アクエリアス期「蓮花のささやき」

暗闇を照らすー弥勒・魂・宇宙意識への誘い

自由(フリー)へ向けて。。。

2013-04-24 17:08:42 | メッセージ
あの人があんな目に遭った。 あの人がこんなことした。 あの人がケガを負った。 あの人がこう言った。

この「あの人の状態」はみんな自分の、「どんな目で」、「何を見ているか」を表しています。 誰かに起きた何かではありません。 自分のどんな目を通して意義付けしているかの現れです。 
そのことに対し出てきた自分の反応に気付き、自分が何にどんな定義付けをしているかを教えてくれているものです。 その人の行いに対し、何かを関連付けるクセや、過去を引き合いにし、色付けしてる「状態(自分の感情)の」現れです。

私達は目の前で起きている事に対し、自分とは関係ない・コントロールできない他人事と感じます。
今まではそれで片付いたようになっていました。
が、今起きているのは、自分の物事に対する見方の反映だということを、それぞれの人が認識するまで、最も効果的な方法がサポートされています。 「最も効果的なサポート」とは宇宙/地球視野からの表現ですが、、、。
「それぞれの人が気付くまで」段階が現れることになると思います。 


自分が周りにどう思われるかということを常に気にし、その事にがんじがらめになってる人。 仕事のし過ぎで自分にも周りにも限界がきてる人。 「奪う・奪われる」ことに対して罪悪感もしくは被害者意識を持っている人。 自分がこんな目に遭うのは、、と誰かや物事状況の影響だと思ってる人。 断ったら自分を受け入れてもらえないと思っている人。 この人はこういう人だ物事とはこういうものだと定義づけてる人。。。。 


最近の「ニュートラル」や「感情のフリー体験」記事にも意味含まれていますが、どれだけ自分の中にある枠組みを破壊し、自分を、相手を、状態を、自由にするかの練習なのです。
起きている物事や当事者にフォーカスする時代は終わっています。 それは「ない・不足」を起点にした過去にのっとったやり方です。

多くの人が、「お金の自由・時間の自由・選択の自由・心の自由・現実を作る自由・がない」という想いを根底に持っています。そのことがあらゆることを遅らせています。
この「ない・ない」思想がそのこと(自由がないと思っている自体)を更に強調する状態にしているのです。
人に対しても同じです。 相手に対して、色眼鏡で見ていればその事を協調した相手を見ることになるし、ステキと感じる光の目を持って相手を見ていればその事を協調した相手を見ることになる。 
全ては自分が自分に定義づけした条件で物事を見ているにすぎないのです。
そのこと事態にいい悪いはありません。物事はいつもどちらもはらんでいて、自分がどちらかに定義づけてるだけだからです。  単に自分がつけている眼鏡の形状です。 だから今自分がかけている眼鏡がどんな色眼鏡をしているのかに気付き、それ以外の最高の可能性を自分の中で広げていくのです。 その練習の為に現れてくれています。
 

 






















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祝福。。。

2013-04-11 16:00:30 | メッセージ
昨日一つ目のブログの補足です。

そういう世の中に「なっていく」のではなく、私たち一人ひとりが「していってる」のです。 全ての人が参加者です。
一人ひとりが真の自分に目覚めたとき、真に気持ち良い世の中になっていくのです。 それは何をしてるからえらい/すごいとかいう、目に見える状態とは関係ありません。  
逆もしかり、、、一人ひとりが悲観に暮れ何かに嘆いているとき、その波動が悲観の様相で広まって生き、世の中はいつまでも悲観に暮れます。
だから、一人ひとりがどんな精神状態でいるかが、ものすごく重要なんです。 

自分の中の戦争の気持ち(自分や誰かや何かへの戒めの気持ち)が薄くなっていくとき、「この戦争の気持ちはいらない」想いが百匹目の猿現象になり、戦争にまつわるあらゆる状況の中身に変化を起こすのです。
そしてそれは戦争という大きなものに限らず、社会や人間関係・状況や物や自分に対してなどあらゆることにおいてです。
どんな想いも百匹目の猿現象になります。 

