書道家Syuunの忘れ物

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歌「上を向いて歩こう」の歌詞に思う不思議さ

2012-01-22 12:42:04 | 読み解けば‥‥
歌「上を向いて歩こう」の歌詞に思う不思議さ

●最近なぜか「上を向いて歩こう」の曲がラジオ、テレビから流れることが多い。
ニュースを見ていたら大晦日の紅白で松田聖子親子も「上を向いて歩こう」だったとか。元々紅白を見なくなってどのくらい経つのか忘れた。
その昔で良く覚えているのは振り袖を着た19歳の吉永小百合が紅白に出たとき。その随分後で森山良子がアカペラで童謡を歌ったときぐらい。
松田聖子と神田沙也加がなぜ中継だったのかとか、持ち歌を歌わなかったのはなぜという批判もある。感じとして今は亡き坂本九が歌うのなら兎も角、松田聖子では坂本九の感覚には及ばない気がする。
この「上を向いて歩こう」というのは上述の亡・坂本九の持ち歌だが、これを初めて聴いたのがNHKの「夢であいましょう」だった。
たいして面白い番組でもなく、NHKらしく非常に薄味の番組だったがよく見ていたのには理由があった。
その理由というのは、他局が10時で番組を終了して砂嵐になってしまうからであった。
NHKだけが10時から「夢であいましょう」を放映して番組が終了した。
だから日本国旗と君が代を毎週見てテレビスイッチを切っていたのである。

●今上天皇の御成婚の時(昭和34年1959年)にテレビが普及したと言う話が多いが、テレビは高価でまだ持っている家は少なかった。
だから60年安保の放送はラジオで聞いたし、映像は怪獣映画を見に行ったときのニュース映像で何回も見た記憶がある。
こんな感じだったから「夢であいましょう」を見たのは昭和38年・1963年という東京オリンピックの前年である。
この昭和38年、東京オリンピックを見るために、10月一挙に日本中でテレビが普及した。
この年の11月日米間の衛星放送開始の日、ケネディ大統領暗殺事件をリアルタイムに近く見ることになった。
●ウィキペディアを見ると「夢であいましょう」の放映開始が昭和36年4月、「上を向いて歩こう」も昭和36年(1961年)と言う。
しかし、坂本九の「上を向いて歩こう」は昭和38年までほとんど聞いたことがない。
1960年前後は、ラジオも地方ではNHKしか入感せず、夜の9時には番組が終了していた時代でもある。
要するに坂本九の「上を向いて歩こう」と言う曲はテレビの普及と共に知れ渡り、ヒットした曲だと思われる。
なぜなら、坂本九の「上を向いて歩こう」はほとんどエンディングの曲として使われていたように思う。
ウィキペディアにも「毎月1曲、永六輔作詞・中村八大作曲による『今月のうた』が作られ、ここからたくさんのヒット曲が世に生まれ出た。中でも坂本九の『上を向いて歩こう』は大きな反響を呼び数ヶ月にわたって放送、大ヒットした。」 とある。

それてこの坂本九の「上を向いて歩こう」。
坂本九の裏声を少し効かせる歌い口だった。ところがその歌詞を聴いてさっぱり何を意味しているのか良く分からなかった。
失恋の歌にしては、女性が出で来る事はないし感じさせない。そして歌詞自体単純過ぎて良く分からない。
しかも「一人ぽっちの夜」で冬の日に夜空を眺めて泣いている。
「春の日」「夏の日」「秋の日」‥‥
これを坂本九が歌うとほとんど歌詞の意味をなさないから不思議なものだった。
いずれにせよ、何を思っているのか分からない不気味な嘆きは少年だった頃には疑問としてか残らなかった。

しかし、後年になって永六輔氏はその言動から見てリベラルであり、「九条の会」の一員、死刑制度反対などの典型的な人物であることが分かった。
それと共にこの「上を向いて歩こう」の歌詞の意味が恋愛でも人恋しさでもないことが分かった。
それは何とソ連のフルシチョフのスターリン批判と60年安保の敗北による共産主義の幻滅が原因だったと言うのである。
泣きたかったのは「理想としていた共産主義」が理想ではなかった、幻想だったということなのである。
確かに、そう言われればやはり「人恋しさ」にしてはカラリとした歌詞だと納得するものであった。

