品のすべてと言えるでしょう。差異があるから、同一ではないからこそ互いに結びつき合うことができるという。
 
・山彦の氏(天狗氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「自己像の認識」。
 もっとも身近な認識であるはずの「自己像」は、しかし作中で述べられている通り「写真を撮った自分は写真に映らない」というように実は客観的に認識できないもの。
 自分は直接自分を見ることはできないし、鏡に映したり写真に撮ったりした自分も再現度100%のそのままの自分ではない。あとがきにあるとおり、「生のままの自己像」と「客観的に観測できるよう加工された自己像」の間にはどれだけ近づいても決してゼロにはならない隔たりがあるわけです。
 本作では「撮影者の心象をも映すことができるカメラ」がキーアイテムとして登場します。このカメラで撮影された写真を手にしたものは、当時の撮影者と同じ心象を体験できるというものですが、文からこのカメラで亡くした弟・命蓮の撮影を勧められた聖はこれを断ります。写真として切り取られた命蓮の姿は限りなく彼に近いものでしょう。しかし、それは彼本人ではない。どころか、それはあくまで撮影者=聖の心象としての命蓮であって決して命蓮本人ではないことが最初からわかりきっているわけです。
 SFというジャンルは地球の外、太陽系の外という「外側」への強力なベクトルを持つ反面、しばしば人間の内面に深く没入する「外側」へのベクトルも持つもの。本作は写真という媒体を利用して自己像の在り処を探る、内向的SFだと感じられました。
 
・相対性精神学殺人事件(浅木原忍氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「主観の違いによる多数の認識世界」。
 ベースはお約束の密室殺人事件なんですが、そこにオタクはみんな大好きシュレディンガーの猫な観測者の違いによって死体が現れたり消えたりするという要素をぶち込んだもんだからさあ大変。ミステリーでやっちゃいけない枷がぶっ壊れたこの殺人事件、如何にして処するか!
 我々は「客観的にものを見ろ」とか言ってますが、そもそも我々は何を認識するにしても絶対に主観というフィルターを通さざるを得ないので、主観を完全に排除した「真の客観」という視座を獲得することは絶対に有り得ないんですよね。本作では密室殺人事件という舞台を使ってそれを思いっきり誇張して、主観によって出たり消えたりする死体を登場させて読者を混乱させます。
 しかし話し手のひとりであるメリーはこれをあっさり「客観なんて主観的認識の集合体でしかない」と断じます。SFにおいては堅牢で確実な存在であったはずの「現実」はしばしば煙のように不確定で曖昧なものとなります。本作のラストでは、今まで硬い床だったはずの現実がぐにゃりと泥のように崩れていく感覚が味わえました。また終始マイペースかつすっとぼけた感じのメリーが実にメリーで好き。
 
・人はそれを神と呼ぶんだぜ(町田一軒家氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「SF的解釈付喪神」。
 かつてはSFの世界の存在だった「AI」や「電脳アイドル」はすっかり現実のものとなりましたが、本作はこれまた世界中に普及したあらたなアイドルの存在形式であるVtuberを題材に取り上げたものです。
 外の世界で忘れ去られたものが幻想郷に来るという「幻想入り」ですが、本作では発表される前にお蔵入りになったと思しきAI搭載型のVtuberが幻想入りします。これが現実の群雄割拠状態のVtuber界隈ならいかにもありそうで興味を惹かれます。
 そして外の世界で忘れ去られた架空のアイドル=偶像が、幻想郷でファン=信者を得ることで一種の神として再誕する、という流れには、道具が妖怪化、あるいは神化する付喪神と同じようなプロセスを感じました。
 また、外の世界で生まれたVtuberである明神クマリと幻想郷との橋渡し役となっているのが、外の世界と幻想郷を行き来している菫子というキャラ配置も、全体の作劇構成ををスムーズかつ自然なものにしています。
 
