ドドンパ和也&ラッキーの湘南花鳥風月

ドドンパ和也が、湘南逗子での四季折々の日々の出来事を徒然なるままに書き綴るページ。

1554, 新大久保今昔物語

2011-06-04 09:15:40 | 日記
昨日も書いたが、新大久保に行って来た。

昨秋にも、行ったが、その時は、新大久保の街を
ゆっくり散策する事は無かったが、
今回は、新大久保在住25年の友人宅に泊まったので、
金曜の夜の新大久保を色々散策した。

僕に取って、新大久保と言う街のイメージは、30年くらい前の
僕の大学時代は、連れ込みホテルや連れ込み旅館の街と言うイメージだった。
でも、実際には若い時には、新大久保は僕には無縁の街だった。

その後大学を出て、僕が音楽業界に入ってからは、
新大久保には、ジ・アルフィーなんかが良く使っていた、
フリーダムスタジオと言うレコーディングスラジオがあったので、
レコーディングの仕事で、たまに、この街には来てたが、
やはり余り縁は無かった。

そして月日が流れ、今から17、8年前の僕が35歳頃、
当時、僕がマネージメントしていたミュージシャンのライブの仕事で、
新大久保のJAZZ CLUBに良く行っていたので、
新大久保にはかなり頻繁に来るようになった。

先述のミュージシャンの友人が新大久保に住んでいたので、
彼の家に泊って、夜の新大久保を良く飲み歩いた時代だった。

その頃の新大久保は、元々連れ込みホテル街だったせいか、
外国人売春婦が街中に溢れているいかがわしい街だった。

新大久保のメインストリートである、大久保通りのガードレールには、
中国人や韓国人の東洋系の売春婦が10mおきに腰掛けていて、
通り過ぎる男達ほぼ全員に、「シャッチョウサン!マッサージ、ドウデスカ?」
と声を掛けていた。

無論、本当はマッサージでは無く、売春の誘いである。

そして、当時は毎晩午後7時になると、警察の対売春婦の
一斉見回りが行われていたので、街中に溢れていた売春婦が、
その時間帯だけは、一斉にどこかに消え、警察の見回りがおわると、
巣穴から這い出して来る虫のように、又、通りに出て来たものであった。

新大久保の売春婦はちゃんと住み分けをしていて、
先述したように東洋系の売春婦は表通りの大久保通りをテリトリーとしていたが、
コロンビア人やブラジル人の南米系の売春婦は、
大久保通りから、ちょっと外れた裏路地をテリトリーとしていた。

ちょっと裏路地に入ると、それはもう驚くくらい大勢の
ラテン系の売春婦が居たものである。

彼女達の多くは、日本人男性が金髪好きだと言う事を知っていて、
皆、一様に髪を金髪に染めていた。

そんなエリアに在ったJAZZ CLUBに、良く仕事で行っていたので、
その行き帰りに、僕も何百回とラテン系売春婦に声を掛けられたものである。

当時そのJAZZ CLUBは、雑居ビルの1階にあったのであるが、
その雑居ビルの1階には、もう1つ店舗があり、それは狭いBARだったのだが、
そこは、くだんのラテン系売春婦の待機所になっていて、
いつも胸元を露わにした売春婦が何人も待機しており、
客からの呼び出しの電話を待っていたものである。

そして、その売春婦を取りまとめていたのは、南米人では無く、
どういう訳かイラン人とかのアラビア系の外国人であった。

当時、新大久保には暴力団事務所も多かったので、
当然、外国人が売春をやっているとトラブルが多かったので、
南米系売春婦の用心棒をコワモテのイラン人がやっていたのであるが、
彼等の上着のポケットの内側には、時折、ピストルが見え隠れしていた。

そして、そのJAZZ CLUBのマスターが、ある日の夕方、
店を開けようと、店に出勤して来たら、見知らぬ男が店の入り口の前で
倒れていて、死んでいたと言う、とんでもない出来事もあった。

