ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

東海道、亀山宿から関宿へ2

2019年11月15日 21時00分00秒 | ウォーキング

今日は今頃は帰宅の
飛行機のなかでしょう。
楽しかったかな、石垣。
もう少しでこの秋最大の
旅が終わります。
では亀山の続きです。

ーーーーーーー

いかにも昔の山道のような感じの
経路でつけられた道を、
頑張って登っていきますと、
ちょっと広い感じのところに出ました。

おお~これです。



東海道五十三次亀山宿の案内の
石碑が置かれていますよ。
このあたりが、





たまり坂と呼ばれるところで、
城見庭園といわれています。



目の前には城の外堀である
池の側が見えています。
そして足元を見ますと、
マンホールのふたには
城のようなものと市の花である
「はなしょうぶ」が書かれていますねえ。



その城の亀山城多門櫓も
見えてきます。



あそこまで登っていきましょう。

途中、飯沼慾斎生誕の地の石が
建っていましたねえ。



江戸時代の医者で本草学者。
まあdoironの趣味から見れば
彼の残した草木図説は
見てみたい著書ですねえ。



昭和の始めに牧野の図鑑が
出るまでは日本の植物図鑑としては
最高のものでした。

旧来の本草学から植物学へと
進化させていったのは
この人でした。

そんな旧来の科学から
今の科学へと進行させていった
学者の一人の飯沼氏は、
この下の東海道の近くで
生まれていたとのことです。

さあでは右手に亀山市役所を眺めながら、



コースは左へと曲がっていきます。



そこが亀山城の残っているところです。



マンホールにも書かれている
多門櫓へ登っていく石段がこれ。



上に上がると景色がよく見えますねえ。
でも櫓の中には入れるようには
なっていません。

下に降りてそのあたりを
ぐるぐる回ってみましょう。



これがお城の楠門跡ですねえ。



大きな石が二本にょっきりと
建っていました。

そしてこれは「与助井戸」
といわれる井戸の後です。



本丸で使用していた井戸といわれ、
ここの「与助鍛冶」を
場外に移したところから
こんな名前で言われています。
この井戸には場外への抜け道もある
とのことですが、確認はされていません。

さて、この亀山城の城主は
どうだったのか。

順を追っていきましょう。

まず最初にこの城を築いたのが
1265年に伊勢平氏の
流れをくむ関実忠でした。

関氏が何台か続いた後、
織田信長の伊勢侵攻以後は
蒲生氏郷、岡本義勝が城主となりました。
その後この城は伊勢亀山藩主の
居城となったのです。

ここ亀山は東海道の要衝
ということもあって、
城主は多くが譜代大名で、
本多氏の後石川氏が入城後は
明治まで城主を務めたそうです。

ただし、城の取り壊しの名を
受けた堀尾氏が丹波亀山城と
勘違いしてこの城の天守閣を
壊しており、それ以降は
天守は再建されていません。

残った石垣なんぞを眺めながら、
城跡を出ていきます。

横には今は亀山神社がありますので、



ここものぞいていきましょう。
静かな神社でしたね。



境内には「宝篋印塔の基礎部」は
本丸の石垣の中に
あったものだそうです。



碑文は一面にのみ刻まれており、
市内では最古の石像品とされているそうです。

この城跡の一角には
子どもの公園も隣接されています。



国鉄が100周年を記念して
ここにSLを置いたんだそうです。



そんな施設も併設されているのですが、
さすがに亀山は侍関係というより、
東海道の宿の町ですねえ。
あまり充実した様子はありません。

では再度山の下の方に降りて行って
地元の町を歩いていくことにしましょう。

亀山城西の出丸跡や



櫓の後を見ながら



街の方に下っていきます。

でもこの時に経路を
間違えましたねえ。
降りていったところは

「京口門跡」でしたから

亀山の西の入り口です。
もう少し東の方に出て
街道筋を歩きたかったのですが、
まあ今回は関まで向かっているので、
次の機会に歩くことにしましょう。

で、その京口門跡なんですが、
地形上から高いところに
道が続いています。

下を見たら幼稚園の子どもたちが
大勢散歩していました。



続く



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