I’ll be dis-ABSOLUTER

ほぼ休止状態の不定期更新雑記
日々のつぶやきや情報などはTwitter ID:air_dmzilにて

style

2006-04-10 23:26:46 | Weblog(日記・総合)
一気に閲覧数やアクセスIP数が増えたからと言っても、ウチはウチのペースで、今日も淡々と更新w


それは舞い散る桜の---

今年の桜画像も、これにて打ち止め。
機会があれば、来年、桜の咲き始めた頃に、また。



都合により、昨日の記事に上げる事の出来なかった画像でも。
ちょっと所用がてら、遠出した先で立ち寄ったゲーセンにて、こんなモノを見つけてみたり---、

■ソーラーアサルト・リバイズド
いやまさか、こんな所で「ソーラーアサルト・リバイズド」の筐体に出会う事になるなんてw
個人的には、このタイトル自体にあまり思い入れは無いですし、プレイした記憶も1~2回あるか無いか程度でしたが、やや否定意見はあるものの「グラディウス」シリーズに数えられながらも、家庭用に移植されていないレアタイトルとして、認知だけはしていたり。
'98年に稼動していた「ソーラーアサルト・リバイズド」は、'97年にリリースされた「ソーラーアサルト」のマイナーチェンジ版で、言ってしまえば「3Dグラディウス」であり、システム面もそれを継承していて、微妙ながら、視点変更も出来るという仕様でした。
さて、とりあえず1回だけプレイして来たのですが、何処に当たり判定があるのかがイマイチ良く分からず、何とか3面まで進んだものの、障害物に当たって終了;
操作系に関しては、今回はパワーアップをAUTOにしたので、操作に専念出来た為、左程戸惑うことはありませんでしたが、なかなかバリアが張れなかったので、今度プレイする際は、MANUALでプレイしてみようかと。
…行ければ、の話ですけど;

ちなみに。
 ■AFTER BURNER
東京都内でこの2機が揃っているゲーセンならば、此処が何処なのか、おおよその予想が付く方もおられるのではないかと思われw


※以下の記事は、演出上、やや文章の表現を変えて投稿しています。あくまでも、演出上、ですよ。

---「原作を忠実に再現」という事が、その作品の評価にどのような影響を与えるのか?

そもそも「忠実」という単語の意味する所は、「少しの誤りやいつわりもなく正確である・こと」(三省堂提供「大辞林 第二版」より---というか、goo辞書より(いつもお世話になっております←営業トーク))であり、また「再現」というのは「もう一度現れること。また、もう一度現すこと」(三省…長ったらしいので以下同文)である事から、先の言葉が表すものは、要するに「原作を少しの誤りやいつわりもなく正確に、もう一度現すこと」というものになる。

ちなみに、ややシリアスな導入になっているが、この文章自体には、大した意味も無いので、以下に続く記事へのこじ付け、前フリ程度とでも思って頂ければ幸いである。

さて、とかく何かしらの原作付きの作品をアニメ化する場合は、まず最初に、この部分がどのように処理されているかによって、視聴者の評価が大きく分かれるのが常だったりするのであるが、原作に忠実であればある程、確かに原作に触れた人間からすれば、安心して観られる側面がある一方で、あまりに忠実過ぎるが為に、まるで原作のベタアニメ、或いは朗読劇という様な、酷な評価を下される場合もあったりする。

逆に、下手にアレンジをかけ過ぎれば、またそれも酷評に繋がりかねない為、この辺りの匙加減は非常に難しい所ではあるのだが、どちらにせよ、本当、あーすればこう言われ、こーすればあぁ言われ、全くもって視聴者は無理難題をおっしゃる---とは、何処かの仮面の赤い彗星さんのボヤキであったか…いや、アレは出資者だったか---。

もっとも、それ以前に、原作自体が面白くなければ、まずもってこういった評価対象自体になり得ないというのは、この際、置いておくとして。
更にそれ以前に、原作未読の方々には、そんな評価自体、縁遠いものではあるが---。

それでは今回取り上げる作品、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」はどうなのであろうか?
衝撃の第1話が放送されてから向こう、原作既読者、未読者問わず、賛辞感嘆驚愕拍手批判苦言酷評…などなど、賛否両論入り乱れていた訳であるが、その大半が「何故、あのストーリーを第1話に持って来たのか」という点に集中しており、作品自体の評価云々とはまた違う部分での論争に、このタイトル自体に向けられた期待の大きさの程度が見え隠れしているとも言えなくは無い。
そんな第1話を受けるカタチとなった第2話は、正に「原作に忠実に」ストーリーを消化・「再現」した構成となり、それこそ「今回のストーリーは、原作第1巻『涼宮ハルヒの憂鬱』、66ページ目、行間挟んで3行目まで」と明確に言い得てしまうほどに、忠実な再現だった。
キョンのモノローグ中心で進められる展開も、アニメという媒体上、不必要な、キャラクターの仕草や細かな動きは省略されているとしても、大半のシーンは大きなアレンジも無く、台本もまるで原作小説をそのままトレースした様な印象を受ける。
これだけならば「ベタなアニメ化」と評されてしまう恐れもあるが、其処は業界に名高い「京都アニメーション」と言うか、原作自体の持つ勢いや雰囲気とでも言うか、キャラクターが画面狭しと活き活きと動き回り、其処に声優陣の演技が花を沿え、明らかにクオリティの高い作画に、観る者を惹き付ける演出と、どれが欠けても決して成立しないレベルの作品が、ごく当たり前の様に目の前に提示される展開に、「ベタなアニメ化」などと評す事は出来ない、いや、出来るはずが無い。
ある意味で、見事なまでに「原作を忠実に再現」する事が、決して「ベタなアニメ化」に留まらない、その好例をアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」は示したと言っても過言ではないだろう。
やや、キョンの独り喋りがくどいと思われる方もおられるやもしれないが、其処は其れ、原作の雰囲気を活かした結果として楽しむ事こそ、この作品を観る上での前提と捉えてしまった方が勝ちである。

兎も角も、長々と回りくどく語ってきたが、結局のところは何が言いたいかと言えば---、
「涼宮ハルヒの憂鬱」は面白いアニメである、以上。