崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

相反する8.15

2013年08月17日 05時13分32秒 | エッセイ
 猛暑が続くという気象予報が脅威のように聞こえるが、その峠が超えたのではないかと経験から思った。その通り昨夜は海辺の高層の我が家は肌寒く感じた。暑中、日韓で8月15日の相反する記念式を映像で見ながら複雑な気持ちであった。日本の「終戦記念式」とは異なって韓国の「光復節」の、それぞれ1945年8月15日正午の時間を歴史的に重要な時刻として共有している不思議な日である。「アラブの春」の国々では民主化がまだまだ安定せず社会的、政治的に混乱が続くように、日韓関係もまだまだ平和が定着してはいない。日韓のこのような相反する政治的な不安定の「歴史の猛暑」はいつ峠を越えるのか、失望感もある。東アジアでは国際化やグローバル化は無理であるように感ずる。鎖国や「入国禁止」の時代がむしろ良かったのように逆説的にも思うこともある。日本人や韓国人はまだまだ国際人になっていないので日韓関係がぎくしゃくしているとも思う。
 私は最近植民地と被植民地の間を生きた人に注目している。たとえばアイルランドのケースメント、南アフリカのセシール、フィリフィンのラザールなど。そして私の恩師の一人の尹泰林先生を思い出す(写真は1977年8月6日、先生は中央)。尹先生は植民地時代の京城大学を卒業して郡守、戦後には検事と弁護士、ソウル大学の教授として心理学を教えていた。当時私は先生の講義を受けた学生であった。私に英語の原書を貸して下さった。その頃、1961年朴正煕の軍事クーデターが起きた。先生は軍事政府の政策に反する講演をした。私はそれを聞いていた。先生は罷免され教授職が奪われた。警察留置場に収監された。しかし2年後の1963年文教部の副大臣、淑明大学総長を経て、慶南大学総長をしていた。私はその時慶南大学に職を得ることが出来た。先生の奥さんは韓国語を知らない私の家内を面倒見てくれた。先生から会いたいというお手紙をいただいてもいけないでいるうちに先生がこの世を去ったことを家内は今もとても残念がっている。先生は日本植民地と被植民地の間に正直、質素、勤勉の精神で一貫して生涯を貫いた。先生の名著『韓国人』(日本語)がある。

発作病作家

2013年08月16日 05時17分29秒 | エッセイ
韓国語訳者の金鳳英氏(写真の左)からいただいたドストエフスキーの妻のアンナ著『私の人生に幸福をもたらしてくれたあなたに(日本語題は回想のドストエフスキー)』を読み終えた。訳者の金氏が私の家に泊まっている間に3分の1位読んで、感想を直接訳者に披露していたが、昨夜家内には時々ドストエフスキーの夫婦の対話を私が声優のように読みあげて聞かせたりした。彼の命が消えていく時、死ぬ場面、人生の終息にはすでに夜も深く、悲しみと疲れで私の目も脆く渋くなった。この伝記はロシア語から英訳、さらに韓国語であり、いわば重訳であるので、専門的にはどうであれ表現が分かりやすく二重に文が洗練されているような重訳の良さが感じられた。
 45歳のドストエフスキーに25年下の20歳のアンナはサン・ペテルブルグの速記者として雇用されて、結婚し、作家の夫の実生活を記録したものである。この本は夫、妻、夫婦、内助の功などで読まれるなど多様な読み方がある。しかし共通の読み方とは自分の立場から読むことであろう。私は夫の作家の立場から読んだ。彼はてんかん発作の精神病を持っていながらも読書と旅行と思考を繰り返しながら常に創作への意思が連なっていることに感銘を受けた。その上彼は信仰を持って人を愛し、多くの人に愛され、尊敬された。その生き方から次々名作を生み出したことに私は感動した。
 アンナは偉大なる女性であり、「偉大なる愛妻」であると言わざるを得ない。てんかん発作病を持っている夫の賭博について彼女は夫がお金を賭けて夢中に賭博をし、負けると悔しさから創作への意欲をもやすのを見て見守るだけだった。年齢の激差から夫の嫉妬を招くような行動を自制する。実に偉大な夫を作る妻であると思われる。年表や年代記的に書く多くの伝記式の英雄伝を読む時の嫌気や独裁者が独占する「偉大な」言葉ではなく、実に猛暑の中に読んだ違大な伝記であった。

