崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

謝る文化

2017年01月27日 06時08分52秒 | 日記

  先週ワンアジア財団から多くの学生たちに奨学金が授与され、感謝している。授与された学生たちは感謝しているだろうか。私は留学時代に受けた奨学金や支援には今も感謝している。それは恩返しすべきだという心の負担ではなく、ただ感謝の心である。それが「礼」といえる。私は子供の時から中国の古典の話から中国は『礼記』の国だと聞き慣れている。その影響は東アジアに広がっている。その「礼」とは何だろう。それは感謝の心の文化であろう。
 謝罪とは何だろう。それは正義、倫理であろう。韓国や中国はなぜ日本に謝罪せよと叫ぶのかという。逆に韓国や中国には謝罪文化があるのか。伝統的に「礼」とは下の者が上の者へ尊敬あるいは服従の礼式であり、平等な心の関係とは言えない。昨日中国からの留学生に日常生活の中で家族や友人に謝るかと質問した。個人によって意識した知識人のことではない一般的に謝る、いわばアポロジーapology文化があるのか議論した。韓国と中国には「謝る文化」が存在しないのは私も経験的に知っている。したがってそちらから謝れ、謝罪せよというのは喧嘩、抗議、屈服させる戦略的な挑戦であることしかない。日本には謝る文化がある。その意味で謝ってきている。
사죄란 무엇 일까. 그것은 정의, 윤리의 문화이다. 한국과 중국은 왜 일본에 사과를 요구할까?. 한국이나 중국에 사죄 문화가 있을까? 전통적으로 「예의 」 라 하면 아래 사람이 위 사람에게 존경이나 복종의 예법이 있어도 평등한 마음의 사죄란 존재하지 않는다. 어제 중국에서 온 유학생들과 일상 생활에서 가족이나 친구에게 사과하는지 질문 했다. 지식인 외의 일반적으로 사과, 말하자면 apology 문화가 있는가를 논의 했다. 한국과 중국은 「 사과 문화 」가 존재 하지 않는다. 따라서 사죄하라라 부르짖는 것은 싸움, 항의, 굴복시키려는 전략 도전일 수 밖에 없다.
*위명온 화백의 그림과 창가의 꽃


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