又、そのマスターが新大久保のサウナに行った時の話であるが、
そこが、ホモが集まる事で有名なサウナだと知らなかったマスターは、
夜中までの店の仕事を終え、疲れを癒そうと、そのサウナに行き、
汗を流した後、仮眠室の簡易ベッドの上で休憩している内に、
仕事疲れで寝てしまったそうである。

そして、何か股間がモゾモゾする感触で目を覚ますと、
見知らぬサウナ客の男が、マスターのイチモツをまさぐっているではないか!
マスターが驚いていると、その男は、「頂きま~す!」と言って、
マスターの上に跨って、マスターのイチモツを自分の体内に
挿入しようとしたのである。

京都出身で、一筋縄ではいかない、このマスターが大人しくなすがままに
なっている訳も無く、そのホモ男は、マスターにボコボコにされたそうである。

又、色んな国の人が屋台を出す百人町屋台村には、
密輸バイヤーが集まるので、テレビの報道番組で、
報道された事もあった。

その放送を見ていたら、シリアスなトーンのナレーターの、
「ここにはアジア各国の麻薬密輸業者が集まって密談を交わしている」
と言うナレーションに乗って、隠しカメラが屋台村の中を、
グルリ一周パンして映しだしていたのであるが、
そのカメラが写しだした客のアジア人らしき人物の中に、
僕の幼馴染のファンキー末吉と、JAZZピアニストの進藤陽悟が
映っていたのには笑った。

確かに2人とも、怪しい東南アジア人ぽいルックスだからなあ(笑)。

ちょっと昔の新大久保の思い出を思い出しただけでも、
こんなにヤバイ話がボロボロ出てくる街だったのである、昔の新大久保は。

それから、あまり新大久保に行く事も無くなっていたので、僕の中には、
新大久保⇔いかがわしい街、 と言うイメージがいまだにあった。

だから、最近、僕の双子の娘の2人共が、K-POPにはまっていて、
K-POPアイドルのグッズを扱う店が多数有る新大久保は、
娘達に取っては、原宿の竹下通りよりはるかに魅力的な「聖地」らしく、
時々、逗子から遠路はるばる新大久保まで出掛けていっているのであるが、
帰りが夜になったりすると、僕は心配していた。

しかし、先週末、じっくり新大久保の街を歩いてイメージが一変した。

昔も韓国系の店は多かったが、他にも中国系であったり、
マレー系、タイ系等々、多国籍な街だったが、
今は、圧倒的に韓国系の店が多く、完璧なコリアンタウンと化していた。

それも、昔のような中高年のオッサン相手の、韓国人ホステスが居るような、
コリアン・パブでは無く、女子大生同士でも安心して入れるような、
健全で安価な韓国料理屋がほとんどである。

昔、あれほど溢れていた売春婦も皆無で、ここに住んでいる友人も、
売春婦なんて、もう何年も見かけていないと言っていたからもう居ないのであろう。

路地に入ると、いまだにラブホテルがあるにはあるが、
それは、他の下町のそれと同程度の数であり、特筆するほどの数ではなかった。

一夜明けて、友人と昼食を食べに、再び新大久保の街に出てみたら、
韓流スターやK-POPアイドルのグッズショップが営業している時間だったので、
街中にそれら目当ての幅広い年齢層の女性が溢れかえっていた。

韓国料理屋も、中には大行列の店まであった。
新大久保で、そんな食べ物屋を見たのは初めてである。

僕がしばらく行かない間に、新大久保は売春婦が溢れるいかがわしい街から、
韓流スターやK-POPアイドル人気に支えられた、健全なコリアンタウンに
変貌していたようである。

冬ソナから始まった、韓国ブームもいつまでも続く訳では無いだろうから、
韓国ブームが去った後、今度は新大久保はどんな街に生まれ変わるのであろうか?


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