崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

韓国は旧宗主国に対し反感が最も強い国だ

2015年08月16日 06時16分25秒 | 旅行
東洋経済日報(8月14日光復節特集)に寄稿した内容一部を紹介する。

  8月、原爆投下地の広島で集中講義.今年も広島平和宣言が発表された。戦争はA級戦犯など一部の軍人によってのみ行われたことだろうか? 積極的に戦争賛美はしなくても大多数の国民は肯定的に考えたことなのに敗戦になって自由民主主義者に変身したのではないだろうか。加藤(加藤周一)さんは疑問を提起した。 広大な土地に夢を広げようと満州に行ってみじめな終戦を迎えたのだ。日本国民の大部分は大東亜共栄圏建設に夢を持っただろう。植民地に適応していた韓国人も解放後には独立運動家のように反日主義者に変身した人が多いのもそうである。
 戦争史は今の日本人と断絶か継続か? 今の日本人には無関係なのか? 日本に謝罪を追求する中国や韓国にはどのように応じなければならないだろうか? ある日本の学生は日本人としてのアイデンティティを有しているので戦争の責任があると言う。中国からの留学生は戦前と前後は違うので責任は追求しないと話した。
 フィリピン人のラバヨ氏はアメリカの植民地は友情的だったから英語やアメリカの支配に対してそれほど否定的でないと言い。 パングラディシュのランジャン氏は植民地言語の英語は否定的、ベンガル(Bengal)語が尊重されていると話す。世界的に見れば植民地開発によって豊かになった国もあれば、貧困国になった例も多い。韓国は旧宗主国に対し反感が最も強い国である。



安倍晋三総理の談話

2015年08月15日 06時00分35秒 | 旅行
安倍晋三総理の談話が発表された。「首相」はプライムミニスターであり、閣僚の一人である。有識者会議など広く意見を収れんして閣議決定して出したものである。談話とは話し言葉である。論文などとは違う。話を文としたものではあるが手紙のようなものである。善意を持って聴き耳にするか,反省文を書かかせたような気持ちで読むのか、談話はそれによっても味が違う。路上インタビューなどではキーワードや文句が引用され部分的に聞かれていると感ずる。私は誠意をもって聞き、読んだ。文脈全体を要約すると次のようである。 
 
 
「大戦歴史の教訓、未来への知恵」西洋諸国がアジアにも押し寄せた危機感から独立を守り抜くために日露戦争、西洋の植民地化にブレーキがかかった。力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきであり、戦争は違法という国際的潮流が生まれた。しかし日本は戦争への道を進んで敗戦した。三百万余の同胞の命が失われた。原爆投下、爆撃、沖縄地上戦などで無残に犠牲となった。核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指す。中国、東南アジア、太平洋の島々などの地域で戦闘や食糧難などにより無辜の民が犠牲となった。痛惜の念と哀悼の誠を捧げる。
 民族自決を尊重し、武力行使は二度と用いてはならない。悔悟の念、痛切な反省と心からお詫びをする。戦後日本はアジアの人々の平和と繁栄のために力を尽くしてきた。引揚者、米国や英国、オランダ、豪州などは元捕虜の慰霊を日本で続けている。敵として戦った米国、豪州、欧州諸国の国々から、恩讐を越えて、寛容の心によって日本は、戦後、国際社会に復帰することができた。感謝したい。戦時下で女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、二十一世紀こそ、女性の人権は傷つけない。
 私たちの子や孫に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない。過去の歴史に世代を超えて、真正面から向き合わなければならない。国際経済を発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいる。自由、民主主義、人権といった基本的価値観を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、百年に向けて、世界の平和と繁栄に貢献していきたい。

  
 総理大臣は「我が国」、「私たち」として日本国民や世界の人々へ、戦争への反省と謝罪から新しい未来への覚悟を表現している。私としては新しい二つの視点がある。一つは敵として戦った国が戦後寛容に日本の発展を成し遂げるようにしてくれたことへの感謝である。多くの日本人はアメリカに対して被爆ばかり強調しているが基本的には感謝すべきである。日本の鬼畜米英から見て仇敵であった日本をいまも占領して大国にしてもしょうがないことであるが、独立国家として繁栄してきたことは普通のことではない。ソ連占領地で敗戦後の日本人が抑留、レイプされたことを想起すべきである。もう一つは謝罪を永遠に続けるべきかへの否定であり、平和の心を訴えたことは被害国からは物足りないかも知れないが、より深みのある意味を理解すべきであろう。侵略、継承、断絶などの単語ではなく、大意、真意を理解して平和の心構えをして欲しい。
 