「主体思想」

2013年08月15日 05時32分56秒 | エッセイ
 昨日姜氏夫婦を人類学ミュージアムと角島大橋へ案内した。車内で姜氏に後ろからテープレコーダーを私の口元近くにして韓国文化人類学の初期活動についてインタビューされながら走った。10時過ぎに豊北町の人類学博物館についた。前回新聞記者と取材に来た時は不親切さを感じたのでまず客としてチケットを買い、弥生遺跡の実現展示を見ている時に学芸係長の吉留徹氏、学芸員の高椋浩史氏の二人が迎えに来てくれた。吉留氏は自己紹介で熊本大学時代に私の集中講義を聞いたといい、私は嬉しかった。高椋氏は骨からみた性別の特徴を説明してくれた。特に男女の身長、骨盤、耳骨などによって差を見つけるという。記念写真を撮り、野外展示をみて休憩室に入って、偶然に安倍総理大臣の奥様の安倍昭恵氏に会って、大学行事に招待したいということも含めて本当に短時間だったがお話もでき、記念写真を撮った。
 ミュージアムから角島は目の先のように近いのに渋滞でのろのろ運転、ようやく大橋を渡り、島を一周しても駐車場とレストランはどこも満員で入れず向かい側のホテルで高級昼食をご馳走になった。姜氏との対話やインタビューが長く続いた。姜氏は韓国の生涯口述史として資料集を続刊しているので参考にするようであるが、私は別に気をつかわず韓国の学問を総合的なイメージとして北朝鮮の標語の「主体思想」と表してしまった。ナショナリズム、国粋主義、それより強い意味であろう。アカデミズムと政治が分離されていないことを強く指摘した。「入国禁止」フォービドンカントリーforbidden countryの国際化の特徴をそのように表現した。時代は変わっても人の心は変わり難い。ショックが必要であろう。

関門花火大会

2013年08月14日 05時01分50秒 | エッセイ
姜信杓氏夫妻と朝の散歩がてら、猛暑の中、日清講和条約の場所である春帆楼と、赤間神宮などを廻って来た。姜氏は最近大腸、前立腺、手首など3回も手術を受けたにもかかわらずカメラとテープレコードをもってフィールドワークのように精査しているようであった。彼は名門家出身らしくジェントルで人の非難は一切しない、知っていながら言わない。本屋に寄った時、彼は本当に生涯学者の姿を見せるように立っていた。先週見えなかった川嶋氏の『竹林はるか遠く』が書店の店頭に20冊以上山積みになって並んでいて私は彼に説明をした。彼は韓国で非難されている情報も知っていながら「韓国人たちがそうしてはいけないね」といいながら購入した。私は彼に否定的なイメージの話は遠慮した。
 我が窓から見えるレトロ都市の門司港に車で廻った。門司港は関門花火大会の準備のために裏の車道が走れず、駐車場は満杯であり、しょうがなく窓から見える門司の港町の光景を私が少し説明し、下関に戻った。門司と下関を比べてお客さんを迎える準備が粗末な下関に戻って昼食をした。お客さんは車の中で途中、居眠りしていたらしく下関で食後に「ここが門司ですか」といい、爆笑になった。夜の花火には下関韓国教育院長である金氏夫妻と元下関中等学校の交換教員の呉信媛氏が加わって韓国語の談話で終始した。呉氏は現在姜氏の御宅と近いところに住んでいて良い隣人になれる紹介の場でもあった。話は姜氏と私の昔い話から、私が子供時に覚えた朝鮮飴を作れいう話も出た。姜氏の婦人はアメリカ人に朝鮮飴をあげてそれを食べた人が歯が抜けた話、私が「飴を食え」(悪口)ということばには爆笑、花火の爆音と合わせて賑やかな時間の間、愛犬ミミチャンは怖がって私に抱かれた。