・幻想郷における芸術の革新(久我暁氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「一種のテセウスの船としての生成AI」。
 このブログを書いている今現在も、生成AIの功罪については激しい議論が為されています。
 本作に登場する画家の手掛ける絵は、短時間で高精度。それを見たマミゾウはあれはAIではないか?と疑惑を抱きます。
 画家の正体はAIでしたが、開発者の脳にAIがインプットされたという特殊な存在でした。その生成AIはアリスによって一種のサイボーグとしての肉体を得ており、自分の手指でもって絵を描いていたのでした。
 我々の知る生成AIとは、特定のキーワードを入力することでそれにそった画像や文章を出力するというもので、それを「創作活動」とは言えないでしょう。では、本作に登場するAIが自分の手指でもって作品を描くという行為は果たして「創作活動」と言えるのか。
 ラストではAIは彼(?)に憧れる里の少年との共同制作である絵を完成させます。ではこの作品は「AI出力」によるものなのか、あるいは純粋な創作活動によるものなのか。「完全にAI出力で作られた作品」は生成AI作品ですが、ではどこまで人間の手が関与していればそれは「創作作品」と呼べるようになるのか。本作のテーマとは少しズレた感想かもしれませんが、読んでいてそんなことを思いました。
 古い部品を取り替えていってすべての部品が新しいものになった舟はどの段階で「元の船」でなくなるかというパラドクスである「テセウスの舟」と同じように、生成AIがどこまで関与すると作品は「AI生成作品」になるのか、ということを本作のラストで考え込んでしまいました。
 
・博麗霊夢になることは(柊正午氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「人間の模倣」。
 本作では博麗霊夢となろうとする埴輪・レイムとその訓練係となった磨弓の姿が面白おかしく描かれています。音声モジュールの下りは全部脳内再生できてしまって爆笑しました。ゆっくりとずんだもんまでは我慢しましたがクッキー☆で崩壊した。
 しかし本作は、「いかにして博麗霊夢を再現・模倣するか」というハードSFでもあります。ただ単に姿を似せるのではなく、性能(スペック)でもって博麗霊夢を模倣しようとしているアプローチが非常に独特。
 そしてその方法もまた独特で、埴輪兵としての根本的なスペック不足を解消するために用いた方法が「閻魔によって白黒つけられた霊をびっしり敷き詰めて白と黒のバイナリから構成される霊子コンピュータを構築する」という……。どっから出てくるんだこの発想。
 そしてこの設定が本作のラストバトルの勝敗にもしっかりつながっているのがまた上手い。一般的な計算機は加熱状態で熱暴走(オーバーヒート)を起こす。ならば霊子コンピュータたるレイムの頭脳はというと、(東方的世界観では)冷たいものである霊魂の集合体である霊子コンピュータが暴走すれば、逆に過冷却状態(オーバークーリング)を引き起こすという。そして「全霊停止」と書いて「ウィンターミュート」と読む! 分かる人にはわかるこういうネタ大好きです。
 
・オービス/アスフィクシエイト(銅折葉氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「オカルトなSF」。
 本作は遥かな未来の宇宙空間に浮かぶ龍珠製造工場<MISMAR>にてひとり孤独に与えられた務めを果たし続ける玉造魅須丸の話。
 まず言及しておきたいのはわあい宇宙生物あかり宇宙生物大好き。
 宇宙に浮かぶコロニーには事故が起こるということはコーラを飲んだらゲップが出るくらい確実。<MISMAR>に激突した人工衛星トリフネから侵入してきたキマイラの描写はかの名作SF「エイリアン」の異形感をひしひしと感じさせてくれます。そしてキマイラと魅須丸のバトルは弾幕ごっことはまた違った、しかししっかり東方的な戦いで読んでて楽しい。
 本作の最大の魅力はなんといってもテクニカルタームの読み替えでしょう。「葦原中国」と書いて「ミドルアース」と読む。「龍珠」と書いて「マテリアル」と読む。本来ならSFとは反対方向に位置するはずの神話的、幻想的タームを自然にSFのそれに読み替えることで、ごく自然に両者が融合・統一された世界観を成立させています。
 こうした専門用語はともすれば意味がよくわからずに読者を混乱させるだけに留まることも多いものですが、本作では逆に長々と説明することなく舞台となっている時代と世界がどういったものかをしっかり地固めして伝えてくれているのがさすがの技量といった感じです。
 