私の人生は「綱渡り士」

2015年08月14日 05時41分22秒 | 旅行
花火が始まって、わがマンションの各ベランダから歓声が上がった。昨日の夏の空を飾る関門花火大会は雄壮であった。前夜まで風雨で心配であったが、猛暑の峠を越えたような涼しい夜空を楽しんだ。昼からノロノロ運転で訪ねて来た朴仙容氏がイワシのキムチ煮をもって大分県から来られた宇都聖一氏と一緒に訪ねて来た。続いて山陽小野田市役所の安重賢治氏が到着した。彼は2005年山口韓国語弁論大会の受賞者だと言う。当時私が審査委員長であったとリマインドしてくれた。花火が始まるまで時間があり、彼から拙著に関する連発の質問に私の人生の歩みを簡単に語った。初めて自分の人生が綱渡り大道芸人のようであることに気が付いた。
 片手に扇子を持ってバランスをとりながら綱を渡るような人生だったのである。落ちそうになって飛び上がり、失速と修正、立ち上がりの美しさに満足したと思いきやまた落ちそうになる、それの繰り返しの人生、私の人生は「綱渡り士」であった。綱渡りの話を夢中に語っている時に林楽青氏と前田看護師が着いた。お互いの紹介。家内の手料理と前田さんが持ってきて下さった各種海苔巻き、楽しく美味しい時間を過ごしている途中花火が上がり、全員ベランダへ、門司と下関の両岸から花火があがった。子供時の火遊びは、面白く危ないからやめざるを得なかったそれを満喫した気分。我が生まれ故郷の韓国の楊州では木炭の粉を縄に織り込んで河の上に張って、夜に燃やして楽しんだと聞いたが、実際は小正月のドンド焼きのようなものが一般的であった。火遊びの美化(?)、芸術の花火は日本文化と言える。それを真似して韓国でも盛んになっている。しかし、戦争中の照明弾などを体験した人にとってはまだ危険な火遊びに感ずるかもしれない。爆竹が盛んな中国の火遊びは怖い。その火遊びが日本の脅威になっている。

平和主義はやめてほしい

2015年08月13日 05時31分47秒 | 旅行
昨日は風雨で猛暑が一気に下がり私の部屋の温度計は日中24度を示した。今日は関門花火大会の日であり天気が気になる。昨夜プライムニュースで曽野綾子氏が「平和という言葉に疲れた」と言われた。大いに同感した。出演の西尾氏は平和はよいが、平和主義者は嫌だと言った。戦争中多くのメディアが戦争を賛美したのに平和の時には毎日「平和」「終戦70周年」で塗りつぶしている。メディアが言うように一般人がそれほど反戦平和意識が高く、それに集中しているとは言えない。私のことでいうと、広島大学大学院の主催で原爆シンポジウムをやったことがあったが市民は多く集まらず失敗であった。またメディアに多く紹介されている展示会に行って見てもそれを見ている人は極めて少なかった。今のメディアの宣伝もそれに似ている。メディアと市民意識のギャプは大きい。
 プライムニュースの終わりのところに元首相の鳩山氏が韓国の西大門刑務所跡で土下座をしたことを視聴者からのメールで紹介された。今まで韓国や中国が日本の植民地や戦争を一方的に非難して隣国間の国際関係を悪くしていて、終局的には日本の国民さえ怒り防衛的になっている。韓国人は喧嘩が好きなのに戦争をしない、戦争までは及ばない民族である。ドラマは夫婦喧嘩が必然的に出る。視聴者が好むからだと言える。そんなに喧嘩をするのであれば離婚をする方がよいのに長く結婚生活が持続される。喧嘩によってストレスが解消されるからであろう。韓国の喧嘩は戦争にならない。しかし日本人は我慢強く喧嘩をしないが悲劇的な事件や戦争になりうる。戦争においていうなら日本は怖い。昨日オーストラリア在住の韓国人の方から私の「日本研究者」署名に関して数多く非難の投稿があった。途中今村氏というFB友との論戦になり私が仲裁者のようになり理解してもらい最後には韓国人と友情の和解で平和になった。感謝である。日本は韓国と議論、討論、口論、激論して和解に至ってほしい。我慢、譲歩は日本人にも韓国人にもよくない。

