崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「土下座」

2014年02月25日 04時44分41秒 | エッセイ
帰宅して留守中の数日間の新聞から先週「川嶋擁子氏をめぐる談話会」朝日新聞と毎日新聞の記事、そして私の連載寄稿文の「土下座」(下段に全文)を読んだ。新聞記事を読んで川嶋氏と同じ小学校の生徒だった方で、わが家の近く住んでおられるという方から電話を受けたという。会わせたかったが川嶋氏は今朝アメリカへ発つ。残念であるが、電話でつなげることができたそうである。お二人がお話ができ、当時を思出だして泣いたというお電話もいただいて、近いうちにお会いすることを約束をしたということである。今度の沖縄調査で石垣島の正木氏が言った言葉が気になる。日本という国がいかに戦前の軍国主義時代の官吏制度をそのまま踏襲しているか、長い歳月を経ても革新できないという、耳に新しい良い言葉であった。
 私の寄稿文では日本人の「謝罪」「土下座」の文化をみながらなぜ戦争や植民地にはそれをしないかと考えた。おそらく原爆によって被害を強調しても、し過ぎることがないほど「被害国」という意識が強いからであろう。河野談話の検証の記事も見つけた。戦争を起こして敗戦国となった日本は基本的に謝罪の姿勢を取るべきである。一方韓国は植民地への批判的な姿勢は正しい。しかしそれは両国によって歴史を正すことで平和を求め維持するためであって、非難と誹謗や中傷のためではない。両国において歴史認識は内省の問題である。私が以前分析したように韓国の反日は国内用である。それを外交に使ってはいけない。


土下座

崔吉城

最近韓国の映画やドラマを見ていると細かいところに日本の影響が表れ、気になる。有名な作家の古川薫氏との対談の時、戦前の映画「陸軍」で出征の前夜に父親の肩を揉んであげるシーンを見て、韓国の習慣からは異様であると話した。男の肩は神聖であり子供や女性が触るものではないと言われて育ってきた私にとっては異様な光景であったからである。しかしその後多くの韓国映画やドラマで肩を揉んであげるシーンが出ていたので古川先生がどのように受け止めておられるのか、気になるところである。

もう一つ気になるのが最近の韓国ドラマや映画で韓国人の男が頻繁に膝を折って土下座して謝るシーンである。実生活とは異なる光景であり、私には異様な光景である。私の今日までの人生において膝を折って礼をすることはあっても土下座して謝るということはなかった。土下座は「降服」か「罰」を受ける時のしぐさであり、それ以外はありえない行動である。韓国ではそれほど謝罪の言葉や文化はなかった。西洋人のアポロジーや日本の「すみません」「もうしわけありません」に対応する言葉が韓国語にないわけではないが、日本のような謝罪文化はない。

土下座するほど間違ったことなく高齢者になっている私であるが、振り返ってみると私にも土下座すべく危機があった。私は物を簡単に捨てる習性がある。しかし日本人の家内はなかなか物を捨てがたいタイプである。私が判断して家内の物を捨てたことがある。私が捨てたものを彼女が探しているのを知って私は困ってしまった。これは私のミス、大失敗、結婚後一度も夫婦喧嘩をしていないという自慢話が無効になりそうであった。どう謝罪するか、心理的に困境に追い込まれた。結局私が間違ったことを謝り、無事に収まった。その位でも韓国の男性として例外的、精一杯であると思う。しかし最近の韓国の男性が頻繁に土下座するのは日本のドラマなどの影響だろうか。

西洋社会には勝利宣言とともに敗北宣言がある。英語圏にはアポロジー文化があるように日本には優れた謝罪文化があると私は思っている。日本でよく目にするのは会社などで間違った時、長いデスクを並べて責任者が頭を下げてお詫びをする画像である。高級レストランでのメニューの問題でも数多くの謝罪の映像をみた。私にはなんと日本人は簡単に罰を受けるような謝罪をするんだろう。その日本がなぜ植民地や戦争と侵略に対しては謝罪をケチるのだろうか。いろいろなことがあってもアジアの平和維持が難しいのは日本が逆に原爆などを持って被害国に変身したからではないだろう。今、韓国側の慰安婦問題などは無理な主張だと思うが、日本の植民地と戦争に対しては土下座をするくらい、心 から謝罪すべきだと思う。

日本は世界から、多くの人から好かれる国である。しかし広くアジアには反日文化圏がある。アジアに向けて、より謙遜、寛容が必要である。領土が大きい中国よりもっと大きい大国心が必要である。
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