崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「アジア主義」

2017年11月16日 05時36分33秒 | 講義

11月11日(土)の講演について地域に着実に生きる「長周新聞」(竹下一記者)に報道された。

 韓国の東亜大学校の韓錫政・総長の「関釜連絡船、あるいは文化的拡散 の出発点丨と題す論演会が、11日、下関の東亜大学でおこなわれた。韓教授は、戦前朝鮮と曰 本を結ぶ唯一の手段であ った関釜連絡船が地政学的に果たした役割を語っ た。とくに、「日本の傀儡である満洲」と朝鮮人や、戦後の韓国の産業化との関連について明らかにするとともに、「東亜とぃぅ言葉は戰前に曰本の膨張主義者により変えられたが、本来は東ア ジア人の団結と協力をとなえた用語である」と指摘。今日、学術を媒介にアジア人同士が対立ではなく共存を追求する意義を強調した。
 韓教授は、当時日本に留学した朝鮮人、近代文学や音楽界など著名な朝鮮文化人が関釜連絡船を利用したこと、さらに、知識層だけでなく、多くの貧困層も何の計画もなく労働者として日本に向 かった結果、「終戦当時の日本国内の朝鮮人は約 200万人に達した」ことにもふれた。そこでは、朝鮮人は日本での労働を希望すれば、釜山から下関に渡れたのではな く、渡航証のある者だけが乗船を許された。また、釜山が下関とともに、不法者や犯罪者の脱出を取り締まる関所でもあったことを明らかにした。
 韓教授はさらに満州事変以後、満州との連絡手段となったことに話を進めた。日本の植民地で、「五族協和」を掲げた満州に「朝鮮、日本、中国人の知識人・労働を含む数百万人」が流入するなかで、満州は朝鮮人と日本人の政治、教育、芸術交流の場になった。満州映画は北 東アジア一帯に広がった。
 韓教授はさらに、朴正熙(元韓国大統領)が、日本の陸軍士官学校を卒業したあと満洲国軍将校 となった経験をもとに、関東軍が進めたような軍事政権による迅速な「総合」開発によって、60年代の都市計画や蔚山エ業地帯を建設したことを明らかにした。朴政府には多くの満州出身者らが参加していた。
 韓教授はまた、「アジア主義」について、岡倉天心や中国の革命家・孫文が神戸で「被圧迫アジ ア人の団結と西欧帝国主義への抵抗」をとなえたことなどをあげて展開した。「アジア主義」がそ の後、「日本がアジアのぼう盟主といぅ志向」に変えられたことで、「日本帝国主義に栄養を提供」することになり、「大東亜共栄圏」にいたった反面の教訓を踏まえたうえで、「アジア人の協力は いくら強調してもしすぎ ることはない」と語った。
 そして、いま「韓国、中国、日本は歴史、領土紛争に巻き込まれている。学問の世界は、政治の世界から独立して、客観的な視点を介して、対立ではなく共存を叫ぶベきだ」と訴えた。

大学のホームページには次のように投稿されている。

記念式典では、前田晋太郎下関市長よりご祝辞を賜りました。また、記念講演には、韓国にある東亜大学校の総長である韓錫政(ハン ソクジョン)先生をお招きし、「関釜連絡船、あるいは文化的拡散の出発点」という演題でご講演いただきました。

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2 コメント

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国交正常化前 (西原経徳)
2017-11-16 17:47:36
少し論点がズレますが国交正常化前あるいは
正常化後も韓国から日本へ密入国する韓国人がかなりいました。
生活苦から脱出したのか政治的な問題なのか知る由もありません。
五十年以上も前のことですが漁船の船倉にギッシリと人間が詰め込まれ
水上警察署の前辺りで取り調べらしきことをしているのを見たことがあります。
家族で密入国したのか中学生くらいの男の子の手には日本語辞書がありました。
また山陰海岸線の駅には冬になると灯火を点けず上陸する小船や不審者を見たら
通報するよう看板がありました。
どの位の確率で密入国が成功したのか分かりませんが、かなり難しかったと思います。
さてお伺いしたいのは不成功で強制送還された人たちは国でどのような処罰を受けたのか
ご存知ありませんか。
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Unknown (崔吉城)
2017-11-17 10:26:24
貴重な証言ですね。このような内容で木曜日ごご3時から倉光誠氏が話をします。その時お話を聞かせてくださいませ。
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