こと共感という一点において、俺は他人に一切の期待を寄せることができない。
特にいわゆる「優れた人」「正しい人」「強い人」になど話せるものか。
だから今回の一件も、他人の共感や理解など当てにせずいつもどおり自分一人でどうにかしないといけないのだが、無理だ。
解決方法がわからない、とかではなく、それ以前にそうした行動を行うための精神的エネルギーがもうどこにもない。
今までの生活を続けることは可能だろう。現に昨日はいつもどおり仕事には行った。
しかしそれは形骸的に今までの行動をトレースしていただけだ。
皮一枚隔てた向こうの本来の俺はもう死んでいるに等しい。
こういう場合、「前を向いて頑張ろう」とか言うのがまあお約束であるわけだが、じゃあ自分で積み上げた自信の上から叩き落とされてグッチャグチャの轢き潰されたカエルのようになった俺の死骸はどうなる。
もう俺は他人が俺を救ってくれるなどとは思えない。
他人に自分の救済を委ねることは、最低最悪の選択肢だ。他人に俺を救うことなどできないし、そんなことを求めてはいけない。
「落ち込むな」と人は言うが、無理だそんなこと。
俺は俺の死体を始末しなければいけない。どうにかして。
前だけ見るなんてことは不可能だ。
自分の醜い屍を始末しなければ。
自信という本来自分を目標達成にまで押し上げてくれるはずのものに殺された。
自信が恐ろしい。
昨日も垂れ流したが、失敗単体のダメージというのは実はなんとか耐えられる。
慣れているからだ。あるいは麻痺しているから。「まあ、いつものことだ」
はたから見れば「失敗からの立ち直りが早い」だとか「たくさんの批判にも打たれ強い」だとか、そんなふうに見えるかもしれない。
見当違いもいいところだ。
それが今まで当たり前だからそうできるってだけだ。
かたや自信。
この自信とか言う得体のしれないバケモノの重さは、慣れ親しんだ失敗や無力感に比べて桁違いに重い。
ひとたまりもなく潰された。
そしてもう一つ、俺を叩き潰したものがある。
これまで積み上げてきた、17年という年月だ。
この17年という重荷を、今までどうやって支えていたのかなどもうわからない。
ともあれ、今まではなんとかしてこの重みに耐えてきたわけだが、今回の敗北でその支えが崩れ、一気に17年という重荷が俺を潰し殺した。
この先生きていくには、もう心を殺し尽くして何も感じずに生きていくほかない。
ただ、殺す心がまだ残っているんだろうか。