※この日記は9月27日に書かれていますが気にしてはいけない。時が前に進むと誰が決めたんだ。ターンAターン。
言うまでもないことですがシン・エヴァ、1回見ただけではとても足りるものではありません。
というわけで早速2回目見てきました。
2回めを見に至っときにはポスターが新しくなっており、チルドレンたち以外にもサブキャラたちが追加されています。
冬月副司令がセンターポジションにいたり、その隣にゲンドウとユイがいるあたり、なんだかさり気なく優遇されてて笑ってしまいました。
twitterなんかを見てると、小さいお子さんが冬月副司令が主役だと勘違いしたなんてエピソードが投稿されてたりしてほほえましい気分に。
というか冬月副司令主役のエピソード見せろよ庵野。Qの次回予告詐欺はまだ許してないからな。(根に持つタイプ)
さておき、2回めの鑑賞です。ネタバレ反転はなしで。
今回のシン・エヴァ、シト新生や旧劇場版のゴア描写や精神世界描写満載の展開を見てきたせいか、かなり意図的にそうした描写を排除しているように思えました。
改めて見てみるとショッキングな場面といえばアスカが左目から封印柱を引っこ抜くシーンとゲンドウの脳ミソくらいで、旧劇場版のような血みどろな描写は意外に少ない。まあそのへんは単に旧劇場版がやりすぎだったという気もしますが……。
シン・エヴァまでの新劇場版における直接的なグロ描写は、Qのカヲルくんくびちょんぱあたーくがピークなのでは。
特に直接的な死の描写は明らかに抑えられてますよね。旧劇場版とシン・エヴァの共通点のひとつであるミサトさんの死を比較すればそのあたりは一目瞭然でしょう。思い返してみれば、シン・エヴァには殺人、死体の描写はゼロ、人間の流血描写もミサトさんが撃たれるシーンとリっちゃん問答無用のヘッドショットのシーン以外はなかったんじゃないかな。お約束とも言えるLCL化も黒波と冬月副司令のシーンだけでしたし、あれは「死」というよりは「消滅」ですし。
また、シン・エヴァ全体を見てみるとシンジくんの成長に立脚したポジティブさが明らかにあると思います。旧劇場版は明らかに滅びに向かってた作風でしたしね。
旧劇場版とシン・エヴァの違いは無数にあると思いますが、最大の違いは旧劇場版では終始状況に巻き込まれて振り回されるだけだったシンジくんが、シン・エヴァでは積極的に状況にアプローチしていくという点でしょう。
だからこそあの壮大な物語を「父と子の相互理解」という着地点に到達させることができたんだと思います。
シン・エヴァは完結編ということでいろんな人物のいろんな決着が描かれているわけですが、シン・エヴァの終わり方を見ると旧劇場版は逆説的にそもそも(庵野監督の精神状態も加味して)着地点自体がはっきりしてなかったがゆえのあの展開だったんじゃなろうかと今更ながら思います。
……と、ここまではけっこうポジティブな感想を書いてきましたが、ここからはめんどくさいオタクモードスイッチオン。
1回目ではそこまで思わなかったけど2回目で強く思ったポイントとして、前半の第三村のシーンが全体的に不自然なまでにポジティブと言うか、悪い言い方をすればあまりにシンジくんに優しすぎるという点があります。
前述のとおり、シン・エヴァは旧劇場版に比べていろんな描写がおとなしくなってる印象でしたが、この点に関しては露悪的な言い方をすれば第三村のシーンは欺瞞的なまでに牧歌的でポジティブに感じられました。
じゃあ旧劇場版と同じようなネガティブ一直線の展開にしておけばよかったのかと言うと、それやると結局旧劇場版と同じになってしまうのでシン・エヴァの意味がなくなってしまいます。
しかしながら2回目を見てみると、なんか第三村全体がシンジくんのためのセラピー施設かなにかに見えてきて、かなり違和感を覚えました。まあ第三村がシンジくんが立ち直るためのターニングポイントとして設定されている以上そうなるのは当然といえば当然なんですが、うーんといった感じ。
シンジくんと異なり年令を重ねて大人になったトウジやケンスケの見せる落ち着きや思慮深さ、余裕についても、「年令を重ねて大人になったから」というよりは「そういう役割を与えられているから」に見えてしまいました。
そこ行くと、アスカの立ち位置というか振る舞いは、シンジくんと異なり14年の月日を重ねて大人になってはいるものの、トウジやケンスケたちと違って未だに14歳の少女の部分を引きずっているからこそシンジくんにああいう対応をしている/ああいう対応しかできないという意味で印象的でしたね。登場キャラの中でも特異な立ち位置だったと思います。