三人の「内助の功」の話

2013年08月13日 04時22分24秒 | エッセイ
 韓国の有名な文化人類学者ご夫妻が訪ねてこられた。我が家のお泊まり「客」であり、「友」である。夫の 姜信杓氏は大学生時代からの友人であり、妻の金鳳栄氏は翻訳家文学者である。二人とも名門家で生まれ、ソウル大学社会学科出身であり、経歴多彩な著名人である。大病で手術を受けたすぐ後でも元気である。姜氏の父親は日本の拓殖大学卒で漢医として、日本との関係の深い方である。今「嫌韓な話をすると入国禁止の韓国ー禁じられた国」という冗談が飛び回る時であっても彼は親日的ともいえる話が多かった。私は前に彼を京都の国際日本文化研究センターの所長であった河合氏に紹介し、客員教授として来られるるように、また鹿児島大学へ集中講義などを紹介したことがあるが、私が忘れたことを彼は恩恵のように語ってくれた。
 猛暑の中でも下関の唐戸市場と功山寺などを案内した。功山寺では住持僧であり、京都大学名誉教授のカント哲学者の有福先生に会って談笑と記念写真を撮り、我がマンションでは互いに近況報告的な話が長く、寝る時間をはるかに過ぎていた。彼の妻の翻訳書『私の人生を幸福にしてくれたあなたへ』を読み始めた。原著はドストエフスキーの妻のアンナドストエフスキーである。原著者と翻訳者の内助の功の話が重なるようで混同したと言ったら彼ら夫婦は私の家内とも重なっていると言ってくれた。三人の「内助の功」の話になってしまった。速記士となったアンナがドストエフスキーの口述を明文化し「罪と罰」のような名作を生み出すようになったことが実に名文として綴られている。今日は関門花火大会に数人が加わって賑やかになるだろう。

非常識

2013年08月12日 03時57分27秒 | エッセイ
 2回目の「楽しい韓国文化論」のオープニングの公開講演の講師がようやく決まった。今春韓国嶺南大学校の日語日文学科の専任講師となった堀まどか氏に決定。彼女は本欄で既に紹介したことがあるが、下関と縁の深い、また私の研究と関連性が強い方である。最近彼女の博士論文が名古屋大学出版から『「二重国籍」詩人 野口米次郎』の研究書を出版し、それがサントリー賞受賞となった。彼女は下関市の豊浦町湯玉出身の木村忠太郎の血を引いている。木村は日韓併合の前に韓国の南海の巨文島へ移民し、日本村を作り、敗戦とともに故郷へ引揚げていた。そのお孫さんに当たる方が現在も住んでいる。1980年代から私は調査に訪ねていて、お付き合いいただいている親族のような関係である。特に木村の孫の堀麗子氏と、その長男と二男の堀研氏(広島市立大教授)と堀晃氏は有名な画家である。堀研氏の娘がまどかである。またその娘まで6代を知っている関係である。そのまどか氏が韓国へ行っている。何と歴史の逆戻りが感じられるような感であり、私とも奇縁のようである。
 彼女が登壇して語る題は「韓国人の常識、日本人の非常識」である。何をどう語るか興味津津である。最近下関に来られたある女性は食べ物全てが合わなく、韓国からもってきて食べるか、夫を残して韓国で生活するのが常として往来していたので日本での適応がむずかしいと思っていた。その彼女が一年もたたないうちに日本が大好きになり、日本で永住したいと言ったという。何という変化であろう。何があったのだろうか。
 留学生たちに「留学は人を変える」という内容の話をしばしばしているが彼女も変わったのであろう。。国や社会が異なり、「非常識」が目障りになることが多い。しかしそれによって人が変わることがある。人は常識から非常識へ変わるかもしれない。その逆も可能である。子供時の価値観や家族親族との狭い人間関係の思考構造で生きる常識、そしてそこから飛び出し、自分にとっては非常識に出あい、思考を変えていけるのである。(写真左)