自分への愛(自分のありのまま全てを肯定する)なくして、人や物や状況や社会・地球や自然を上辺でなく真正面から愛でることはできません。
自分以外を愛してるようにふるまっていても、自分の一番近くで自分の心の中を見てるのは自分です。 自分へはそのごまかしは通用しません。

全ては気付いて進展するためのプロセスで、そこに善し悪しは関係ありません。 私たちの命は進展したいのです。 何もない平和な状況でも満ち足りなくなるのです。 そこに「進展がない」と命が認識すれば、進展する為の状況を自らこしらえるでしょう。 だから全てが祝福なんです。
自分の中のあんな想いもこんな想いも、命が進展したい純粋な欲求です。
その欲求をどう叶えてやるか。。。 

何か辛さを感じてるとき、それはなにがしかをとがめる想いがあり、祝福せず否定してるときです。
この祝福を覚えると、自分のネガティブな様相の想いを「そっかそっか」と小さい子をあやすように、そんな想いがあったんだねと、スルーしてただ眺めることができるようになります。
映像を流すように、そうめん流しの流れていくそうめんを見るように、手を出すことなくスルーしていくことができます。
自分の想いのスルーが上手になると、人の気持ちや想いというものにも敏感に反応しなくなっていきます。 それは人に無関心になるのとは訳が違います。 格段に物事を・状況を・人を・自分を・社会や世界を・受容できるということです。

優しいおじいちゃんおばあちゃんが(想像する相手は人それぞれと思いますが)、自分のしたことに何もとがめず、ただ側で温かくニコニコしてくれてるのを、誰もが憧れを持ったことはないでしょうか。
スルーとは、あんな温かい「見守り」の状態です。 それは何も分かっていないのでも、何も感じていないのでもありません。 何があってもあなたは大丈夫という信頼です。 自分が自分を見守るのです。 この信頼が安心を生みます。
誰かがそんな見守りの存在になってくれることもあるでしょう。 でもその人はあなたにずっと付きっきりで居てくれるわけではありません。 あなたに付きっ切りでいてくれる人は、あなた自身だけです。 だからこんなに何度も何度も自分に目を向けるようなお話をさせていただくのです。

自分への愛(ありのままの肯定)があると、もれなく「大丈夫」がついてきます。 その「大丈夫」という確信/安心が勝手に体を弥栄に動かしていくのです。 自信や勇気・行動・決断という底力が、難無く自然に湧き出て生きます。  それが私たちの命の中にすでにあるものです。
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全てある

2013-04-09 13:30:16 | メッセージ
今日一つ目のブログ、書き出してみると内容が違ったものが出てきて、ああいった話になりました。
あの内容はおととし受信していたビジョンメッセージでした。

この所啓発的な内容が繰り返しでしたが、それだとどうしても過去や未来の心配などと切り離せません。
繰り返し変らない日常を望む意識、既成概念や世間の目・常識・他の人の立場になって考えることや、巷にだだ流しされているメディア・情報の真理と虚偽を見分けることができない、限定思考のボルテックスのままを打破する必要があるようです。

「ない・不足」を起点にした決心から「ある・満足」を起点にした決心へ。

今まで大小に関わらず、決心し移していた自分の行動様式の全て、そのあらゆることがみんな「ない・不足」という観点の判断の元で動いていたと思います。 もれなく無意識に、、、。