あと第三村の人々、黒波を平然と受け入れすぎ問題。まあ事前にクレーディト経由で話が通っていたのかもしれませんが……。
トウジやケンスケの旧友であるシンジくんや、すでにケンスケ経由で村の人々にも知られていたであろうアスカと違って、あんなピッチリスーツ姿の子が村に来たらエロ同人展開まっしぐら奇異の目で見られて当然だと思うんですがどんだけのどかなんだよ第三村。しかも後半の第三中学校の制服を着せてもらうシーン以外プラグスーツで通してるしな黒波。
まあこれについても、黒波が本来の人間性を開花させていくために必要な設定だったとは思いますが、この辺ちょっと展開のための設定が見え過ぎ、舞台裏が見え過ぎ感があるなあと思いました。
それとは別に、これは多くのめんどくさいエヴァファンが同じことを思っているんじゃないかと思うんですが、旧劇場版のグロ描写や精神世界描写満載の展開、そして旧劇場版ポスターのあまりに衝撃的な「だから、みんな死んでしまえばいいのに」の文言に、ある種の救いやカタルシスを感じた人は確実にいるはず。
一般的には夢や希望や理想や成長といったポジティブでキラキラしたもので溢れているアニメ作品の中にあって、エヴァの持つエグみは一種異様なものでした。
エヴァの人気の秘密や魅力は当然たくさんあるでしょうが、その中のひとつには間違いなく「世間一般が垂れ流す理想論を粉々にぶっ壊してくれたカタルシス」や「ポジティブでキラキラしたものだけを抽出しがちなアニメでここまでネガティブな描写をしたことで、自身の中にあるネガティブを肯定してくれた」があると思うんですよ。少なくとも自分はそうだった。
もちろんこれは旧劇場版公開当時の90年代の特有の空気あってこその感覚です。シン・エヴァが公開された2021年で同じことをやっても意味はないでしょうし、それをやったところで作品的にも前述の通り旧劇場版と同じになってしまいますし。
しかし、やはり多感なお年頃にTVシリーズから旧劇場版を食らってきた身からすると、今回のシン・エヴァ、特に前半の第三村のパートはあまりにも優等生的にまとめられている感がありました。
前の方で、「第三村はまるでセラピー施設のようだった」と書きましたが、これって実際に庵野監督にとっても一種のセラピーだったんじゃないかな。だからこそ、第三村の人々がシンジくんたちを全面的に受け入れてくれているのは話の都合でそうしたと言うよりも、そもそも前提条件だったんじゃないかという気もします。
上でさんざん第三村に文句つけてて何ですが、違和感を覚えると同時に自分もまた第三村の平和な生活に癒やされていたのも事実ですし。お前言ってることが矛盾してるじゃねーかと思われるかもしれませんが、それこそがめんどくさいオタクである所以なのでそこはご容赦いただきたい。(万能言い訳)
オタクとは勝手なもので、前半部分のポジティブな展開に違和感を覚えておきながら、中盤から後半の「みんなで力を合わせて」的展開はすんなり受け入れられたというか燃えました。オタクはちょろいので「艦長がクルーを全員退鑑させて特攻」のシーンを入れるだけで自動的に感動します。
そしてラスト、シンジくんの姿がアニメーション→線画→原画になるシーンではおそらく多くの人が「ここまで来てまた旧劇場版のああいう展開になってしまうのでは!?」と思ったでしょうが、あれもおそらくはわかってやってたというか、そこからまたアニメーションに戻っていくあたりが、「前回と同じ失敗に落っこちそうなところをなんとか持ち直した」という感じでした。
ラストの宇部新川駅のシーン、今までだったらここでいきなり実写になったりしてたんだろうなあと思います。それはそれで見てみたかった気も。でもあの実写とアニメーションの入り混じったシーンは、何回見てもまさにイマジナリーとリアリティの交わる「新世紀エヴァンゲリオン」という作品のラストを飾るにふさわしい最後だったと思います。
・それはそれとしてシト新生が途中で終わったのは一生根に持つけどな!!!!(2回目)
はーやっと2回めの感想書き終わった……。
これで溜まってたシン・エヴァ感想はなんとか書き終わったので俺を褒め称えろ。
そういや例の空白の14年間についてはシナリオが完成してるとかいう話なので、いずれ何らかの形で公開されないものか。