4年目の「楽しい韓国文化論」

2015年08月12日 02時57分15秒 | 旅行
 昨日も猛暑の1日、留学生の部屋のクーラーが故障ということで村田氏に連絡して臨時処理をしていただくことになった。すばやい行動に関係者に感謝である。午後から私の研究室で10月から始まる「楽しい韓国文化論」の準備会を行った。今年で4年目であり、東亜大学東アジア文化研究所と下関広域日韓親善協会の共催で行うことになった。今までの蓄積を勘案して下関を中心としてネットワーク作りを目指すものであり、講師もその時一回だけ参加する人ではなく、一緒に和を作れるような人選となった。テーマは韓国の生活文化とし、初日には一般公開講演として岡山大学名誉教授の小林孝行氏による「日本の演歌と韓国のトロット」と李陽雨氏の「ヨイトマケの歌」(写真)をもって始めることとした。衣食住の講座に和仁浩明氏の「食文化」、小園喜代子氏と友松氏の日韓衣服の比較、亀松靖弘氏の日韓住居文化、崔吉城の「冠婚葬祭」、そして礒永和幸氏の「麗水と下関」を予定しており、その後、船で3泊4日の現地探訪旅行を行う日程とした。本欄を通して多くのブログやフェースブック友に、特に下関近郊の方々には参加を呼びかけたい。一緒に楽しい時間、和を作っていきたい。
 今政治的には日韓関係はよろしくない。韓国からは安倍総理、日本から朴大統領が悪いと言われている。一般人同士は悪くないという。一般人の私たちが和を持ってより交流を深め、理解し、受け入れ合うことによってトップや政治に影響を与えることができるはずである。本当に近い隣国、日韓の文化的相互理解は常に必要である。似て異なるのが日韓文化であリ、身近な生活文化の理解が必要と思われる。
 

私は右翼ではない

2015年08月11日 05時37分45秒 | 旅行
 先日発表された日本人研究者の声明文の名簿に私の名前が入っていることに「右翼に…」という非難が出ている。それについては若干弁明させていただきたい。私は右翼にも、左翼にも当たるかも、あるいはどこにも当たらないかもしれない。中立派と評価してくれる人も多い。声明には私の意志で同意したものであり、他の誰が入っているかはほぼ知らなかった。声明文の趣意だけ読んで署名した。私は政治的問題を扱うわけではないが、私の研究が政治的問題に接近しているのかもしれない。政治的イッシュを糧にして市場を持とうとする意図は全くない。(韓国)国文学科で韓国固有の伝統文化を研究した私が日本に留学の後、韓国の大学で日本学科に在職した時は難しい問題も多々あり、親日派と言われた。韓国の反日感情の表れであった。そんな中、私には日本の植民地を研究した辛い道のりがあった。当時日本植民地を客観的に発言することは全くダブー視されていて、危険であった。しかしそれこそ私は客観的な研究が必要だと考えて研究を始めた。朝鮮総督府が出版した資料を翻訳した。同時に植民地時代に日本人によって作られたいわば日本村を研究し著書を出した。当然批判と非難を受けた。反日運動は激しくなった。しかし私はその研究を続けた。以後他の研究者においても植民地研究が始まって今はブームになっている。
 非愛国的だといわれた。しかし私は陸軍士官学校で学生に愛国心を教えたこと、50歳まで予備軍大隊長の経歴もある。在日や海外韓国人が私を非難する資格があるのだろうか。私は非難に対して掛念せず日本植民地である韓国、北朝鮮、パラオ、旧満州、台湾、サハリン、東南アジア諸国、そして英国、フランス、オランダなどの植民地も広く調査を行った。結果的にいうと韓国が世界的に見て旧宗主国に対する反感が一番強いことが分かった。その反日感情が肯定的あるいは否定的に国際的関係に関わっている。非難されることには不快だが対応はしない。先日アメリカの大学の知人から電話を受けた。彼は韓国から基金を受けて日本を批判非難する本を出すといった。海外に住んでいる民族主義の韓国人学者の話を聞いて失望した。右翼左翼という言葉を終戦直後韓国で聞いたことがあるが私を「右翼だ」と言うのはとんでもないことである。