動物看護学コース

2013年08月11日 05時42分18秒 | エッセイ
 東亜大学に新しく動物看護学という日本初の警察犬訓練士補、動物看護師と博物館学芸員などの資格を取得する、専門家となることが出来るコースができる。その情報宣伝チラシを作るための犬の写真には我が家の犬も候補となっている。まさに愛犬国、愛猫国ともいえる日本で愛犬猫大学があっても良いかもしれない。我が家も愛犬ミミの存在は大きい。人によっては愛犬を家畜飼育のように見る。犬を食肉としている民族もあって、そう思うのも当然かもしれない。また楽しい玩具のように考える人もいる。多くの子供はそのように扱って飽きると目をそらせてしまう。あるいは番犬など労働犬としてさまざまな機能が注目される。
 一昔前までは韓国では食肉と愛犬の論争もあったことを覚えている。そのなかで我が愛犬との生活はまるで被差別の辛い経験であった。アパートの中の「飼育禁止」の命令も受けたことがあって、引っ越しもした。また引っ越しのトラックに犬と一緒に乗ることが許されず大変困ったこと、犬が病気で病院に連れていくのにタクシー乗車禁止されたことなど涙の年月が長かった。私の友人は犬の毛が嫌だと常に文句を言っていたが、犬が死んだ時には彼が車を用意してくれたことには感動した。アパートでは次第に理解していただき、当時の愛犬の名前で「次郎の家」「次郎パパ」「次郎ママ」と呼ばれることとなった。
 犬を連れて日本に来る時は両国の犬文化の格差で苦労と配慮を受けた。その話はロングロングストリーである。動物看護学コースは犬だけではないが、犬を例にしても家畜や玩具ではない、命を大事にする人間文化を基本的に考えるところになってほしい。

「楽しい韓国文化論」9月から

2013年08月10日 05時54分18秒 | エッセイ
 朝から韓国からの留学生の父兄たちと談話、私の留学体験から人生論を若干参考までに披露した。同僚の山本達夫氏としものせき映画祭作品のためにナチス関連の映画を数編見とおした。続いて日韓親善協会の役員たちと第二回目の「楽しい韓国文化論」の日程調整など打ち合わせをした。内容は初回9月7日2時から久間直樹氏による公開講演「明太子の発祥地」無料ではじまり、2回目からは非公開で行う。 9/14 柳鐘美氏「食事文化」、10/5朴仙容氏「餅作り」、 10/19崔吉城「焼き肉」、 11/2柳鐘美氏「キムチ文化」、 11/9崔吉城:「味付海苔」、 11/23李良姫氏「観光と食文化」であり(募集定員30人)、10月11-13日は崔吉城の案内で「板門店旅行」とソウル宮中料理を楽しむ(10人程度)と計画した。
 その会議中、呼び出しの電話で驚いた。夜の予定を思い出し、NPO田中絹代記念館総会に遅れて出席した。映画館での映画鑑賞とは異なる私の映画祭の構想を主張した。「市民と語る」ことである。懇親会の締めくくりのことばでは出会いの場を多く作りたいと述べて、急いで鞄を引っ張って出たが、忘れ物で再入場のような照れくさに「お帰り」と笑う声を耳にしながら携帯を探したが見つからず、鞄の中からのベル音で一斉に笑われて、送っていただいて無事帰宅した時は私の寝る時間が過ぎていた。約束を忘れ、遅れても許されるような高齢者になってしまってはいけないと戒めた。遅れるよりは欠席を選んできた私のポリシーが崩れたようで寂しかった。

 

下関映画祭実行委員会

2013年08月09日 05時30分53秒 | エッセイ
 連日35度前後の猛暑の中、集中講義から帰って一昨日夜9時まで「しものせき映画祭」実行委員会で上映作品の選抜作業を行った(写真)。委員たちが推薦した20篇程をめもしながら数時間検討しても白紙に戻して考えることとなった。基準は面白さ、情報性のあるものなどの意見があったが、私は大学での上映はそれに相応しく、生き方へのメッセージ性のあるものを強調した。最近私は講義でも映画・映像を見せながら議論することが多いことは本欄で時々触れたとおりである。先週広島大学国際協力研究科で「植民地文化論」の講義でも映像を多く使った。枝川未来さんのレポートが届いた。本人の了解でここに紹介する。映画作品選抜にも参考になると思う。彼女は全国テニス選手でもある。