・偶像に宇宙(せかい)を委ねて(仮面の男氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「人類が飛び立ったその先」。
 宇宙にまで進出した人類がたどり着くのはいかなる世界か、というのはSFのもっとも古典的なテーマのひとつ。
 本作では遙か未来の世界の人類である先輩と後輩がたどり着くのは、先進的存在である飛翔体文明の遺した謎の遺跡。人類より遥かに進化・発達した種族というのもまた古典的SFテーマのひとつですが、本作ではその飛翔体文明の正体を造形神である埴安神袿姫、残された遺跡を前方後円墳としているのがオカルトかつSFがうまく融合していると感じました。
 そして遺跡に残された磨弓と埴輪たちが人類との対話で「余暇の過ごし方」というテーマに対面するという設定がまたおもしろい。
 そもそも本作がそうであるように、異文明系SFでは1000年2000年という時間はあっという間に過ぎ去ってしまうもの。そんな中での「余暇の過ごし方」というのはユニークなテーマであると同時に、遠大な時間を豊かなものにするという以上にもっと切迫した要素なのかもしれないと思いました。現に先輩・後輩が訪れなければ磨弓や埴輪たちは長大な時間を無為に過ごしてきたでしょうし、先輩・後輩ら人類もまた長大な時間の果てに異形の存在となったままだったでしょう。
 作中の言葉を借りるなら、恒星間航行を可能とするまで進化した人類という空を飛ぶ鳥にも、生身の肉体をもって大地にへばりついて生きてきた地を這う亀たる旧人類の営みが必要ということでしょうか。
 
・祈念撮影(心葉御影氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「センス・オブ・ワンダー」。
 最後を飾るにふさわしい、素晴らしいギミックが込められた逸品です。まさにSF、まさにセンス・オブ・ワンダー!
 本作はメリーに仕掛けられた脱出ゲームに挑む蓮子という構図で始まります。読書というのはしばしば登場人物との感情や体験の共有を実現しますが、前半パートを読んでいる間、視界を闇に包まれた蓮子と同じように難解な用語を用いた文章から必死に状況を想像していました。当然、本作は小説なのでビジュアル要素がありません。この前半パートの間、わたくしは読んでる間まさに目隠し状態の蓮子と同じ状況でした。
 優れた創作作品の条件は無数にあると思いますが、わたくし人形使いはそのひとつに「読者の感覚を誘導できる」があると思っています。しかるに本作は、前述の通り前半パートで小説という形態をりようして読者に蓮子の状況を想像させるという誘導に成功しています。解説するのは簡単ですが実行しようとすると相当難しいですよこれ。
 そして蓮子がさまざまなヒントから、自分がいる世界が2次元世界だということに気づきます。そしてそこから脱出した蓮子が目にしたのは――。
 いやあ上手い。次のページをめくったときに思わず「うまい!うまい!」と煉獄さんと化していました。「ページを捲る」という行為の興奮をしっかり味わえたとともに、文字通りの2次元から3次元への移動を表現するというセンス・オブ・ワンダーを体験できました。技あり!
 
 くぅ~疲れましたw これにて終了です!
 ……というわけで、全7回に渡って「夢幻理論の臨界点」レビュー、これにて完了!
 最初のレビューでも書きましたが、本作は各作品に解説がついているのでそっちに頼り切りにならないようにするのが大変でした。まあ頼りましたが。
 やはり分厚い合同誌のレビューは大変ですがやりがいがありますし、何より一介のSF好きとして楽しんでレビューさせていただきました。楽しかった!
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