 나는 정치적 문제를 다루는 것이 아니라, 나의 연구가 정치적 문제에 접근한 것입니다. 정치적 잇슈를 가지고 시장을 가지려는 의도는 전혀 없습니다. 다만 내가 일본학과의 교수로 있으면서 식민지가 터부시 되어 있으나 객관적인 연구가 필요하다고 생각하여 처음으로 총독부 자료를 번역하고 일본인 촌을 연구한 저서를 냈을 때 비판과 비난이 있었습니다. 그러나 바로 이후 식민지 연구가 시작되어 붐을 이루게 된 것입니다. 친일파라는 말을 들었습니다. 그러나 나는 괘념하지 않았습니다. 일본 식민지인 남북한 사하린 팔라오 만주 대만 동남아시아 제국, 그리고 영국 프랑스 화란 등의 식민지도 돌아 보고 한국의 반일 감정이 세계적으로 보아 구 종주국에 대한 반감이 강한 것을 알게 되었습니다. 그것이 많은 긍정 부정의 국제적 관계가 있다는 것을 알고 연구를 계속하고 있습니다. 비난되는 것에 대해서는 불쾌하지만 대응하지 않습니다. 그런데 일전에 미국 대학의 지인으로부터 전화를 받았는데 한국으로부터 기금을 받아 일본을 비판 비난하는 문집을 낸다고 하여 해외에 살고 있는 한국인 학자의 태도를 보고 실망하였습니다. 우익 좌익이란 전후 한국에서 보고 들은 얘기로만 이해하고 있습니다. 나는 우익이 아닙니다. 양해하여 주시면 감사하겠습니다.

戦争責任

2015年08月10日 05時14分36秒 | 旅行
 広島大学での集中講義は楽しく終えて夜、下関の自宅に帰宅した。海辺のわが家には風があり、冷房せず熟睡することができた。昨日は朝鮮総督府が製作した映像「銃後の朝鮮」から植民地朝鮮において日本帝国への愛国心が強調されていたのを見せた。また日本帝国の北海への進出する映像「北進日本」、満洲での「開拓農村」映像などを以て自由討論を行った。弁当を食べながら私の平和へのメッセージをフィトニー・ヒューストンの「愛」(I always love you)の映像音楽を挟んで楽しむ講義、集中講義であっても集中しないような講義で皆が楽しかったと言う。
 しかし最後の討論は皆難しいと言った。日本の戦争に関して日本人のあなたは責任を感ずるかの問いであった。中国もベトナム、朝鮮戦争をしたので日本人だけの話ではない。私は過ぎ去った過去と「わたしego」とは断絶か継続かに論理的解釈を求めた(陸さん発言)。能勢さんは今、日中韓の葛藤などは戦争史の対立というより文化の差による対立ではないかとチャートを書きながら説明した。日本人としてのアイデンティティ(立川さん)をやめてグローバル化を前提にして世界人あるいは自然体の「人間」humanとして戦争をどう考えるかである。
 過ぎ去った日本の戦争は今の日本人にとって無関係無縁のものであろうか。縄文弥生時代の文化を日本の文化として誇りを持ちながらたった数十年の前の近い歴史とは無関係と言えるのか。日本人に謝罪を求める中国や韓国へ応じるべきであろうか。中国の司馬さんは戦争のような悪いものは継承せず、その中から教訓だけをいただく、その他の悪い歴史とは断絶すると考えた。戦争史さえ受け入れるならすべての歴史は必要となる。そこにフィリピン人のラバヨさんと中国のYuさんは戦争を忘れず、許す寛容を主張した(We can forgive,but never forget)。ヒギンボサムさんは自他の過ちに寛容でなければならない(We should not forget what we did, but we should forgive what they or we did)と言った。これから戦争が起きると自国を守るために戦争に参加するかには全員否定的で「逃げるescape」といった。私は「逃げる」の意味が「卑怯」であるか「正当」であるか(Erich Fromm, Escape from Freedom)。
 私の講義に楽しかったと、村上さんは「ただ話を聞いてメモをとるだけの授業はつまらなく、この授業を通して考えることの大切さを学びました。また、考えるというのはこんなに楽しいことなのかと初めて知りました。」ランザンさんとはバングラディシュを訪問する約束をして皆で記念写真を撮った。Thank you,Sensei! Salamart Po!(by Ceballo)