 私が、この講義において印象的だったことは、「モノの見方・捉え方」である。講義の中で、自分のテニスの試合の映像を見たとき、私は、今までとは全く違った「映像のおもしろさ」を感じた。私は、何度もその映像を見たことがあったにも関わらず、何となく見ていたために、その映像から読み取れるさまざまなことに気づかなかった。先生に、「これは、きっと相手の関係者が撮影したものでしょう。」と言われるまでは、注意を払って見たらすぐに読み取れることにさえも気づけなかった。また、私は、すべての映像には、撮影者の何らかの意図があると考える。講義中に例に挙げられていた、炎を何の動きもなく撮り続けられている映像について、楊さんは、「撮影者は何の意味もなくただ炎を撮り続けているだけ」と話していたが、私は、そうは思わなかった。ただ、何の意味もなく炎を撮り続けるという行為には、撮影者の何らかの感情があり、何らかの意味があると思った。また、サッカーの解説の例で、先生は「解説ではなく応援だ」と話されておられたが、私は、ワールドカップなどのサッカーの解説は、「解説」だとは受け止められない。彼らは、「日本のサポーターを盛り上げている」と感じられる。テニスの世界大会で、日本人が出場していない試合のときは、当然のことだが、サッカーの日本代表の試合のとき、または、テニスで日本人プレーヤーが出場しているときとは、大きく異なった解説がされる。解説者は、どちらの立場にも立たず冷静に解説しているように見える。解説者の感情が入ってしまった瞬間に、解説者は「解説者」から「応援団」として捉えられることに改めて気付いた。
映像でもう一つ印象に残ったことは、日本兵が、マレーシアに進出し、イギリス人から宝石類や時計等を奪い取っていたことについてのビデオに対する見解である。先生は、日本兵がこのような行為をしていたことはあまり知られておらず、この映像を見た人びとにショックを与えたと話されていた。私は、勉強不足であまり知らないためだろうか、その映像に対してそこまで大きなショックを受けなかった。それは、日本軍が当時、虐殺や、女性に対する性暴力等、他国の軍人が行っていた残虐で非人間的ともいえる行いと全く同じことをしていたことを浅くだけれど知っていた。だから、日本軍がこのような非道な行為をしていると知っても驚かなかったのだろうと思う。
「捉え方」「見方」は、「噂」や「偏見」にも関係していると思う。人びとの間で広まる「噂」の「怖さ」について私が、そのとき浮かんだことは、Nonviolent Peaceforce Japan(以下NPJ)という国際NGOの理事長である大畑氏の話である。NPJは、紛争地で非暴力的手法に基づく介入を行っているが、彼らの役割の一つに「誤解」や「偏見」を解くということがある。紛争地では、恐怖心や敵対心から、意識的または無意識的に、誤解を招くような噂が広められることがあるとされる。彼らは、お互いの真相を聞き、そのような誤った噂を断ち切る活動を行っている。「噂」が誤解を招き、人々の対立が深まることを考えると、その「噂」の真偽を慎重に判断することも人びとにとって大切なことだと感じた。「噂」「映像」両者とも、捉える側の感情や見方によって、同じ事柄についてでも全く違った様に伝えられていくのだと感じた。
今回の講義で「性」に対しても「捉え方」「見方」はポイントになると感じた。「性」に対しての議論が行われたが、まず、感じたことは、私は、愛があってこそのセックスだと考えていた。それが、正しいことであると考えて疑ったこともなかったが、それが、西洋から伝えられたキリストの教えであるということを考えると、もしかすると、それは西洋への憧れ的なもので、西洋の思いのままになっているのかもしれないという奇妙な気持ちになった。今までそのことに対して疑うこともなかったのに、考え方次第ではこのような捉え方もできるのかと思った。「性」を売ることに対しての議論では、私は反対ではない。それは、需要と供給の関係であり、一種の職業と捉えればよいと思う。しかし、それは、私の視点から見ると、かなりきつい職業であると考えられる。「性」を売る彼女たちは、「商売」として割り切らなければ耐えられないと思う。もし、私が好きではない人とセックスをする場合を想定して考えると、なるべく何も考えず目をつぶりながらただ時間が過ぎていくのを待つ、もしくは、好きな人を想像するという方法しかその場を乗り切る方法は思いつかない。そして、また、彼女たちは、お客さんを好きになることも許されない。ということは、嫌いな人に対しても、好きな人に対しても感情を持つことは許されないのではないかと思う。すなわち、自分の感情をどれだけ抑えられるかということだ。と考えると、精神的苦痛を伴う職業だと思う。しかし、この見解は、同じ女性としての私の視点であり、男性から見ると、また全く異なった「見方」ができると考えられるし、実際に、「性」を売る彼女たちの気持ちは、私とは全く違ったものであるかもしれない。
以上に挙げたいずれのテーマでも、「見方」「捉え方」ということを考えさせられた。同じ映像または、同じ話を聞いてもその捉え方によって、全く異なった伝え方がされる可能性があるし、それが原因で、全く異なった状況に発展する可能性もある。「見方」「捉え方」に対して考えると、そこにはその人の感情が大きく関わっていると思われる。「見方」「捉え方」を考えることは、新たな視点からの発見もあり、興味深かった。

