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主に映画、ゲーム、同人誌の感想などをコンクリートミキサーにかけてブチまけた、ここはいいトシしたおっさんのブログ。

塚口サンサン劇場「ビギル 勝利のホイッスル」「火の道」見てきました!

2024-02-28 23:22:13 | 映画感想
 毎週毎週木曜日が近づいてくると「しまった! 塚口であれ見なきゃ!」となってしまう塚口ファンの皆さんこんばんは。わたくし人形使いも相変わらず滑り込みが多いです。
 というわけで今日は久々に2本連続で映画を見てきました。しかも両方ともインド映画なので3時間越え。なので昼から見に行ったのに帰るころにはもう夜ですよ。
 まず1本目はこちらの作品!
 
 
 本作は「大将」ことヴィジャイ氏主演のサッカー映画。しかしヴィジャイ氏は選手ではなく監督役で、監督を失った女子サッカーチームを優勝に導くというもの。
 この配役がなかなかうまく、本作はヴィジャイ氏の魅力を全面に押し出すのはもちろんのこと、社会で、特にインド社会で抑圧され低い立場に置かれている女性たちの奮闘をサッカーを通じて描いています。
 まず言うまでもありませんが言っておかなくてはいけないのがヴィジャイ氏のカッコよさ。わたくし人形使いは「バーフバリ」から始まってさまざまなインド映画を見てきましたが、どの作品も主演の初登場シーンがすさまじくカッコイイ。
 本人がカッコイイのはもちろんのこと、演出や見せ方が本人のカッコよさを120%引き出してるのでなんかもうカッコよすぎて笑ってしまうという経験をしました。だってカッコ良すぎるだろ……。
 しかし本作の主眼はあくまで女子サッカーチームというのが面白いところ。しかし本作はいわゆるスポーツものかというとそうでもない。もちろんチームの目的は優勝することだけど、それはあくまでガワの部分。
 本作における本当の戦いは、サッカーの試合ではなくそれとは別のところにある、「身分や性別による格差との戦い」なんですよね。
 主人公であるビギル=マイケルは、反社会組織、そしてそうした組織と癒着している警察と対立しており、それが元でヴィジャイが試合に向かう電車のホームで見送り中に殺害されてしまいます。これが原因でビギルはサッカーの世界から追われ、下町で暮らすようになります。しかもビギルの父の殺害を命じたのはサッカー協会の会長で、社会的地位の低いものの参入を拒むためでした。
 そして物語冒頭、ビギルは父と同じように組織の殺し屋に襲撃を受け、これを退けたと思いきや女子サッカーチームの監督でもあった友人を巻き込む形で重傷を負わせてしまいます。
 この辺の「同じ形のトラブルの繰り返し」は、インド映画でしばしば感じられる「因果」であり、「変わらない社会の歪み」をも感じさせます。
 また、女子サッカーチームも各々が……というよりもこの女子サッカーチームそのものが「インド社会で冷遇されている女性たち」の象徴と言えるでしょう。あるものはかつて高名なプレイヤーだったもののその先の道を「女性だから」という理由で閉ざされ、またあるものは恋人とのトラブルから顔に薬品をかけられて重傷を負い、人前に出られなくなってしまっている。「サッカーチームとして弱い」という側面ももちろんありますが、見ていて強調されているのはむしろそういった社会的抑圧から弱い立場に押し込められていると感じました。
 そうした彼女たちが新しく監督となったビギルとともに立ち上がるというのが本作の流れなんですが、個人的に好きなのがビギルも彼女らと同じ喪失や欠落を抱えているという点。
 ビギルによって彼女らが奮起し再びサッカーのフィールドに戻ってくるというのはそのとおりであり、彼女らにとってビギルは紛れもなくヒーローです。しかし、ビギルは前述の通り父を抗争で亡くし、自身もまた同じ構図で友人を失いかけるという経験をしており、決して完全無欠のヒーローではない。彼女らがビギルによって救われたように、ビギルもまた彼女らによって救われたのではないでしょうか。
 さっきwikiで見たところ、本作は「批評家からの評価は低く、唯一評価されたのはヴィジャイが演じた老ギャングスターの描写のみだった」との記述がありました。確かに本作はサッカー要素とヤクザ要素の両方を入れたせいか、いまいち両者のバランスが悪くなってしまっている気がします。本格的にサッカーを始めるのがインターバル後だったしな。それに純粋にスポーツもの、サッカーものとして見ようとすると試合がぶつ切りになってる部分も多く、「どっちが勝つか」といったハラハラドキドキの部分が中途半端な感じもありました。
 しかし思うに、本作における「サッカーのフィールド」はそのまま「インド社会の縮図」そのものなんじゃないかと思います。だから、そこにいる「反則行為を見て見ぬふりをする審判」がインド社会のいち側面であるのなら、「フィールドに堂々と傷を負った顔を晒して復帰する女子選手」や「妊娠しているにも関わらずプレーに参加する女子選手」はこれからのインド社会に望まれる光景ということでしょう。
 また、本作におけるサッカー……というかスポーツは、ただ単に競争の手段ではなく「性別や出自に縛られることなく活躍できる場」あるいは「健全な闘争ができる場」として印象深く描かれていると感じました。だからこそのあのラストなんだよな。
 