「大和撫子」

2015年08月09日 04時26分54秒 | 講義

今日は長崎に原爆が投下された日である。イノセント無辜な人を大量殺人したともいえる残酷なことである。その被爆の残酷さを英語式で表現するといくら強調してもし過ぎることはない(too~to)。しかし昨日の朝日新聞によれば博物館などで日本の「加害展示」はしないようにするという。戦争の敗戦被害を強調するのだろうか。第二日目の講義では慰安所の写真として最も頻繁に利用される中国武漢で撮られたこの写真を読み取ることからはじまった。学生たちには初めて見る新鮮さがあったようである。右柱の「聖戦大勝」とは?。特に「聖戦」イスラム国などで使われている恐ろしい自爆のジハードだけではなく、日本も「聖戦」と言ったのか。なるほど自爆はいま頻繁にメディアに登場する「勇士」の「特攻」であった。当時西洋から見た日本とは今世界から見るイスラム国のようであったのだろうかと想像する。
 左柱の「身と心を捧ぐ大和撫子のサーヴィス」とは何だろう。学生たちから鋭い質問や意見が多く出た。垂れ幕を立てた人は?、「身と心を捧ぐ」の主語は何だろう。今では足指マッサージの休息店のように感ずる。「大和撫子」とは今日本代表の女性サッカーの名称にもなった「日本人の女性」である。もしこれが宣伝看板のようなものであれば他の慰安所や遊郭つまり中国人や朝鮮人より日本人の女性の格が高いということを示唆するのではないかなどの意見が出た。卓見であった。当時ビルマの朝鮮人慰安所帳場人が自分の所を「慰安所」といいながらビルマ人の「遊郭」はきたないと書いていた日記を思い出した。日本人の慰安所をはじめその他の慰安所とサーヴィス営業の競争をしていることが文脈からわかる。「捧ぐ」とは慰安の「心」であろう。しかしサーヴィスは主にセックスである。セックスだけではなく、将兵たちを慰安する。朴裕河氏が言った「疑似家族」という機能ももっていたのかも知れない。このように延々と質問と答えが繰り返されながら講義はタイムオーバーになった。
 伯亜ホテルまで35度の暑さの中、大学校内を熱中症を心配しながら歩き、立ち止まって夾竹桃の花を一カットカメラに収め、講義が避暑であったことを実感した。

後期植民地

2015年08月08日 02時57分29秒 | 旅行
 新幹線で予定通りに着き、広大で9時に授業は始まった。私のコンピューターのコードが合わず戸惑った。受講生や聴講生は日本人、中国人、フィリピン人、バングラディシュ人などで英語、日本語、中国語など同時通訳が3グループ、日本語のレベル差もあって進度はやや遅らせざるを得ない状況であった。英語と日本語での授業になった。私が在職した時代に比べてはるかに国際化が進展しており、外川先生は国際協力研究科という名称が無用な感、大学全体が国際化になっているという。日本のナショナリズムの主要学科の国文学科さえ留学生が多く、国際化になっている。
 戦後の後期植民地におけるさまざまな植民地や戦争の遺産から世界をみるテーマとした。フィリピン人はアメリカの植民地や英語について否定的ではない、つまりアメリカの支配についてそれほど否定的ではない。しかしバングラディシュの学生は英語はインテリーの言葉であり、英語に否定的で、ベンガル語が尊重されていると言う。パラオ、台湾、アフリカなどでも植民地史にそれほどアレルギー反応はない。しかし日本に一番近い韓国の反日感情、英国に一番近いアイルランドの反英感情は極端に強い。それについてはアメリカなどの植民地はフレンドリー、日本の植民地は強制があった差ではないかと言う意見があった。植民地開発によって豊かになった先進国例えば南アフリカ、シンガポールなどがある反面、独立してから内戦などで貧困国になった国も多い。植民地が戦後の発展に肯定的にプラスになったか否に関しても議論した。中国の学生は植民地による近代化はなかったという。私は戦後の韓国に植民地による経済、教育などの影響を例にした。植民地遺産の影響に納得したようである。
 もう一つのテーマは広島の平和記念館や南京虐殺記念館を見た人がどうして平和な心を持てるかという問題であった。悲惨な被害状況をみて平和を考えるのは一つの解釈や理屈であり、素直な感情ではないだろうということである。それが私の実感であるからである。つまり本欄で時々言及したように戦争を以て平和を語ることが正しいのかということである。差別を教えながら平等を教えることなどは、むしろ差別を習うようになる気がする。戦争を持たずに平和な心を教えることはできないのか。ウームと考えてしまった。醜いものを以て美を感ずるのではなく、美を追求するように平和を追求するのはできないのか。根本的な問題に迫っていった。
 さらに問題になるのは、戦前の価値観が戦後に変わったように、今の我々の価値観は変わるはずである。例えば慰安婦問題を考えてみよう。若い兵士の性欲は無視してよいのか。慰安婦の人権と同様青年(軍人)の性欲は去勢、抑制、男子貞操を主張するのは人権の問題にはならないのか、また価値観が変わるかもしれない。強姦や売春は触った人が蔑視されるが慰安婦は英雄化されている。性を蔑視しながら人間は性関係によって子孫を繁栄してきたではないか。もっと熟考する必要がある。講義は今日も9時から始まる。学生たちの真面目さに驚く。