いわば「慰安所」従業員の日記を読んで

2013年08月08日 05時39分56秒 | エッセイ
 毎日新聞昨日(8月7日)の朝刊記事(ソウル澤田克己)「慰安所」従業員の日記」を読んだ。アメリカに慰安婦像を建てるなど日韓で微妙な争点になっている時点での重要な記事である。私の知り合いの二人の木村幹と安秉直両氏のコメントも載っているが私は先ず原本の写真と抜粋の文をきちんと読んだ。この抜粋文は全文ではないということを念頭においてではあるが、なるべく客観的に読んでみた。さらに日韓両国のネット上の報道の記事も読んだ。木村氏のいう通りにこの日記は1942年夏から44年末までの東南アジア滞在中に慰安所3カ所の帳場で働いた朝鮮人男性が残したものであり、客観性が高い。しかい客観的に読むということが辛いことでもあると言える。いわば慰安婦問題を決着付けるほど重要なものであると思った。
 日記はハングルと日本語が混じっており、私の日記のように日韓の言葉を混用して生活している。まず抜粋文を読んだ感想は戦場における遊郭の置屋のような雰囲気であると感ずる。宮城遥拝、連隊本部に報告、コンドームなどは軍国主義時代の戦時を表しているが(遊郭のような)「翠香圓」など(券番のような)「組合」、慰安婦たちの厖大な額の送金などは「稼業婦」という。組合とは植民地時代日本政府が管理のために日本式の経営方式を朝鮮に持ち込んだものと同じである。組合会費が2円であり、1万1000円の送金などのほかに、募集、妊娠、結婚などについて書かれている。現金代わりに「軍票」が使われ、軍や役所との関係があった。
 この日記をどう読むべきであろうか。軍との関係からは慰安婦を連れて連隊本部に新年のあいさつに行ったことや、連隊本部から定期的にサック(避妊具)を受け取ったといい、軍から移転命令があり「慰安婦一同は絶対反対」したが、結局は「移すことになった」など軍との関係があった。軍から宿舎の提供を受けたということもある。しかし「今日も軍人の外出が多く、昨日の最高収入をはるかに超過し、2590円余りの最高記録だった」ということはなにを意味するか。基本的には軍の外枠にあることを意味する。外郭営業の慰安所、遊郭であり、コンドーム配給など衛生的な問題で軍と関係を持ち軍票が利用されたと思われる。日本軍は、定期的に慰安婦を検診し、性病にかかった場合は入院させた。
 他方遊郭類として読める。元慰安婦が結婚したので「知己の人を呼んで祝賀の酒を飲むと誘われた」という。帝国軍の組織の中のものとは思われない。
 韓国のネット上の報道にはこのような部分は含まれていない。「慰安所を他人に譲渡する」「慰安婦を募集する」「具楽部が慰安婦として抱える」「帰郷」「慰安婦の貯金」「送金」「銀行3万9000円送金」などは民間経営であったことがうかがわれる。私は慰安所とは軍組織の外側にありながら軍と密接にかかわったと考える。

