仙台ドクタークラブ(2004~2008)

仙台市医師会野球部ホームページ
(広報部編集)
2004~2008年の活動の記録

第26回 仙台市三師会親善野球大会 2005.9.4

2005-09-04 | 2005年 三師会親善野球大会
ドクタークラブ便り  第26回 仙台市三師会親善野球大会
とき 平成17年9月4日(日)
懇親会 於仙台ホテル
  
超大型の台風14号接近の影響で前夜から豪雨になった。ウエルサンピアのグランドは田植えが出来そうなほど水がたまっており、午前8時に試合中止が決定された。昨年は野球もカラオケも薬剤師会に優勝をさらわれたので、ドクタークラブは周到にリベンジの準備を整えたが拍子抜けであった。野球は中止でも懇親会は開催される。参加者達はユニフォームを箪笥にしまうと手持ち無沙汰で定刻を待った。

懇親会は午後6時から開かれた。今大会のホストである仙台市医師会の千田典男会長の開会の辞に続いて、来賓の宮城県歯科医師会の吉田直人会長、宮城県薬剤師会の生出泉太郎会長が紹介された。今回は特別ゲストとして、東北楽天ゴールデンイーグルスの法人営業部長・金田好生氏と関川浩一外野手をお招きしている。

金田氏は、今シーズン終了後、フルスタをさらに魅力ある空間に改築する予定があること、野球を通じて子供達に夢を与える活動を広げていくことなどを熱く語った。地域密着を掲げる球団の姿勢が伝わってくる演説であった。メインゲスト関川選手はチームの不成績を詫びたあと、来期は勝率5割とプレーオフ出場を目指すことを力強く宣言した。楽天イーグルスは前日、3連勝で36勝目(85敗1分け、残り14試合)をあげ、開幕前から囁やかれていたシーズン100敗を余裕で免れたのである。しかもルーキー一場が9度目の先発でようやく初勝利というおまけまでついた。スタンドはまるで優勝でもしたかのような騒ぎだったという。「シーズン100敗」は7月に初の月間勝ち越しをして一時立ち消えになったが、8月の3勝21敗で再び蘇った悪夢だったのである。関川選手もその試合、2打数2安打3打点と活躍、打率を0.291とした。3割も目前である。

次いでドクタークラブの生き仏、もとい生き字引、阿部精太郎が登壇。この大会の沿革について解説、また最近の3チームの実力を診断した。阿部は最後に、「関川選手はフライを捕るのが苦手ですか?」と鋭い質問をした。同選手は頭を掻きながら、「フライを見失った言い訳ではありませんが、仙台は霧が出やすく、さらにフルスタは照明の位置が低いので特に薄暮の時間帯は緊張します。外野手には難しい球場です。」と率直に答えた。フライは苦手ではないが好きでもないらしい。球団は照明の位置の変更も検討中とのことである。同選手は実に姿勢がよく、全身鋼(はがね)のような筋肉をしていた。スポーツマンらしい礼儀正しさで、記念撮影にも気さくに応じていただいた。本日新たにこのナイスガイのファンになった参加者も多いのではないだろうか。見掛けによらず人見知りをする佐藤(徳)監督であるが、本日は終始同選手の隣に陣取り、嬉々としていた。

 アトラクションのビンゴゲームでは、リーチのかかった者が続々と壇に登ったが、大半はビンゴ完成前に賞品がなくなり涙を飲んだ。恒例のカラオケ大会では、各チームの代表が持ち歌を熱唱した後、最後に関川選手が美人歯科医と「別れても好きな人」をデュエット。座の盛り上がりは最高潮に達し、ここでちょうど定刻となった。仙台歯科医師会の阿部洋一郎会長が閉会の辞を述べ、参加者はグランドでの再会を約し散会となった。司会を担当した医師会理事の阿部信一と浅沼孝和の熟練の運営が光った会であった。三師会の結束はより一層強まったと思われた。
来年はコスモスが風に揺れる中、青空の下を走り回りたいものである。

【 関川 浩一選手ヒストリー 】

1969年4月1日、東京都調布市生まれ。調布シニアで全日本選手権優勝。
84年 桐蔭学園高校1年時、3番右翼手として夏の甲子園に出場。3回戦進出。
87年 駒澤大学に進学し東都6大学リーグデビュー。(大学ベストナイン捕手2回受賞。) 
90年 日米野球出場。

91年 阪神タイガースにドラフト2位で入団。ポジションは捕手で背番号「21」。(当時迷走していた阪神とはいえ、捕手がエースの背番号「21」をつけるのは珍しいことであった。)ガッツがあり俊足で打撃も良い反面、盗塁阻止率は低く(94年0.125)外野手へのコンバート案が浮上する。
95年 1番バッターとして外野手に転向。この年は規定打席に到達し打率0.295の好成績を残すが、ときどき1番・捕手というスタメンもあったりして起用法が一定ではなかった。完全に外野手に転向出来なかったのは、当時の阪神が捕手難だったせいである。
96年 113試合に出場。打率0.314、本塁打2本、28打点、5盗塁。 
97年 吉田義男が3回目の阪神監督に就任した。吉田は関川を正捕手に決め、背番号も「21」から田淵幸一が付けていた「22」に変更した。「打てて走れる捕手」の期待をかけたのだが、正捕手のポジションと背番号「22」は重荷になったようである。投手のリードで頭がいっぱいになると、得意の打撃に精彩がなくなった。同年オフ、同僚の久慈照嘉と共に、大豊泰昭・矢野輝弘との電撃トレードで中日に移籍した。

98年 中日で背番号は「23」に代わった。(背番号23にはバファローズの北川博敏、ドクター・クラブ猪股紘行など、いぶし銀の選手が目立つ。)星野監督は関川を広いナゴヤドームに適応できる左の外野手として期待したのであり、これが大成功だった。中日には中村武志という正捕手がいたため外野に專念でき、打撃が向上。トップバッターに定着した。この年、打率0.295、1本塁打、36打点、15盗塁と活躍。

99年 移籍2年目は打率0.330(リーグ2位)、4本塁打、 60打点、20盗塁の好成績で中日のリーグ優勝に大いに貢献した。ベストナイン獲得。ところがダイエーとの日本シリーズでは完全に抑えられ、その影響か、2000年からは低迷が続く。2003年に規定打席未到達ながらも打率3割をマークしたが、2004年は福留孝介やアレックスの活躍で出場機会が減った。故障もあったが、チームが優勝した中、11打数無安打がその年の全てであった。そのオフ、新球団東北楽天イーグルスへ移籍した。

 2004年シーズン終了時点での プロ通算成績は1209試合、3472打数、993安打、 打率0.286、23本塁打、301打点 、77盗塁。身長178cm、体重76kg。右投げ左打ち。36歳。

通称「セキさん」。夫人は元テレビ東京アナウンサー。1塁へ頭から滑り込む姿は「世界一美しいヘッドスライディング」と称される。

2007年にはフルスタでオールスターゲームが行われることが決まった。野球の神が彼に有終の舞台を用意したのである。      (文責 宮地辰雄)