ちょっと一服
今朝の朝日(01/12)の道内記事「北の文化」において、啄木の釧路における足跡を北畠立朴(釧路啄木会会長)が『啄木の北海道漂泊一年』と題して簡単に書かれていました。
啄木が1907年5月5日に来道(函館に)して、1908年4月5日に離道(釧路から)するまでのうち、主に釧路時代について書かれており、歌碑の写真のキャプションに歌碑が二十数基あると書かれています。
読んでいて、2か月余りの滞在ですが、釧路市民のアイデンティティのひとつなのかもしれません。
啄木が22歳の1907年9月14日に、札幌駅近くの北七条西4丁目4の未亡人田中サト宅に、9月27日に小樽に向かうまで下宿していました。
昔日、高校の体育実技の時間に、体育教師がグランドに接している木造の古民家の一軒を指差して、あの家が啄木の逗留した家です、と。
当時、体育教師は全身筋肉でできていると考えていたことと、札幌駅周辺に逗留していたはずなのに場所が異なることから、印象に残っています。
1907年5月に母校が創設されましたので、教師の中で言い伝えられていたのかとも思いましたが、母校が開校し場所は中島公園の一角か周辺だったので、現在の場所とは異なります。
それとも、札幌駅に出迎えた向井夷希微か松岡蕗堂の家等であり、啄木が泊ったのかもしれませんが、想像の域をでません。
函館市宝来町の「茶房ひし伊」で、珈琲を飲んだことがあります。
この「茶房ひし伊」は質倉の内装を今風 (?)に改造して、外観に比べ雰囲気にちょっと嫌味があります。
昔日啄木の妻節子が通ったとの話が伝えられています。
立待岬に向かう途中に石川啄木一族の墓があり、佇むことなく通り過ぎたことがあります。
函館、小樽、札幌、釧路と駆け抜けた啄木ですが、其々の地で慈しまれています。
これは、北海道の厚みと深みのない風土(実存的、歴史的、文化的な背景)を物語っているとも言えます。
(2012.01.12記)
今朝の朝日(01/12)の道内記事「北の文化」において、啄木の釧路における足跡を北畠立朴(釧路啄木会会長)が『啄木の北海道漂泊一年』と題して簡単に書かれていました。
啄木が1907年5月5日に来道(函館に)して、1908年4月5日に離道(釧路から)するまでのうち、主に釧路時代について書かれており、歌碑の写真のキャプションに歌碑が二十数基あると書かれています。
読んでいて、2か月余りの滞在ですが、釧路市民のアイデンティティのひとつなのかもしれません。
啄木が22歳の1907年9月14日に、札幌駅近くの北七条西4丁目4の未亡人田中サト宅に、9月27日に小樽に向かうまで下宿していました。
昔日、高校の体育実技の時間に、体育教師がグランドに接している木造の古民家の一軒を指差して、あの家が啄木の逗留した家です、と。
当時、体育教師は全身筋肉でできていると考えていたことと、札幌駅周辺に逗留していたはずなのに場所が異なることから、印象に残っています。
1907年5月に母校が創設されましたので、教師の中で言い伝えられていたのかとも思いましたが、母校が開校し場所は中島公園の一角か周辺だったので、現在の場所とは異なります。
それとも、札幌駅に出迎えた向井夷希微か松岡蕗堂の家等であり、啄木が泊ったのかもしれませんが、想像の域をでません。
函館市宝来町の「茶房ひし伊」で、珈琲を飲んだことがあります。
この「茶房ひし伊」は質倉の内装を今風 (?)に改造して、外観に比べ雰囲気にちょっと嫌味があります。
昔日啄木の妻節子が通ったとの話が伝えられています。
立待岬に向かう途中に石川啄木一族の墓があり、佇むことなく通り過ぎたことがあります。
函館、小樽、札幌、釧路と駆け抜けた啄木ですが、其々の地で慈しまれています。
これは、北海道の厚みと深みのない風土(実存的、歴史的、文化的な背景)を物語っているとも言えます。
(2012.01.12記)
コメントありがとうございます。
24日に、釧路市で没後100周年の記念行事が行われ、27基目の記念碑の除幕式があったと報道されていました。(2012.01.22朝日新聞)
生誕地盛岡市などでも記念行事が開かれるとも。
2ヶ月余りの滞在で、記念碑が27基ですか。
なんと表現したらよいのか、言葉がみつかりません。
彼女が寮生活をしていたところが北7条西4丁目で、大きな古民家はあったが明治時代の建物ではないと思うと話しています。
今年もよろしくお願いします。
啄木の札幌での逗留地は、ご指摘のように北7条西4丁目だと思います。かつてここには、北7条郵便局があって、その前に啄木がここに住んでいた旨を書いた看板のようなモノがあったと記憶しています。
現在は、北7条郵便局が引っ越したようで、そのような看板も無くなっていると思います。