邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

4・続倭地風土記

2011-07-28 | ●『倭人伝』通読
●倭地風土記(風俗、産物、生物、軍備、気候風土、寝食習慣、葬喪儀礼、海人信仰、天然資源、世俗信仰など) ◆その風俗は淫ならず。男子はみな露紒,木棉をもって頭に招く。その衣は横幅をただ結束して相連ね、おおよそ縫うことなし。婦人は被髮屈紒,衣を作るに単被のごとくその中央を穿ち貫を頭いてこれを衣る。 禾稲・紵麻を種え、蚕桑・緝績して細紵・縑緜を出す。その地に牛 . . . 本文を読む

5・魏使来訪時の周辺状況

2011-07-28 | ●『倭人伝』通読
●卑弥呼の周辺状況   「魏の使節が訪問した時には、すでに婚期を過ぎていたが夫はいなかった。男弟がいて彼女の政治を補佐していた。卑弥呼を王にして以来、彼女を見る者もいたが少なかった。侍女1000人を宮城に仕えさせていた。宮城には男子がただ一人いて、卑弥呼に飲食を供したり言葉を伝えるために、彼女の居処に出入りしていた。宮室・楼観・城柵を厳重に設け、武器を所持した者が日夜を通して宮城を守衛していた」。 . . . 本文を読む

6・魏の軍事支援承諾宣言

2011-07-28 | ●『倭人伝』通読
●倭国の朝献に応えて下された皇帝の詔書  「親魏倭王卑弥呼に詔を下す。帯方郡太守・劉夏が、部下に命じて汝の大夫難升米、次なる使者の都巿牛利を送り、汝が献じるところの男生口4人、女生口6人、班布2匹2丈を奉じて京都に到らせた。汝がいるところは遥かに遠いにもかかわらず使者を派遣して貢献した。このことは、私に対する汝の忠孝として、私は汝を大いに哀れむ。  いま汝を親魏倭王となし、その爵号を . . . 本文を読む

7・魏との交流経緯と国内紛争

2011-07-28 | ●『倭人伝』通読
●魏との交流経緯と国内紛争  正始元年、帯方郡太守の弓遵が、建中校尉の梯儁等を遣わして、詔書・印綬を奉じて倭国に詣らせ、これを倭王に拝假す。并びに詔を齎して、金帛、錦罽、刀、鏡、采物を賜った。倭王は、使に委ねた上表書で、詔恩に答えて謝す。  言葉や文章上の「授け与える(授与)」は「假授す」で良い。だがしかし、皇帝の詔書と金印を本人に実際に渡すときは厳粛な授与儀式を伴うもので、そのシ . . . 本文を読む

8・卑弥呼の死とその後

2011-07-28 | ●『倭人伝』通読
●卑弥呼の死とその後  「卑弥呼がすでに死亡したので、大いに冢(封り土の墓)を作った。径しが100歩。殉じて葬られたが100余人。卑弥呼の後任に男王を立てたが、その男王に国中が従わず、さらに誅殺し合った。このとき、まさに1000人余りを殺した。  また同じように、卑弥呼の一族の女性で、13歳になる臺與を立てて王とした。これでやっと、国中の騒乱が治まった。張政らは、文書をもって壹與に告げ諭した . . . 本文を読む

●前人未到の道を行く 

2011-07-28 | ●邪馬台国訪問始末
 長々と前置きを展開してきたが、いよいよ本格的な行程読みに入る。  正攻法で、『倭人伝』のいう通りに進めば、そこにはいったい何があるのか……。  邪馬台国研究史上、かつて前例のなかったことを試みる。 ❶狗邪韓国へ  「帯方郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経て南行し東行すると、倭の北岸の狗邪韓国に到る。ここまで7000里余りである」。    先に朝鮮半島の倭の存在 . . . 本文を読む

続・前人未到の道を行く  

2011-07-28 | ●邪馬台国訪問始末
❻不弥国へ  「東行、不弥国に至る。100里。官を多模と言い、副を卑奴母離と言う。1000余の家がある」。  佐賀市の東部には諸富津・浮盃新津・寺井津などの津が古くから存在した。奴国に比定した佐賀市から水路と佐賀江川を利用して東へ向かい、ここから船で筑後川を渡る。佐賀市から約7km。渡った先には城島町の環濠集落が控える。ここが不弥国で、筑後川河口を固めた砦型官衙集落の一つである。   . . . 本文を読む