あれが足りないから、来年どうなるかわからないから、備えあれば憂い無しとばかりみんな危険信号には敏感に、ほとんど自動的に反応し、このことに麻痺していないでしょうか、、、。
私もあることをきっかけに「ない・不足」の観点からどう補い繕っていこうかずっと暗中模索状態でした。
その状況の為にやらなければならないこと、早急に決断しなければならないことがありました。 焦っていました。
急がば回れなのは分かっている、でものんびりはしていられない、、、。 その為に不本意なことも引き受けなければ、、、相手の立場も考えて、、、。 うん!?  確かに、大事な大切にしなければならない人がいます。 あの人のこともこの人のことも、、、。 なのに自分の芯が岩のようになるんです。 そして大事に考えなければいけない周囲の状況に違和感を感じる自分もいて、動けずにいました。 まるで自分の中の悪魔と天使がせめぎ合い、考えすぎてウンガーーーーーーーとパニック状態でした。
この時なぜか日常で、通常ではありえない不可解な「間違い」が2回起こりました。 あっ、また警告がきてる。 なんだろう、どの部分だろうと思っていました。 違う方向に行ってる示唆ですが、どれが違うのかあれかもこれかもこっちかも、、、考えるほどどれもこれも間違ってるように思えてきて、判断つかないどころかどんどん自分を客観視できないほど冷静さを失ってしまいました。  こんな時こそ思考を空ッポに。 どう考えてもカラッポにしてる状況じゃないけど、煮詰まったときほど日常のあらゆる義務感から離れてカラッポにしよう。
私がやるのは家から離れ、マントラと呼ばれる歌を、意識という小さな器から離れるまで歌い続けます。 そして自分の本音を引き出します。 自分にどんな想いがあり、どんな空気を読めばいいかの輪郭が見えてきます。(空気を読むことはうまく世渡りするには役に立つ方法ですが、それ自体が弥栄繁栄に繋がるものではありません)
この状態でもまだ小さな違和感がありました。 まだ何かあるぞ、という違和感です。
最近の様々なメッセージや信号・どんな部分に違和感覚えたか総括してみると、この「ない・不足」が起点でした。 ここが起点だと何があっても満足することはありません。 どんなに嬉しいことがあってもいっときの満足で終わってしまいます。そしてあらゆることに決心が揺らぎます。 この状態で何を選んでも何を決心しても、そして仮にいい状態(と思われる)になったとしても命が納得することはありません。

自分の中の「ない・不足」と思っていることの全てを「ある・満足」している状態に想像してみてください。
何度も何度も練習して下さい。 何度も何度も試して下さい。
自分の動機と思考が現象化していることを自覚して下さい。
今すべてあります。 この状態からの動機付けだけが弥栄えていきます。   


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自分に相応しく生きていますか?

2013-04-09 10:51:40 | メッセージ
反省は過去の記憶に基づくもの、過去のデータ。 今このとき、過去に由来したものは役に立ちません。

今、自分に相応しく生きているかどうか、そのように個人の精神が自立して生きているか否かのコントラストが見てとれると思います。 これからの時代は一人ひとりが全く個人的な目的や夢や目標というものを持ち始め、そこに邁進していきます。それに見合ったものを自然に求めるようになり、個人主義の様相を帯びていきます。
今まで通用していた既成概念は一切払われ、個人も企業も自立へと促されています。 そんな気持ちが目覚めてくると、人や社会から管理されることに違和感を感じ出します。
物の獲得・執着・蓄積にはだんだんと興味が薄くなっていき、どんどん気持ちも身の周りもシンプルになりだします。
結婚にも捉われがなくなり、役割や価値の一致や条件(好み)ということが大きく占めていたことも、精神の一致や体験の共有分かち合いという様相を帯びてきます。
お年寄りはお年寄りの場所へ、幼児は幼児の場所へ、学校は先生と生徒だけ、病院は患者の行く所、などはっきりセパレートしていた場に規制や既成概念がなくなり、老人ホームと幼児園が一緒になったり、独居老人の家への共同生活、シェアハウスの普及、学校へも地域の人だけでなくますますアスリートやスポーツ選手・ある道に長けた人からの経験のシェアとなり、人々は知ること・体験することへの自然な命の欲求に喜びを見出し始め、カルチャースクールなどの普及や芸術への関心が寄せられ、このことが心や精神をほぐしていきます。
学校教育は専門分野の勉強機関が出てきて、体験型・実践型となり、先生と得意分野ある人々との連携で運営、一人ひとりが得意とする分野の掘り下げができます。
日雇い労働や不特定多数の仕事の掛け持ちという仕事のあり方から、天職を見つける人も増えていきます。 労働条件も企業というタテと労働者同士のコネクションというヨコのコネクトで掛け合っていき、自分や他者のニーズと企業のニーズが話し合いで掛け合わされ、仕事に困る状況が緩和されます。
体育館や公会堂のような場所が開放され、様々な人が様々なものを共有していく空間になります。
物々交換が広がっていきます。
競争社会は技術や発展への高め合いの社会へと変っていきます。
地域的コミュニティはそれぞれの得意分野のコミュニティが出始め、そんな所へつどい、情報交換・伝達・補足・コラボといった捉われや義務のない気持ち良い交流が広がっていきます。
皆が喜びを選んでいくようになり、その喜びがどんどん広がっていき、与える喜びを体験していきます。
そうやって、みんなが自分に相応しい場と生き方の心地よさを味わう世の中になっていきます。
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ニュートラル(柔軟)に。。。