 次、2本目はこの作品!
 
 
 みんな大好きリティク=股下20メートル=ローシャン主演の復讐譚。
 わたくし人形使いはリティク氏は「バンバン!」で知ったんですが、本作におけるリティク氏演じるヴィジャイは、「バンバン!」の飄々としてクールなラージヴィールとはまったく異なるキャラクターで、その演じ分けというか変わりように驚きました。
 本作の主人公・ヴィジャイは少年時代に住んでいた島の村長の息子カーンチャーによる陰謀で父を殺されてしまいます。それから15年後、成長したヴィジャイはマフィアのボス、ラウフ・ラーラーのもとで力をつけ、復讐の機会を伺っていました。
 本作は復讐譚ということもあって全体的に重い雰囲気なんですが、このリティク氏演じるヴィジャイの沈痛な表情と雰囲気というのがもう……。もちろん作中ではインド映画のお約束である華やかなダンスシーンもあるんですが、そんな中でもヴィジャイは基本的に笑顔……というか安らいだ表情をほとんど見せないんですよね。
 ヴィジャイは少年期にすでに警官殺しを果たしてしまい、母親や妹と別れ別れになってしまっています。そして青年期のヴィジャイが登場したときには彼はもうすでに脱出不可能なほどに闇社会に染まってしまっているという……。だからこそ見ている方は、彼の身に起こる小さな幸福にむしろ逆説的に悲しみを感じてしまうんですよね。
 そして個人的にインド映画の好きなポイントなんですが、大事なところほどセリフで説明しない、語らない。特に良かったのが、ヴィジャイが正体を隠して毎年妹に誕生日プレゼントを送っていたところ、届けに来たところで母親に出くわしてしまうシーン。あそこのシーンのヴィジャイと母親の表情よ……。あそこに込められた感情はとてもセリフでは表現できないと思います。
 とにかく最後まで悲痛な表情の多いヴィジャイをずーっと見せられるわけですが、そこからのあのラストの母親の腕の中で目を閉じるあの表情の安らかなことよ……。インド映画ではしばしば見られることですが、「業(カルマ)の浄化」なんですよねこれ。「K.G.F.」でも感じたことですが、「悪を制するために悪の道に踏み込んだ者はその業(カルマ)を今生で浄化せねばならない」という文化というかルールというか善悪感を感じます。一種の「悪魔との契約」なのかもなあ。大きな力を手に入れて目的を果たしたらその後は……という。
 主演が同じリティク氏なのでどうしても「バンバン!」と比べてしまうんですが、己の目的を果たして無事「いつか」の「我が家」へと帰ることに成功したラージヴィールに対し、後半のヴィジャイは幸福の絶頂の中でそれを失い、もうあの結末になだれ込むしかなかった感が、運命の流れの中でもがきながらも飲み込まれてしまった感があって悲しい。ことの発端と結末が同じ場所に帰着するというのもなあ……。
 そしてサンジャイ・ダット氏演じるヴィジャイの仇敵・カーンチャーがまたいいキャラで、ともすればリティク氏を食ってしまいそうな迫力のある悪役でした。
 その存在感は「悪人」「悪役」というよりはむしろほとんど「魔物」の貫禄。禿頭に巨躯、そして歪んだユーモアを持ち合わせるその姿は人間離れした「悪」のオーラに満ち溢れていました。面白い作品の条件は無数にあるでしょうが、その中には「悪役が魅力的」「悪役の格が落ちない」があると思います。カーンチャーはそのいずれにも当てはまる魅力的な悪役でした。
 
 いやー久しぶりに3時間クラスの映画を立て続けに見てしまった。しかし今度は「ヴィクラムとヴェーダ」をはじめ人体の耐久度を明らかに考慮してない上映スケジュールが待っているので備えねば。
 
コメント
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