●邪馬台国へ

2011-07-28 | ●邪馬台国訪問始末
●不弥国から邪馬台国へ  「 南、邪馬壹国に至る。女王が都とする所である。水行10日、陸行1月。官に伊支馬がおり、次を弥馬升と言い、次を弥馬獲支と言い、次を奴佳鞮と言う。7万戸ばかりある。  女王国よりも北の(邪馬台国に至るルート上にあって立ち寄った)国々については、その戸数や道理を略記できるのだが、その他の各国は郡使が立ち寄ることがなかったり、あるいは遠く隔たっているなどの理由か . . . 本文を読む

鞠智城の謎

2011-07-28 | ●邪馬台国訪問始末
●謎の抽出と整理  これまで述べてきたことを整理すると次のような問題点が明らかになる。 ①難波宮の2基セットの8角殿は三重に柱を巡らせ、重層の楼閣風建築である。建築構造は掘っ立て柱構造で、屋根に瓦を用いない古来の建築様式によるものである。 ②鞠智城跡では2基セットで、時代の異なる合計4基の8角楼閣跡が見つかっている。鼓の音で時を知らせたり見張りをするための鼓楼として復元した . . . 本文を読む

●陸行を続ける

2011-07-28 | ●邪馬台国訪問始末
 ここで面白い試みをしよう。実に意外なことが見えてくる。 ●隈のつく地名 ①福岡県糸島半島/赤隈、松隈、丸隈山 ・福岡県福岡市/道隈、七隈、干隈、田隈、月隈、金隈、雑餉隈、西隈、丸隈 ・福岡県甘木市と夜須町周辺/隈、篠隈、乙隈、横隈、小隈、山隈、今隈 ②大分県日田市/月ノ隈、星隈、三隈 ・大分県玖珠町/大隈 ③佐賀県大和町と神埼町周辺/中津隈、西隈、鈴隈、帯隈 . . . 本文を読む

●邪馬台が見える

2011-07-28 | ●邪馬台国訪問始末
 それでは緑川流域をさかのぼってみよう。  川尻町の中州に注ぎ込むところから加勢川と緑川に分岐する。緑川は次第に南にそれるように流れ、中流部の城南町北部で御船川と分岐する。  加勢川は中流部で北へそれて江津湖を形成する川となる。その流れをたどっていけば、水前寺公園の湧水地にだとりつく。ここが加勢川の源流なのだが、川の源流たる遊水池が市街地の真ん中にあるのも珍しい。加勢川は、江津湖への流れとの分岐 . . . 本文を読む

●狗奴国と投馬国

2011-07-28 | ●邪馬台国始末
●狗奴国と投馬国  九州には3つの特徴的な盆地がある。それが、日田、人吉、都城である。ともに、大河川の上流部に位置している。大河川上流部の盆地は優良地で、勢力の強い豪族や王族に与えられる。したがって、この3つの盆地が有力国として『倭人伝』に書かれている可能性は非常に高いものがある。  面白いことに、海と河川と盆地の関係構造も非常によく似ている。たとえば人吉盆地は、球磨川の上流部にあって河口部に八代 . . . 本文を読む

●現代に息づく古代名

2011-07-28 | ●邪馬台国始末
● 狗古智卑狗  私は、卑弥呼と卑弥弓呼の血縁関係の有無と、狗奴国の参謀・狗古智卑狗の存在こそが、邪馬台国研究あるいは『倭人伝』解読の最大の謎と考えている。卑弥呼と卑弥弓呼が血縁縁者である可能性については先に触れたので、ここでは狗古智卑狗について触れることにする。  狗古智という名称が、古くから久々知と呼ばれた土地と関係がありそうなことは誰にも分かる。どうやら狗古智卑狗は、ククチという地名がついた . . . 本文を読む

●装飾古墳が物語る東遷

2011-07-28 | ●邪馬台国始末
●装飾古墳が物語る重大事実  九州に装飾古墳が展開し始める5世紀前後の時期は、日本列島では一大転換が起きている。 ・近畿地方に大古墳が造営される始める。(4~5世紀) ・近畿地方に鉄器が本格的に普及し始める。(4~5世紀) ・沖ノ島祭祀に近畿方面から大和政権が参加する。(4~5世紀)   すべて4~5世紀を境目にしている。これらと九州に装飾古墳が展開し始める時期と、大和に統一政権が登場する時期とが . . . 本文を読む

●装飾古墳と九州倭人

2011-07-28 | ●邪馬台国始末
 私の『列島支配一元論』によって導き出された「東遷説」を、意外なようだが九州独特ともいえる装飾古墳が黙して証言しているので、ここではとくにその点について触れる。  古墳時代の5~7世紀になると九州には独特の装飾古墳文化が展開する。装飾の手法には、浮き彫り、線刻、彩色の3手法がある。初期は浮き彫りが石棺の蓋や内側・外側に彫刻され、やがて赤色以外の色が使用されるようになる。(横穴式古墳は入り口の壁面 . . . 本文を読む