「被害イコール平和」

2015年08月07日 03時43分36秒 | 旅行
今日は広島へ。広島大学大学院で「植民地文化論」の集中講義が9時から始まる。終戦70がメディアを塗りつぶしているような今年、それも8月、その最高潮の昨日8月6日原爆投降地であった広島、そこで植民地を論ずる講義である。定年して10年、それでも講義を続けさせていただいている。大学院関係者の方々に感謝している。
 世界には多くの戦争の被災地がある。そこでは平和が意識される。広島や長崎などは平和都市として平和宣言が繰り返される。私は多くの被災地などで被害や被災が誇張されるような展示を見てきた。被害から平和を求めることは当然であり、「戦争と平和」は対照的なものであるがそこでは「被害イコール平和」となっているのではないかと思う時がある。被害を以て平和の心を教えるのだろうか、考えなければならない。
 平和を誇張するための「終戦70周年」という標語が挑戦的な行事となっている現象が多い。平和のための歴史認識と言いだし、口論が対立して東アジアの関係を危機に追い込むようではいけない。「和解のために」喧嘩をするのは世間の茶飯事ではないだろうか。私は平和は被害からの反省ではなく、平和の心を養うことから始めなければならないと考える。まず帝国主義や国民国家のナショナリズム、愛国主義を排除して普遍的な人間、動物を愛する教育が必要である。ある程度矛盾するが、愛国心の本質を変えなければならない。戦争の多くは国家ネーションステートによるものである。オリンピックなど国家間競争も最小限にする政策が必要である。国家は行政governであり、支配ruleではない。

『イスラム国とテロリズム』

2015年08月06日 05時25分36秒 | 旅行
佐渡龍己博士が『イスラム国とテロリズム』を出版した。彼が博士論文を書き始める時私はテロリズムとはそのテロ主体の民族や国家、宗教などを検討することに、つまりテロリズムの両面から見ることについて議論した。今度の本にはそれを強く反映していることが感じられた。イスラムやコーランなどとテロリズムを考察して、「イスラム・テロリズム国家は不滅」とも書いている。日本は今安保法案が課題になっているが、将来は戦争よりテロリズムがより大きい問題となっていく。心の戦争のようなテロリズムへ両方からの理解が必要である。
 植民地は時代と歴史の大きい事実であり、一言でいえるものではない。否定的肯定的な面を持っている。韓国では絶対収奪論が強く存在するが逆の論があってもよい。日本植民地によって近代化されたという見解は事実であり、非難することはあっても事実を否定することはできないと思う。また日本の侵略と植民地の否定的な面も事実である。それも否定することはできない。ただすべてを暗黒と表現するのは正しくない。その全体像をもって時代、社会を理解するのは当然ある。それこそ「さまざま論」的な論や意見がありうる。
 SAPIO9月号に日本植民地の統治によって韓国は近代化されたという私の文が引用されている。引用し、引用される時注意すべき点である。語録や本の一節を切り抜いて問題にする場合がある。それは私の植民地研究の結果をもって言った一つの見解であり、世間的な好き嫌いの意見ではない。引用文は私の研究からの一部であり全部ではない。全体図の中で部分図を指すものである。私の全体図の+-の一部の見解である。
 私の人生においては植民地より朝鮮戦争という悲惨な、嫌な時代があった。植民地から解放されて自民族間の朝鮮戦争と日本の植民地は対照的に私の人生の中で葛藤している。戦前の植民地と戦後の独裁政権が私の体中には共存している。朝鮮戦争の辛さからその前の時代を肯定的にも見ているかもしれない。