平和宣言

2013年08月06日 22時35分25秒 | エッセイ
 毎年8月は日本の被曝が想起される。日本は被害国として認識する月ともいえる。今度の広島平和記念式典でも「平和宣言」や体験談などで「日本は唯一の被爆国である」ことが強調された。そして北東アジアの非核兵器地帯の創設への提案もなされた。被曝の記念式で被害を強調するのは当然なことである。外国人が多く参列し、英語のスピーチも流れ、国際的であった。しかし元被植民地や元占領地であった国々は共有しない。その直前には北朝鮮が朝鮮戦争の停戦・休戦の日を「勝戦記念日」式典を行ったが、他の国は共有できなかった。日本の被曝は日本だけのものではない。それは世界へ平和を宣言をするものである。
 私は平和宣言を聞きながら旧植民地への配慮が足りないと言わざるを得ないと思った。過去日本が主にアジアの多くの国を植民地や占領で迷惑をかけたことは事実であり、被曝で民間人が大量虐殺されたのも残念な事実である。つまり日本は加害国でありながら被害国であることである。加害国であったことは歴史的な事実であり、正しく認識すべきである。植民地・戦争・占領がなくては被曝を語れない。それが正しい歴史認識であろう。国家は歴史を正しく教える義務がある。続いて長崎でも被曝と被害が強調されるだろう。平和宣言に正しい歴史観を含めてほしい。

職業倫理

2013年08月06日 04時58分42秒 | エッセイ
4日間の集中講義を完全に終えた。帰宅時には原爆記念行事の関係か混雑していた。その広島駅ホーム内で中国から来た教え子の金駿さんと娘の信ちゃんと昼食をとった。信ちゃんは中国の小学校6年生だが日本の小学校へ編入し、来年中学校の入試のために猛勉強中だという。中国で優秀な子でありながらなぜ日本の学校へ編入させたのか。競争の激しい中国より日本の教育がよいと評価しているからだという。
 金氏は杭州の浙江工商大学の教授や韓国学研究所の所長をしている。彼は研究者として優遇されて、大学院で週1時間だけ講義を担当しているという。彼によると一般的に中国の大学は日本の大学より資本主義、能力主義で運営されているという。一例として一般の教員は3分の1の基本給だけ、論文などで業績が評価された教員は一般教員の数倍給料も高いという。実際その差は驚くほどであるという。中国の目眩ゆい経済成長がこのような能力主義のシステムにもよるのかもしれないと思われた。日本でも国立大学で研究費の傾斜配分などが行われているが、多くの私立大学はまだ年功序列により研究業績は配分にほぼ影響しない。
 話を聞きながら乱暴な近代化が行われていると感じた。日本も明治改革では国家権力によって革新が多く行われた。そして1世紀の間人権や民主化が進んできて、さらにクモの糸のように規制が張られ定着してきているのでこれ以上の改革は難しいように思われそうである。能力主義と合わせて考えるべきことは職場は共同体という意識への配慮である。しかし今日本の多くの大学では教員に個人研究室を与えているが研究するというよりは閉じ込もる場所になって個別、孤立化している。教員たちはマックヴェーバーの職業倫理を意識してほしい。

