猛暑が続くという気象予報が脅威のように聞こえるが、その峠が超えたのではないかと経験から思った。その通り昨夜は海辺の高層の我が家は肌寒く感じた。暑中、日韓で8月15日の相反する記念式を映像で見ながら複雑な気持ちであった。日本の「終戦記念式」とは異なって韓国の「光復節」の、それぞれ1945年8月15日正午の時間を歴史的に重要な時刻として共有している不思議な日である。「アラブの春」の国々では民主化がまだまだ安定せず社会的、政治的に混乱が続くように、日韓関係もまだまだ平和が定着してはいない。日韓のこのような相反する政治的な不安定の「歴史の猛暑」はいつ峠を越えるのか、失望感もある。東アジアでは国際化やグローバル化は無理であるように感ずる。鎖国や「入国禁止」の時代がむしろ良かったのように逆説的にも思うこともある。日本人や韓国人はまだまだ国際人になっていないので日韓関係がぎくしゃくしているとも思う。
私は最近植民地と被植民地の間を生きた人に注目している。たとえばアイルランドのケースメント、南アフリカのセシール、フィリフィンのラザールなど。そして私の恩師の一人の尹泰林先生を思い出す(写真は1977年8月6日、先生は中央)。尹先生は植民地時代の京城大学を卒業して郡守、戦後には検事と弁護士、ソウル大学の教授として心理学を教えていた。当時私は先生の講義を受けた学生であった。私に英語の原書を貸して下さった。その頃、1961年朴正煕の軍事クーデターが起きた。先生は軍事政府の政策に反する講演をした。私はそれを聞いていた。先生は罷免され教授職が奪われた。警察留置場に収監された。しかし2年後の1963年文教部の副大臣、淑明大学総長を経て、慶南大学総長をしていた。私はその時慶南大学に職を得ることが出来た。先生の奥さんは韓国語を知らない私の家内を面倒見てくれた。先生から会いたいというお手紙をいただいてもいけないでいるうちに先生がこの世を去ったことを家内は今もとても残念がっている。先生は日本植民地と被植民地の間に正直、質素、勤勉の精神で一貫して生涯を貫いた。先生の名著『韓国人』(日本語)がある。
私は最近植民地と被植民地の間を生きた人に注目している。たとえばアイルランドのケースメント、南アフリカのセシール、フィリフィンのラザールなど。そして私の恩師の一人の尹泰林先生を思い出す(写真は1977年8月6日、先生は中央)。尹先生は植民地時代の京城大学を卒業して郡守、戦後には検事と弁護士、ソウル大学の教授として心理学を教えていた。当時私は先生の講義を受けた学生であった。私に英語の原書を貸して下さった。その頃、1961年朴正煕の軍事クーデターが起きた。先生は軍事政府の政策に反する講演をした。私はそれを聞いていた。先生は罷免され教授職が奪われた。警察留置場に収監された。しかし2年後の1963年文教部の副大臣、淑明大学総長を経て、慶南大学総長をしていた。私はその時慶南大学に職を得ることが出来た。先生の奥さんは韓国語を知らない私の家内を面倒見てくれた。先生から会いたいというお手紙をいただいてもいけないでいるうちに先生がこの世を去ったことを家内は今もとても残念がっている。先生は日本植民地と被植民地の間に正直、質素、勤勉の精神で一貫して生涯を貫いた。先生の名著『韓国人』(日本語)がある。