慰安婦「さまざま論」

2015年08月05日 04時45分39秒 | 旅行
 朝の下関港、李永松校長先生をはじめ15人の教員と学生を迎えた。長い間下関韓国教育院長を勤めながら教会の奉仕も大きかった李先生である。10人の小、中学校生徒は初めて日本に着いて日本人ではない私が最初に会う人となった。私の歓迎の話と日本人の家内の挨拶がより意味があっただろう。港から出発するバスに手を振ってから私の定期健診に行った。池田先生の芥川賞受賞の又吉氏など文学論を聞かしていただいた。医師は患者との対話を通して健康的な精神生活をもサポートするのに大きく影響すると思われる。感謝である。
 市立図書館に寄った。冷房が効き、図書や設備が整っており利用する人が多い。下関でいわば朝鮮人慰安婦狩りに関して警察関係の資料を読んだ。夜は朴裕河さんと日韓交流議員連盟長の河村建夫議員との8時から生放送のBSフジテレビプライムニュースを見た。慰安婦問題に関して幅広く多様な見方が語られた。先日下関に来てもらった講演会では議論できなかった部分が具体的に進行された。しかし日韓関係に関するところでは注意を払い、バランスをとろうとするようにみえ、「いろいろ、さまざま」になって見方は客観的という「観」も「さまざま論」となった気がした。研究がより掘り下げられることが必要であろう。自民党の河村氏は4人の総理が謝罪しても韓国の国民の7割が知らないということについて、朴氏はメディアが問題だという。日本の新聞なども戦前戦争賛美、戦後平和主義の傾向があった困惑のものである。しかし我々はそれらを通して情報を得らざるを得ないのが現実である。

「君死に給ふことなかれ」

2015年08月04日 05時27分17秒 | 旅行
 先日卒寿(90歳)を迎えた古川薫氏の『君死に給ふことなかれ』を読了した。古川氏の人柄や経歴などを知っており、自伝小説であることを知った。それについて著者が後書きに「この物語りは僕の私体験に基づいていますが、かなりの虚構を用いているので、あくまでも小説として読んでいただかなくてはなりません」と書いてある。著者の古川氏と同様主人公の深田隆平は1925年生まれ、主に太平洋戦争末期を描いている。軍国少年でありながら小柄な隆平は「火薬の臭いとともに育ち、疑いもなく軍国少年だったが、陸軍士官学校や海軍兵学校に進学し、職業軍人になるエリートコースを志願したり、飛行機乗りになろうと思わなかったのは、非力な体格を自覚していたからでもあった」(35ページ)。「神風」には劣等感のような感情を持っても空を飛ぶ夢をもって日立航空機羽田工場で働いた。劇的な時代に平凡な青年であっても徴兵されて「内務班」生活、挺身隊の女性と恋があり、自分がメモした「栄光ノ赤トンボニ祝福ヲ。武運長久ヲ祈リツツ本機ヲ誠心整備ス。羽田工場技師補・深田隆平」と書き入れた飛行機赤トンボに乗った特攻隊の兵士M・K氏から手紙が届く。玉砕が心に残り戦後墓参りに宮古島へ、そして終焉となる。
 英雄でなく平凡に生きてきた凡人が英雄のようにされる戦後、70周年の記憶はさまざまである。私も時々小説で自分史など書きたい時がある。最近朝鮮戦争の記憶について小著を上梓した。記憶のみで社会的時代的検証はしなかった。間違えているかもしれないが記憶のままにした。記憶はそのまま貴重だと思っているからである。この小説を読みながら読者も記憶と虚構がどう混ざっているのか気になるだろうと思う。おそらく恋や特攻隊などはフィクションであろう。それより全部をフィクションとして虚構と思うべきであろうか。フィクションの中の真実は何かに注目すべきである。過ぎた過去の価値観と今生きている現在の価値観は異なっていることであろう。今の価値観は過ぎ去ってから非難されたり、評価されたりするはずである。未来の価値観とは何だろう。それを問いたい。