●70年代のフォークグループ「赤い鳥」。
代表曲の「翼をください」。

「赤い鳥」とは「グループ名は鈴木三重吉の童話集『赤い鳥』からとった。(ウィキペディア)」とある。
しかし、70年安保の時 「赤い鳥」と聞いて童話集を知っていても童話集を思い浮かべる人はいまい。同じ項目に「赤い屋根の家」と言うのもある。
当時の学生なら「赤」即ち共産主義を現しているというのは感覚として当たり前である。
なぜなら学生運動で左翼、新左翼は赤い旗を使っていたし、ソ連、中国などの共産国の国旗は赤が基調であったからである。

そして「翼をください」。
この曲の気持ちが悪いのは当時の感覚として何を現すのかが直ぐに分かってしまうことである。時代は1970年の安保闘争の時である。
歌詞には、
今 私の願い事が
かなうならば 翼がほしい

この大空に 翼をひろげ 
 飛んで行きたいよ
 悲しみのない 自由な空へ

これが何を意味しているのかは実例がある。
それは、1970年3月31日の赤軍派による「よど号ハイジャック事件」である。
それこそ「テロリストには自由がない」日本から、「地上の楽園・北朝鮮」に飛んでいった。
北朝鮮の「地上の楽園」というのは今では笑い話だが、在日朝鮮人の帰還事業は、1959年12月14日からなんと1984年まで(ウィキペディア)続いたという。
ここでの実際の帰還事業というのは1965年くらいまでが中心であるという。
しかし、ハイジャック事件犯人が北朝鮮に亡命するくらいだから北朝鮮の「地上の楽園」の中身は過激派には知れ渡っていなかったと言うことである。

そして、歌詞をよく見ると
10年前の60年安保時代の「上を向いて歩こう」と70年安保時代の「翼をください」にはある共通点がある。

「上を向いて歩こう」

幸せは 雲の上に
幸せは 空の上に

悲しみは星のかげに
悲しみは月のかげに

「翼をください」

悲しみのない 自由な空へ

これは日本からの脱出、逃避を意味している。
しかし、「赤い鳥」ではない「青い鳥」(メーテルリンク)ではそうは書いていない。
要するに、彼らというのは「チルチル・ミチル」かと思うのも今ならである。

そして「翼をください」のウィキペディアを見ると今では学校の教科書に載っているという。

「教科書出版社の教育芸術社の橋本祥路が教科書に収録して以来、合唱曲として有名となり、1970年代後半から学校教育の場でもよく採り上げられるようになっていた。そのため、日本国内では老若男女誰もが歌える愛唱歌である。」

「翼をください」の本当の意味を知っている確信犯的な人たちによって種々の策謀が為されていることが分かる。
1970年代後半からの一時期、学校での音楽の時間に北朝鮮の国歌や国家礼賛の民謡を歌わせる授業があったと言う。
70年安保時代のフォークソングというのは今から思い起こせば妙なものばかりと言うものもある。

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ドクターシーラボ   今 私の願い事が
かなうならば 翼がほしい
この背中に 鳥のように
白い翼 つけてください

この大空に 翼をひろげ
飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼 はためかせ 行きたい

子供のとき 夢見たこと
今も同じ夢に見ている

この大空に 翼をひろげ
飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼 はためかせ 行きたい

この大空に 翼をひろげ
飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼 はためかせ

この大空に 翼をひろげ
飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼 はためかせ 行きたい




上を向いて歩う
涙がこぼれないように
思い出す 春の日
一人ぽっちの夜

上を向いて歩こう
にじんだ星をかぞえて
思い出す 夏の日
一人ぽっちの夜
幸せは 雲の上に
幸せは 空の上に
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら 歩<
一人ぽっちの夜

(口笛…)
思い出す 秋の日
一人ぽっちの夜
悲しみは星のかげに
悲しみは月のかげに
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら 歩く
一人ぽっちの夜
一人ぽっちの夜