2013-04-05 18:46:27 | メッセージ
「良い方にも悪い方にもひたりきらない」記事でメッセージお伝えしていますが、どちらかに偏りそこに強い「想いのエネルギー」が加わる(集中/フォーカスする)ことで、結果的にますますそのことを長引かせています。
「こうなるはず」「こうあるべき」「なんでこうなの」「そんなのおかしい」「いつもこう」「またああでこうで」
このような強い否定的(戦争的)思考は自分の中で対立/対極関係を表しているので、結果的にその対立/対極関係を長引かせています。
そこに意識を集中させているので、その反対側、もしくは中立的な見方へバランスし、今までの2極化したものの見方・概念をニュートラルな状態へ戻す為に、不均衡が起きている視点を机上に挙げている状態なのです。
机上に挙がらないとそれが自分の中にあったことに気付けないからです。
自分に対しても誰かや状況に対しても「あれが良くない」「これが悪い」と魔者を作っていては、心の平和も世界の平和もいつまでたってもやってきません。 自分であらゆる限度・限界を作っている状態です。
「ニュートラル(柔軟に/捉われのない)」これはずっとこのところのポイントになっていました。
頭を柔らかくゆとりあるスペースを持たすには、体を柔らかくするという外的刺激も役にたちます。 瞑想アプローチでは脳を洗うイメージでリフレッシュしたりリニューアルしたりの変換の試みも雑誌などで取り上げられていますね。
体の柔らかい人は頭も柔らかい人が多いので周りを見渡してみると面白いですよ。

先日、鳥が体張って教えに来てくれていました。 その鳥に何か教えに来てくれてるという感じはしたものの、何を教えてくれているのか分からずにいました、その時何故鳥が来てるのか何をしてるのか自分への警告はなんだろう今私は何を考えていただろうなど、一瞬で様々な思考と感情をめぐらせていました。  そして、思考をストップしたらその合図はやみました。
「あっ、思考を使っていたな」と思ったものの、どのことをどのように示唆してくれているのかと考えていました。
「なぜ?」とか「なに?」を問いかけておくと、どこからかいつからか必ずその答えはフッとした時にやってきます。 利己的な問いかけでなく、関わる人や物事状況全てにとって宇宙的視野からの最善である問いかけであることが前提です。
そして答えが来た時、「あっ」と質問と答えが符合したのが分かります。 まるで「カチッ」とはまる音でもしたように、、、。

そして「祝福する」もポイントなんです。 特に否定的悲観的戒めな考えが浮かんだときこそ、そのことを、そう考えた自分を「祝福」するんです。 
祝福=自分を愛すること
このメッセージはまたの機会に。。。







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