日韓関係へ提言

2013年08月05日 05時05分28秒 | エッセイ
韓国では兄弟喧嘩を見て「喧嘩しながら育つ」といい、夫婦喧嘩は「刃物で水を切るようなものである」といい、「喧嘩」という言葉や諺を肯定的に表現する場合が多い。喧嘩は多いが、大体の喧嘩は口論であり、暴力になることはほぼない。暴力といっても鼻血ぐらいである。私の友人の日本人の人類学者が数十年前韓国に訪ねて来た時、私は彼を大邱の西門市場へ案内したことがある。市場を歩いて4件ほど口論喧嘩を見かけた。喧嘩を見物する人が多かった。私は気にしなかったが、彼は驚いた表情で私に聞いた。「何人くらい死者が出たのか」と。私は笑った。彼は後に日本人からみた韓国人の喧嘩を分析した論文でそれを触れている。私から見て、日本ではじっと我慢していて静かに刃物で刺すような事件が多いと感ずる。口論や喧嘩でもやったら解決されたような問題での殺人が多いと感ずる。韓国人の喧嘩は日本の相撲のようなものである。私は日本の相撲を初めてみて笑ったことがある。塩を巻き、前準備のような仕草、パフォーマンスが異様で、まるでショーを見る感じであった。
 私は日韓関係がギクシャクするのを兄弟喧嘩のように見ている。私は半世紀ほど日韓を往来して生きてきているが、戦前は別として、国交のない関係(今でも北朝鮮)時期を含めて最悪の関係が長く続いたが「冬のソナタ」以後友好関係が急進して最良好関係であった。現在はさまざまな問題、主に政治的に日韓関係がギクシャクし冷たくなっている。しかし両国の民衆レベルでは親善が進んでいて、今は政府やメディアの宣伝に一方的に振り回されることは少ない。私は今の関係が最悪の関係とは思わない。兄弟関係のように見ていて、つまり喧嘩しながら親しくなると期待している。
 韓国側にいう。多かれ少なかれ日本への開放政策が韓国の発展に有効であったこと考えてほしい。その点北朝鮮とは根本的に異なる。韓国は今眩しいほど経済的に発展してきた国であり、その韓国から日本を見ると老化現象が目立ち韓国に負けて廃れていくように感じるかもしれない。しかし老化現象も韓国より先進していることを意味する。5年あるいは10年の内に韓国も高齢化時代を迎えるだろう。
 日本にいう。日本は先進国であり、敗戦国であることを自覚すべきである。日本はもっと謙遜あるべく、戦争で被害を受けたこともあるが、基本的には戦争、植民地、占領などで主にアジアに広く加害したことを反省すべきである。加害と被害を総合的に反省すべきである。
 在日にいう。日韓の間には「在日」がいる。私もニューカマーの一人として在日社会へ溶け込もうとしている。しかしオールドカーマーからは私は異様な存在かもしれない。在日はマージナルやハーフではなく、ダブルだという。二重文化者的存在として貴重である。彼らは兄弟喧嘩の仲裁者的な存在であると思う。民族によるアイデンティティだけではなく、韓国文化を持ちながら日本文化へ溶け込むべきである。むしろ日韓の両文化を遠ざけている人が多いのは残念である。日韓関係へ積極的に提言など発信するよう願う。

脳は通信システム

2013年08月04日 04時50分32秒 | エッセイ
 集中講義の中,金田晉先生に昼食をご馳走になった。彼の娘さんも同席した。娘と言っても立派な「先生」であった。脳医である。四川料理の味を楽しむ暇もなく、脳に関する質問を浴びせてしまった。私は「親子」の年齢差があるのに私が子供役の質問ばかりであった。脳はコンピューターシステムと似ているのかの質問に「はい」と言われパス、脳は多くの潜在量を持っているが実際使われているのはたったの20-30%。脳自体は永遠に生成するならなぜ新しく細胞を作れないのかの質問には脳は通信システムであって骨肉などの生体は別のメカニズムであるといわれ、私は「なるほど」を連発した。脳の神秘の講話を楽しむ一方、永遠に生きることが出来ないことには失望であった。奇襲質問、なぜ脳医師になったのか。父親のように東大の美術科を卒業してからまた一から医学を6年間、総合して10年間の医学の教育を受けた。長い年月をかけたのは?彼女は「面白いから」。なぜ美しく感ずるか、美味しく感ずるか、私の質問は果てしなく続いた。コンピューターの話ようになった。
 教室に戻ってコンピューターを開いて講義を続けた。枝川さんは全国的なテニス選手、彼女の試合の映像を見た。後ろ姿しか見えないのはカメラの焦点は彼女ではないこと、審判も経験していて、客観的な立場を取ることは難い。話は「中立的な生き方」の問題点になった。たとえば日韓のスポーツ競技にどっちにも応援せず中立的な態度は望ましいか。アナウンサーなどではない一般観衆はどちらかを応援した方が面白いからである。この面白さがなくてはゲームは成り立たない。
 話はプロパガンダへ移り、プロパガンダとCM、プロパガンダを超えて、映像の本質に迫って考えるようになった。映画「陸軍」の終わりの部分だけを見せて、それがプロパガンダ的であろうか。目的や意識を持つことはどうであろう。田川さんは子供教育の目的を教え込むことへの憂い、私はルソーの自然教育観を長く話した。楊さんと一緒に「広い広大」のキャンパスを横切って歩いた。20年近くこの大学で講義が出来ることに心から感謝した。講義は今日も明日も続く。