「朝鮮人女子挺身隊」

2015年08月03日 04時16分50秒 | 旅行
今、早朝の4時代「ラジオ深夜便」で戦後70周年の放送を聞いている。テレビの番組にも70、70が多く、安保法案と合わせて異様な雰囲気、静かに反省する雰囲気とは違った謝罪をめぐる口論で戦争を煽るプロパガンダ性さえを感じている。広島に住んだときは年中被曝の話で聞きあきた感じだったが、8月は全国的にその話になろう。下関に住み『朝鮮人慰安婦と日本人』の著者である当時、大日本労務報告会の吉田清治が下関警察の佐々木刑事らと一緒に大坪当たりで1944年朝鮮人女性を100人募集したという記述についてに調べたいと思っていた。中国海南島へ慰安婦100人募集の命令を受けて、対馬の軍病院の雑役員として前渡し金20円、月給30円をもらう「朝鮮人女子挺身隊」として募集したが、111人が応募、年齢や健診などで落とし、100人、募集人数に合わせて出発させたという内容である。
 先日原田環先生からそれを検証してみないかと提案があった。励みになって昨日その中心地に建っている在日韓国教会に出席しておられ、古くから大坪辺に住んでいる高齢者の男女に慰安婦か挺身隊の募集について話を聞いた。老婦人は終戦直後の1945年9月に17歳で(韓国蔚山出身、現在87歳)下関に来て以来ずっと住んでいるが一切その話は聞いたことがないという。ただ小倉の崔昌華牧師が教会に来た時にその話をしたのでその時、初めて知り、メディアの報道などを通して知っているだけであるという。崔牧師は吉田氏の本の内容を語ったのだろうか。1953年から他地から18歳の時に下関に移り住んでいる男性は噂話にもそんな話は聞いたことはまったくないという。大坪辺から100人も募集したと言う事は記憶の忘却か沈黙か、噂にもならなかったのか、無実の話なのか。本気で調べたくなった。読者の方々に、これに関する情報を寄せてくださるよう願いたい。
  

玉音放送

2015年08月02日 04時27分57秒 | 旅行
 昭和天皇の玉音放送の録音原版が公開された。繰り返されても私はその言葉が日本語かも正確に聞き取れない。メディアは雰囲気だけ見せて本文の内容をきちんと説明してくれない、なぜか。私は1960年4月26日韓国の戦後の独裁者李承晩大統領のラジオ「下野声明」は今だに私の耳に残っている。それは民主主義の勝利宣言であった。それに比して玉音は敗戦、終戦、挑戦の雰囲気が高調しているように感ずる。口語訳を中心に声明文を読んで要約してみた。

時局を収拾しようと思い(非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ)ポツダム宣言を受諾する。日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たもの、米英二国に対して宣戦し、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民が最善を尽くしても戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており(敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ)惨澹たる被害が拡大する。
 戦争を継続するならば我が民族の滅亡と人類の文明をも破滅しかねない。私は愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したい。共同宣言を受諾(無条件降伏)する。私は国民の本心をよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、平和な世界を切り開こうと思う。私は善良な国民の真心を拠所、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、混乱させ、正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、強く警戒する。誇るべき自国の不滅を確信し、復興、総力建設に、正道を常に堅持し、世界の流れに遅れぬよう決意したい。国民は私の意をよく理解して行動せよ。写真430x306-51.2kB-終戦の玉音放送 焼け跡で耳傾け ...http://www.kyodo.co.jp/photo-archive/shuusenkinen/...

 
 これを読んで印象的なことは降伏宣言ではない。「ポツダム宣言を受諾する」を除いてはなんと決議声明文のように感じた。時局が非常なる時であって、これだけでも世界へショックを与えたラジオ放送であったことは言うまでもない。しかし今の時点では理解に苦しむところが多い。まず「善良な国民」向けの国内用の宣言であり、第2次世界大戦の降伏文としては足りないと思う。協力してくれた「同盟諸国」に対して申し訳ないと言っている。東アジア諸国の植民地や戦争に対する謝罪ではなく、あくまでも「帝國ノ自存」と「東亞ノ安定」「終始東亞ノ解放」のための戦争であったというのである。「謝罪」の対象は「代々の天皇の御霊」であり、植民地や戦地に向けていない。「敵」は残虐な爆弾(原爆)を投下、日本は被害国であるという態度をとる。「私は国民の本心をよく理解している。しかしながら…」では国民は「戦争を続けたいが」としている。日本は今でも心から降伏していないのではないだろうか。